第一章 希望を胸に③
波乱を思わせる彩夢の初出社。この出会いが大きな波紋を招くことをこの時の彩夢は、まだ知らずにいた。
「あぶねぇな」
舌打ち交じりに言われ、彩夢は目を瞠る。
「おはよう。比嘉君、今日は早いねぇ」
「おはようございます。まぁちょっと」
チラッと彩夢を見たものの、晟也は気にする様子もなく自転車を引っ張り行ってしまおうとしていた。
こんな扱いを受けるのは、初めての彩夢である。
「おはようございます。わたくし」
これでもかというくらいの笑みで挨拶をする彩夢だったが、空振りで終わり、許しがたい気持ちでいっぱいになる。
「まぁ何ですの? あの態度」
「ああ気にしないでやってください。彼は、誰に対してもああいう感じですから」
怒り心頭の彩夢に、慌てて言い訳をする桑井だったが、何の効力を持たずにいた。
「まぁ何を仰っていますの? 桑井所長様わたくし、ここで何をするべきか、今はっきり分った気がいたしますわ」
きっぱり言い切る彩夢に、桑井は不安気な顔で訊き返す。
「そう申しますと」
「従業員教育ですわ。今後のことを考えますと、あのような態度、決して許されませんことよ」
息巻く彩夢に、桑井は眉根を寄せ困り果てる。
「今後と言われましても」
奥歯に物が挟まった言い方をされ、彩夢はじれったく思う。
「はっきり仰って下さらなければ、分らなくってよ」
どうにも怒りが収まらない彩夢である。
「あの方のお名前は、何ておっしゃりますの?」
駐輪所へ自転車を停め、中へ入って行く晟也を彩夢は目で追っていた。
「比嘉、比嘉晟也って言います」
「そう。しっかり覚えておきますわ」
「はぁ。一先ず中へ」
桑井に背を押されても、彩夢の目はしばらく晟也を追ったままだった。
事務所の中へ入ると有無なしで桑井が引いた椅子に彩夢は座らされていた。
お茶を淹れて来ると桑井は席を外し、一人にさせられ辺りを見回していた彩夢の目がふと止まる。
窓越しに晟也の姿があった。
晟也は壁に凭れ掛かり、携帯を弄って居た。
「お嬢様、どうかされましたか?」
桑井は彩夢が見ている方へ首を伸ばし聞く。
「あの方は、要注意人物ですわね」
「そう申しますと」
「わたくしと目が合いましても、挨拶の一つもしませんでしたわ」
至極真面目に言う彩夢に対し、桑井はどんな顔をすればいいのか思い悩んだ。
「それは大変失礼なことをいたしました。彼には私の方からきつく言っておきます」
「いいえ結構よ」
勢いよく席を立った彩夢に、桑井は目を大きくする。
「わたくしがしっかり申し上げてまいりますわ」
「お待ちくださいお嬢様」
その後の彩夢の行動は早かった。
急に影が出来たことに、顔上げる晟也へ綾夢は間髪を入れない勢いで、口を開く。
「あなたに、一言申し上げたくて、参りましたわ」
だが、晟也の反応は薄かった。
「わたくし、あなたへ話しかけていてよ」
まるで無視をする晟也から、彩夢は衝動的に携帯を奪い取る。
「そういう態度、よろしくなくってよ」
流石の晟也もこれには黙っていなかった。
「おい、何するんだよ。返せよ」
「嫌ですわ。わたくしあなたに意見があってよ」
「は? 何言ってんだお前、頭、おかしいんじゃないの?」
「NONNONNON。おかしいのはあなたですわ」
手を伸ばしてくる晟也から、彩夢はムキになって逃れる。
「返しやがれ」
「言っときますけどうちのサンタの方が、あなたより行儀がよくってよ」
「は? サンタって誰だよ」
「うちで飼っていた犬ですわ」
「犬? ふざけんなよ。返せ」
瞬発力は晟也の方が上である。
あっさり奪い返されてしまった彩夢は、もう一度取り返そうと手を伸ばして行く。
「五十嵐さん」
「所長、こいつ誰なんです? どうにかしてくださいよ」
しつっこく手を伸ばしてくる彩夢だったが、かわされた拍子に躰が急降下を始めていた。
「ったく」
服を引っ張り上げられ、彩夢はばつ悪くそっぽを向く。
一度のみならず、二度も晟也に助けられてしまった彩夢である。
「所長、今時間ちょっと良いっすか?」
何もなかったように為される会話に、彩夢は目を丸くする。
「今はちょっと」
「じゃあ後で」
「分かった」
WHY? どういうこと?
彩夢の頭の中を疑問符が充満する。
自慢ではないが、ここまでぞんざいな扱いを受けるのは初めてである。
日本でもアメリカでも一目置かれてきたと、自負している。
それが、この態度?
沸々と込み上げてくる怒りに、彩夢は頭がどうにかなりそうだった。
桑井に促されて事務所へ戻って来てからも、その怒りは収まることを知らないままである。
窓越しに見える誠也を、彩夢は睨む。
「……お嬢さま?」
行き成り桑井の顔が現れ、彩夢はギョッとする。
「さぞかし驚かれたと思いますが、彼に限らずここで働く者たちは皆、あんな感じですので、ご覚悟をお願いいたします」
桑井の理不尽な言葉に、彩夢は言葉なく見つめ返す。
「それはどういうことでしょう?」
「何と申し上げたらよろしいのでしょうか。えっとですね、庶民と申しますか、言葉使いも荒いですし、学歴もさほどございません。ですので、先ほどのような無礼は頻かと」
「まぁそうですの」
理解不能なことを言われ、彩夢は大袈裟に驚く。
この先が思いやられると、初めて二人の意見が合致した瞬間だった。
何気なく見る彩夢につられ、桑井もそちらへ目をやる。
そこには、チラホラ出社して来た従業員の姿があった。