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第九章  追憶の果て⑤

心に大きな傷を負ってしまった彩夢だったが、徐々に日常を取り戻しつつあった。

 「お久しぶりでございます」

 鬼頭との初対面は、こんな会話から始まったのである。

 退院間近の病室だった。

 正面切って会うのは初めてのはずなのに、そう挨拶され、彩夢は目を瞠ってしまっていた。

 「かわいらしいお靴が、見えておりました。あれは彩夢様がおいくつの時だったのでしょう」

 あっと小さな声を上げた彩夢が、目を伏せる。

 忘れもしない清江の涙を見た最初で最後のあの日、一緒に話していたのが、若かりし日の鬼頭だったのだ。

 「ずいぶんと大きくなられて」

 「知りませんわ」

 顔から火が出る思いで言い返す彩夢に、声を上げて笑う鬼頭だった。

 今ではすっかり彩夢の良き相談役である。


 「彩夢様、今日は大変体調がよろしいようなので、大事な報告をもう一つ、お伝えしようと存じ上げます」

 一通り話を終えた時だった。

 チラッと腕時計を見た鬼頭が、急に改まってこんなことを言い出したのである。

 珍しいことだった。

 「無理のようでしたら」

 気遣う鬼頭に、彩夢は首を横に振る。

 症状はだいぶ緩和されてはいるが、特定の人以外に会うのは、まだ抵抗を感じてしまうのである。そんな自分が悔しくて、情けなくて嫌だった。

 「わたくしなら大丈夫ですわ」

 気丈に振る舞う彩夢に、鬼頭が柔らかい笑みを浮かべる。

 「男性ですが、彩夢様もよく存じ上げている方でございますので、ご安心ください」

 悲鳴を上げてしまわないか不安だった彩夢だが、現れた人物を見て、顔を緩ませる。

 「いやあ、元気だったかい」

 「木庭様」

 「止せよその呼び方は。どうもこそばゆくって仕方ねぇ」

 もうこの笑顔に、一年も二年もあっていないような気がした彩夢である。

 感極まって涙ぐむ彩夢を見て、木庭は頭を掻く。

 「今日はどうなさったの?」

 目頭を押さえて聞く彩夢に、木庭は鬼頭に返答を仰ぐ。

 そうして伝えられた話は、彩夢にとって衝撃的なものだった。

 彩夢はじっくりと、木庭の顔を見る。

 言われてみればである。

 「お父様もご存知でいらっしゃったの?」

 驚きのまま問い詰める彩夢に、哲司が頭を掻きながら答える。

 「僕が知ったのも、ごく最近さ」

 それがおかしくて、彩夢は仕方なかった。

 「まぁみんなして、お人が悪いこと。わたくしに、どうして教えて下さらなかったの」

 機嫌を損ねたふりをする彩夢に、全員が大声をあげて笑う。

 「そう怒るな彩夢。いろいろ複雑だったんだ。明かしたくても明かせなかったことを、汲んでおくれ」

 哲司の言葉を受け、木庭が言い繋ぐ。

 「君には悪いと思ったが、これも会社を救うためだったんだ」

 こんなこと、易々と信じられる話ではないが、誰もの顔に笑顔があった。嘘でもいいと、この至福の時が続くなら、と彩夢は祈る思いでみんなの顔を見渡す。

 「あの通りの人だろ。どこからボロが出るか、ひやひやもんだったからね。君には本当に申し訳ないと思っている。この通りだ」

 頭を下げる木庭が、少年のように見えた。

 責めるつもりなど、彩夢に晒さらなかった。むしろ、この家に笑いを取り戻してくれたことに、感謝しかなかった。

 源次郎が捕まってしまい、会社の先行きだけが不安だったが、鬼頭と木庭が陰で動いていたらしく、手放すことなく何とか切り抜けられることを聞かされ、彩夢は二重の喜びに涙を流す。

 こんな幸せが、再びやって来るなど、正直、彩夢はないと思っていた。

 せめて、哲司の手術費用だけは残さなければと考えていた矢先の報告に、彩夢は子供の様に泣きじゃくってしまっていた。


 団欒に耽る家族から彩夢はそっと離れ、一人、バルコニーへ立つ。

 人の気配を感じ、振り返る彩夢に、木庭が手を上げてみせる。

 「まったく驚きだったね」

 「それはわたくしの言葉ですわ」

 「そうだったね。でも」

 そう言いながら木庭は、歓談している哲司たちを顧みる。

 「あいつはもっと弱い人間だとばかり、俺はずっと思っていたんだ。何をするのも鈍くて、躰は弱いし、すぐ泣くし、俺にとっては鬱としい存在でしかなかったのに、参ったな、あんな躰になってまで、娘を守り切ったんだな」

 「お父様が?」

 目を大きくする彩夢に、木庭がゆっくり頷く。

 「ああ。自分の躰を利用して、十三丘の正体を暴くって言い出した時には、度肝を抜かれたぜ」

 それを聞いて、彩夢はやっと合点がいった。

 なぜ主治医ではない、祥希の息がかかった病院へ緊急搬送されたのか、ずっと不思議だった彩夢である。

 「それでもし、命を落とすことになったら、って俺は全力で止めたんだけどね。誰に似たんだか、頑固で困る。しょうがないからあちこちに金をばら撒いてさ、お願いするしかないって、算段を踏んだわけですよ。でもあれだな。そう言うときに頼りになる人っていうのは、案外、凡人だったりするんだな。微々たる金額にも拘らず、良くしてくれたよ」

 「ま、どなたたちだったのかしら、わたくしからもお礼をしなければなりませんわね」

 フッと木庭が笑みを漏らす。

 名前を聞かなくても、彩夢には何となく顔が浮かぶきがした。

 「彩夢ちゃんは、そんなこと心配しなくてもいいよ。みんなちゃんと、分かってくれている人ばかりだからね。それよりさ、俺のお願いを聞いてくれる?」

 真顔に戻って言う木庭に、彩夢は静かに微笑み返す。

 

隠された秘密が明かされ、彩夢もようやく、再起を図るため一歩前へ踏み出すことに。


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