第九章 追憶の果て③
政略結婚を迫られた西園寺彩夢は厳格な祖父、源次郎に刃向い、実力が試されることになる。配属されたのは末端会社であるマルシチ倉庫。源次郎に出された条件は、一年、身分を隠し結果を出すことだった。想像していた仕事とは違い、戸惑いは隠せずにいたが、持ち前の明るさで何とか前向きに取り組みだしたのだが、そこで事故を起こしそうになった彩夢を救ったのは、比嘉晟也だった。不愛想で取っつき難い晟也に次第に惹かれだす彩夢に、更なる試練が訪れる。それは、婚約者の十三丘祥希の存在である。彩夢の気持ちとは裏腹に、結婚の話が進み、同僚たちに身分が明かされることになる。しかし、話は思わぬ方向へと進み、晟也と被害者と加害者として対峙することになってしまうのだった。
彩夢が残して行った、ひなげしの花を手にした椎野木は車を降りる。
「もうすぐだよ彩夢」
この空のように晴れ晴れとした気分になったのは、久しぶりだった。待ったかいがある。ダッシュボードには二枚のエアーチケットが忍ばされてある。
ヒントは清江が漏らした一言だった。
失くしてしまった記憶の代わりに、楽しい思い出だけで埋め尽くしてやれないかしら。
ボソッと囁かれたその言葉が、椎野木の胸に強烈に突き刺さった。
桑井の登場は予定外だったが……。
時計へ目を落とす椎野木は、人の気配に気が付き顔を上げる。
見知らぬ男たちが近寄って来ていた。
懐に手を入れられ、椎野木は花を捨て逃亡を図ろうとするが、男たちの動きの方が若干早かった。
気が付かれるには、早すぎる。まだだ。
前を塞がれ、椎野木は惰性の笑みを見せる。
「椎野木耀太さんですね。署までご同行を」
後退る椎野木の両脇を、警察官を名乗る男たちが固める。
一瞬の隙を図るしかない状況だった。
「それならそうと、早く言ってくださいよ」
「命でも狙われる心当たりでも?」
冷静を装う椎野木に、そう聞いたのは、警察手帳を突き付けけてきた男だった。
「そういうわけじゃないけど、怖い感じがしたから。ここのところ物騒続きだったし、ついにお鉢が私にも及んだのかと、思っちゃいましたよ」
諂うように言う椎野木に、男はにこやかな笑みを浮かべて見せたが、手を緩めることはなかった。
「そういうあたりもぜひ、ゆっくりお聞かせ願いたい」
「これって、任意ですよね。お断りします」
警察とはいえ、これ以上手が出せないはずだった。
踵を返し、車へ戻ろうとする椎野木に待ったを掛けるように男の携帯が鳴り、様相が変わったのはすぐその後のことだった。
肩を掴まれ、椎野木はギョッとする。
全身から力が抜け落ちた椎野木が、二人の警官の手によってパトカーに乗せられ去るのを、道端で散った花弁がまるで追いかけるように転がって行く。
なぜ?
あの日、気が付くと彩夢は誰かに負ぶわれていた。
「畜生。何があったんだよ」
揺れる背中に耳を押し当て聞いたその声は、どこかホッとさせた。
「どういうつもりだ」
明るみに出た途端、グラつく背中で最後に聞いた言葉だった。
しかし思い出せたのは、そこまでである。
彩夢を連れ出そうとした晟也から取り戻そうとした祥希は負傷し、代わりに負ぶって逃げ出そうとしたのは、椎野木だったはず。だからあんなに安心が出来た。すべて説明が付く。疑うことなどどこにもないはずなのに……。
ドアノブに手を掛ける彩夢に、コップを拾い上げた舟木が穏やかな笑みで問いかける。
「彩夢様、自分を救えるのはたった一人だけ。もう気が付いていらっしゃるのでは?」
彩夢はすぐに答えることが出来なかった。
「自分の心に素直になるべきです。あなたを救えるのは」
手を掛けたままのドアノブが勝手に回り、見知らぬ男たちが入って来たのはその時だった。
「西園寺彩夢さんですね」
あとからやって来た男に聞かれ、彩夢はひきつった顔で頷く。
何が起きているのか、理解に苦しんだ。
二人の男に連れて行かれる項垂れた舟木と目が合う。
「あなたは自由になれる」
その言葉の意味は分からないまま、無残にドアが閉められ、彩夢は息が出来なくなってしまう。
昏々と眠り続ける彩夢の傍らで、やつれた和歌子が入ってきた清江に微笑みかける。
清江は何も言わず彩夢に近づき、震える手で頭を撫でる。
「わたくしに、もっと力があったら、この子にこんな不憫な思いをさせずに済んだのに和歌子さん、大変申し訳なかったわね」
「いいえ。お義母様だけの責任ではありませんわ。わたくしがもっとしっかりしてさえいれば、もう少し親身に、彩夢の言葉に耳を傾けていたなら、後悔は尽きませんわ」
「この子の躰は」
「思ったより軽そうですわ。薬もすぐに抜けるって、西條先生が仰って下さっておりますわ。あの男も良心の呵責があったのでしょう。如何わしい薬を飲まされたのは数回だけだったようですわ。しかし、まさか若槻と椎野木まで関わっていたなんて」
「すべて主人の不甲斐なさが巻き起こしたこと。あの人にはしっかり罪を償っていただくつもりです」
「お義母様も、お辛かったですわね」
気丈に振る舞う清江だったが、目頭を押さえる。
「因果応報なのでしょう。罪なき者が傷ついてしまうなんて、彩夢、本当にごめんなさい」
「お義母様、ご自分をお責めにならないで。この子も、そう言うに決まっておりますわ」
全ての幕引きは、清江だったことを彩夢が知ったのは、それから数日後である。
傷ついてしまった彩夢のそばで支えて欲しいと、清江たちに頼まれた晟也だったが、その心境は複雑なものだった。




