第十章 消えない想い⑥
怒られるの承知で、それでもどうしても会いたい衝動を抑えることなど、出来なかった。偶然を装い、会えたのなら。淡い夢を抱きながら彷徨ってみたものの、宣言通り、晟也の姿はどこにもなかった。行ってしまった自分を恥じ、会えなかったことに落胆する日々が、続いていたが、それも今日で終わる。そう思っただけで、綾夢の心ははち切れそうだった。
朝から落ち着かない綾夢は、会社をお昼で早退し、逸る気持ちを押さえながら、晟也の部屋へと急ぐ。
連絡する。と言われていたのだが、食べきれないごちそうを作り、晟也を驚かす作戦である。
両手いっぱいに食材を買ってきた彩夢は、部屋の前に立っている人物を見て、愕然としてしまう。
「梶山、あなたがなぜここにいるの?」
「彩夢様。大変申し上げにくいのですが、比嘉様は引っ越されました」
「嘘よ。彼は今、計量へ行っていらっしゃるはず。もうお戻りになる頃だと思いますわ。明日の試合に備えて、今まで減量した分、力を蓄えさなくてはなりませんの。そこをお退きになって」
「彩夢様」
引き止める梶山を押し除けドアを開けた彩夢は、がらんとした部屋を見て目を瞠る。
「わたくしがこんなだから、ダーリンは嫌気がさしてしまったのですね」
「彩夢様、ご自分をお責めにならないでください。彼は、そのようなことで、逃げ出すような男ではありません」
「そうですわね。そうよ。試合会場へ行けば、その理由が聞けるはずですわ。梶山、すぐに調べて頂戴」
「彩夢様。それは出来かねます」
申し訳なさそうに言う梶山を見て、彩夢は自分で検索をし、全身から力が抜け落ちてしまう。
晟也の試合など、どこにも存在しなかった。
「彩夢様。お気を確かに」
彩夢は笑ってしまっていた。
電話を押し当てた耳には、無機質なアナンスの声が繰り返されていた。
「ここでは、お寒いです。お躰に障ります」
「いいえ。これは陰謀ですわ。わたくしには分かっていてよ。さぁ知っていることを、洗いざらい仰い」
「彩夢様」
そう言う彩夢の目は、狂気に満ちていた。
彩夢の頭に真っ先に浮かんだのは、源次郎だった。
「あの人の仕業ね」
「彩夢様」
「そうなのでしょう梶山。あなたもグルね。わたしから彼を奪って、今度は何を企んでおりますの?」
「彩夢様、お気を確かにお持ちください」
「あんまりですわ。わたくしから彼を奪うなんて」
「源次郎様は、とてもそのようなことが出来るような状態ではありませんことを、彩夢様も良くご存知ではありませんか」
そうなのである。源次郎は事件後、体調を崩し、一人で起き上がることが出来ない、躰になってしまっていた。
「では、椎野木ね」
思い当たることを片っ端から口にする彩夢が哀れで、梶山はこみ上げてくるものを必死に堪える。
「椎野木は改心して、郷へ戻りました」
「では誰なの? もしかして祥希さんが、まだわたくしを、苦しめようとしていらっしゃるの?」
「彩夢お嬢様、どれも違います。比嘉様ご自身が、お決めになったことでございます」
「嘘よ。そんなこと信じるものですか。彼がわたくしを傷つけることなど、しなくってよ。存じ上げてて、彼、わたくしを名前でお呼びになるの。抱きしめても下さったわ。彼とならキスだってできてよ。まったく、どちらへ行かれたのかしら。梶山、探偵を雇いましょう」
「彩夢様。比嘉様はそんなことを望んでおりません。思い出して下さい。比嘉様が最後に告げられた言葉を」
その声は、僅かに震えていた。
晟也は別れ間際、彩夢を力強く抱きしめていた。
「どんなに寂しくても、俺を探すな。俺も戦う。お前も戦え。そして強くなれ」
その言葉の意味も知らず、彩夢は笑ってこう答えてしまっていた。
「ええ、そうですわね。最強の恋人になって見せますわ」
「お前なら乗り越えられる。俺は信じている」
少し大げさに言う晟也がおかしくて、くすぐったくて、彩夢はこの人のためにも、早く立ち直ろうと思った。だからあんな言葉が、スラスラ出てきたのだ。
「会えない時間が、二人の愛を育ててくれるのですね」
躰を引き離し、見詰め合ったあれは何だったの?
「これからは誰かのためじゃなく、自分のために生きろ。終わりが見えない闇より、その先にあるだろう、奇跡を信じるんだ」
漸く漸くである。晟也が自分を好きになってくれた。そう思ったのに……。
あまりの無情さに、涙も出なかった。
壊れて行く彩夢を見せつけられ、この時ほど梶山は晟也を恨んだことはない。
「何の因果なのでしょう」
そう問い質す梶山に、晟也はただ一言、すいません。と頭を下げた。
見上げればあの日と同じ、灰色の空から白いものが舞い出している。




