第九章 追憶の果て②
桑井が去った後も暫く、彩夢は茫然としたままだった。
清江に声を掛けられ、彩夢は我を取り戻す。
「大丈夫ですか」
「ええ平気ですわ。あの方には大変お世話になったのに、お返しの一つも出来なくて、心残りですわ」
「忘れなさい。あなたはあなたのふさわしい場所がおありでしょ。早くお行きなさい。先方のお母様がお待ちかねですよ」
どうしてここまで動揺してしまうのか、彩夢にも分らなかった。
清江に背中を押され、彩夢はやっと歩き出すことが出来たのだが、やはりどうしても気にかかる。
「おばあさま、わたくし」
「あなたは何も心配しなくていいのよ。すべてわたくしに任せなさい」
待ち構えていた椎野木が深々と頭を下げる。
車中、箱をもう一度ひざの上で開いた彩夢は、一つずつ中身を取り出し改めて見直す。
全く見覚えのないものばかりである。
かなり高価なものであるのは確かなのだが、最後にブレスレットを手にした時だった。
「それは祥希様から、初めて頂いたものですね」
「椎野木、これをご存知なの?」
「ええ。お嬢様、大変喜ばれておりましたから。よく覚えております。あまりに嬉しそうなので、おいくらくらいのものなんでしょうね。と私が聞きましたらお嬢様は、椎野木には、到底手が届かない額よって。柄にもなく、その言葉が私には引っかかってしまいまして、よろしければこちらをどうぞ」
「これは何?」
「お恥ずかしいお話です。男の意地と言うか、安物ですが、気に入って頂けたら幸いと存じ上げます」
「まぁかわいらしい」
彩夢は中身を取り出し、早速手に付けて振って見せる。
「喜んでもらって良かった。男冥利に尽きます」
「大袈裟ね」
「祥希様のと比べらてしまうと、恥ずかしい代物なんですがね」
「でも、わたくしが頂いてもよろしいのかしら? 椎野木もいい歳でしょ? こういうものを贈る相手がいらっしゃるのでしょ。その方に悪いわ」
「お嬢様は格別でございます。敵う相手など」
椎野木は言いかけ、ハッと口を噤む。
「全く椎野木はいつもそう仰って下さるけど、わたくしを買いかぶり過ぎですわ」
彩夢は、まったく気にも留めずにいた。
「お嬢様、男が女性にアクセサリーを贈るのに、こんな一説があります」
「あら何かしら?」
何の気なしに聞く彩夢を、椎野木はミラー越しに見る。
「ネックレスは首輪。ブレスレットは手錠。アンクレットは鉄環。そして、お嬢様がされている婚約指輪は、聖なる誓いだそうです」
その言葉に驚いてしまった彩夢が、顔を上げる。
「申し訳ございません。俗説でございます。自分のような身分のものが、おこがましいことをいたしました。そんな安物、お捨て下さい」
車を止めた椎野木が手を伸ばした、その時だった。
彩夢の膝からジュエリーボックスが落ち、足元で散らばる。
「お嬢様、大丈夫でいらっしゃいますか」
顔面蒼白の彩夢が、目を見開く。
一瞬だったが、彩夢の脳裏に何かが煌めくと同時に、恐怖が湧き上がって来ていた。
「彩夢お嬢様」
彩夢は心配をする椎野木から逃れようと、必死でドアノブを握る。
「僕はハンターが趣味でね、今度御一緒にどうです彩夢さん」
歪められた笑みを浮かべる、祥希の顔がそこにはあった。
「お嬢様」
引き留める椎野木の手を振り払い、彩夢は転がるように車から飛び出すと、タクシーに乗り換える。行き先は哲司が入院している病院だった。
震えが止まらなかった。
「お父様」
あるはずの父の姿は、すでにそこにはなかった。
「西園寺様」
「舟橋先生、父は、父はどうなさったの」
「思い出されたのですね」
ハッとして目を覚ました彩夢に、白髪の紳士が微笑みかけていた。
「お父様は」
「ご安心ください。西園寺様は無事でございます。それよりも思い出されたこと、話してください」
「わたくしは何も」
「そうですか。では次にかけると致しましょう。ひどい汗だ。喉が渇いたでしょう。さぁこれをお飲みください」
彩夢は思わず、差し出された水を払ってしまう。
祥希の長い指が小刻みに、ハンドルの上でリズムが取られていた。
「父親も会社も生きるのも、死ぬも、あなた次第ですよ彩夢さん」
その口元が、冷ややかな笑みを称えていた。
船橋が静かに微笑むその姿と重なって見える幻影に、綾夢は首を大きく振り、逃げ惑う。
判然としない怯えだった。
薄いベールに包まれて向こう側で、確かに何かが蠢いているのだが……。その先を考えようとすると、いつもこうなってしまうのである。




