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第九章  追憶の果て④

 「鬼頭先生、ごきげんよう」

 門扉を潜った鬼頭は、窓から身を乗り出し手を振る彩夢を、眩しそうに見上げる。

 「彩夢様、お元気そうで」

 「ええ。おかげさまで、わたくし先生がいらっしゃるの、楽しみにしておりましたのよ」

 「それは光栄でございます」

 あの笑顔が本物であれと、鬼頭は願わんばかりである。彩夢が負わされた心の傷は、そう生易しいものではない。

 気丈に明るく振る舞って見せる彩夢だが、男性への不信感は否めない。

 待ち構えている彩夢には申し訳がないが、庭をつっききると、温室へと足を踏み入れる。

 椅子に腰かけ、鬼頭は深いため息を吐く。

 果たして、真実を彩夢に伝えるべきか、決めかねていた。 


 椎野木に近づいてきたのは、祥希の方からだった。

 すべてを見透かした祥希は、結婚しても彩夢のそばで働けるようにしてやることを条件に、晟也を瞠らせたのである。それは椎野木にとって、辛い現実を突きつけられることも、加味してのことだった。

 すべて祥希の思惑通りだった。

 椎野木の裏切りも、計算ずくだったのである。

 暗がりから彩夢を負ぶって出てきた晟也を襲い、奪った上着を羽織った椎野木は中へと入って行く。

 綾夢のためなら、椎野木に迷いはなかった。

 携帯の明かりを頼りに、倒れている祥希を見つけ出すと、椎野木は手にしていた傘を振り下ろす。鈍い感触が手に伝わって来ていた。

 罪悪感など微塵も感じていなかった。これで彩夢は自由になれる。それで罪を問われるなら、本望である。しかし、現実はそう甘くなかった。明るみに出た途端、椎野木は身を硬直させる。

 「若槻」

 カメラを手にした若槻の顔が、歪んだ笑顔を浮かべる。

 「悪いな椎野木」

 「どういうつもりだ」

 「それは、こちらが聞きたい」

 ハッと振り向いた椎野木の顔が凍る。

 息の根を止めたはずの祥希が立っていた。

 「この僕が、お前御時の裏切りに気が付かないとでも?」

 最初から仕組まれていたのだ。

 絶句する椎野木の顎を、祥希は指でしゃくりあげる。

 「お前とはここが違う。僕をなめて貰っては困る」

 そんなときでさえ、彩夢は祥希の足に縋り、許しを請うっていた。

 一巻の終わりだと思った。

 「君は、僕の犬。僕には逆らえない。逆らえば」

 祥希に髪を掴まれ、彩夢はおろおろと謝る。

 椎野木にとって、見るに堪えられない姿だった。

 「分かったね。君は僕の犬」

 問答無用である。

 「彩夢、謝ることはないんだよ。みんなこの男が悪いからね。あっそうだ、その傘、ちゃんとこの男に握らせておいてね。若槻、後は頼んだぞ」

 自分の無力さを、この時ほど、恨んだことはなかった。

 

 なぜ、急にそんなことを彩夢が口走ったのか、椎野木は自分の耳を疑う。

 裁判所からの帰り道だった。

 心のケアがまだまだ必要の彩夢にとって、証人尋問を受けるのは、重圧だったのであろう。車中、彩夢はずっと押し黙ったまま、外を眺めていた。それが何を思ったのか、身を乗り出した彩夢が嬉しそうな顔で言うのだ。

 「ねぇ椎野木、私が初めて好きになったお方を、存じ上げていて」

 「さぁ私には分かりかねますが」

 ちょっとした冗談だろうと、椎野木は苦笑する。

 「椎野木って、案外頭が緩かったのね」

 幼子のように目を輝かせて言う彩夢に、椎野木は目を細める。

 「そう申しますと」

 他愛もない会話が、楽しかった。

 「もう時効だから白状いたしますけど、わたくしの初恋の人は、椎野木、あなただったのよ」

 「えっ」

 驚いたあまり、思わずハンドルを切り損ねるところだった。

 「本当よ」

 嘘でも嬉しい言葉だった。

 その言葉が引き金になり、椎野木は決断したのである。


 証拠とともに、告発文を、警察へ送ったのだった。


 もうこれ以上、彩夢を傷つけたくなかった。顔の広い祥希である。こんな子供じみた手が通用するか、自信はなかった。失敗すれば、間違いなく、この世から消されるだろう。それでも最後の望みを託し、行動を起こしたかったのである。彩夢にとって、良き兄であり、ヒーローである自分でいたかったのである。


 桑井の訪問で、心を揺らす彩夢を誘導するのは、そう難しいことではなかった。

 彩夢が残して行った花を手に、椎野木は車を降り天を仰ぐ。

 舟木が、祥希に手を貸していることは、調べがついていた。

 彩夢が置き去りにして行った花を手に、椎野木は車を降りる。


 どのくらいそうしていたのか、鬼頭がふと顔を上げると、清江が立っていた。

 「これは奥様、おいででしたか」

 「ええ。彩夢の様子を見に」

 「そうでしたか。だいぶお元気になられたご様子で、何よりでございます」

 「心から喜んでいいものなのか、定かではありませんわ。それより鬼頭先生、今日は」

 「彩夢様から頼まれていた件で、参りましたのですが」

 「椎野木はどうなりますの」

 「情状酌量で、もうすぐ出られると思います」

 「まぁそれは良かったわ。何だかんだ言っても、椎野木がいてくれたおかげで、あの程度で済んだんですもの。心を改めて、新しい人生を送って欲しいわね」

 「全く同感です」

 「あの奥様」

 立ちかけた清江を呼び止めたものの、鬼頭はつい口を噤んでしまう。

 「主人のことなら」

 「違います。その話は後ほど、お屋敷の方で、説明させていただきます」

 「では何かしら」

 「奥様は、お気づきでいらしたのでは?」

 しばし見つめた後、清江が重い口を開く。

 「さぁ何の話しかしら?」

 そう答えるだろうと、予測していた鬼頭の口元が緩む。

 「大変失礼いたしました。では後ほど」

 凛と背筋を伸ばし去って行く清江に、鬼頭は被っていた帽子を脱ぎ頭を下げる。

 青磁の時も同じだった。

 このままだと壊れてしまうと、わが子の背中を押し、別の人生を送るよう仕向けたのである。


 矢張り、話すべきではないのだろう。

 椎野木が本当は何をしようとしていたのか……。


 

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