第九章 追憶の果て①
「おじい様、彩夢です」
「入りなさい」
「ご挨拶に参りました」
厳格である源次郎の口元に、僅かだが笑みが称えられていた。
「これから、花嫁修業に行ってまいります」
「今日だったか」
「はい」
「ちゃんと可愛がられるよう、勤めるのだぞ」
「ではおじい様、行って参ります」
彩夢は不思議な気分だった。あれほど嫌がっていた結婚が、今は待ち遠しくて仕方がないのである。片時も祥希のそばから離れたくない。と今では真剣に思っている。急ぐ二人に待ったをかけたのは、清江だった。
結婚は家同士の結びつき。お互いが好きあっていても母親に気に入られなくては、彩夢が苦労する。と強く主張したのだ。
今更と顔を見合わせる二人に、清江は凛と構える。
間を取り持つ源次郎の言葉を跳ね返す清江に、折れざるを得なかった。
彩夢は門扉のところまで来て、ふと振り返る。
今年も庭一面をひなげしが埋め尽くしている。橙の花びらが一斉に揺れる中、清江が立っているのを見つけた彩夢は微笑む。
「おばあさま、今年も良く咲きましたわね」
「ええそうね」
「この花、おばあさまお好きでいらっしゃるのね」
こんな会話を何の躊躇いもなくできている自分が、誇らしかった。これもすべて、祥希という、素晴らしい伴侶に巡り会えたおかげである。
清江は数本摘むと、それを彩夢に手渡す。
「まぁかわいらしい。きっと祥希さんのお母様も喜んでくださりますわ。ありがとうございます。お部屋に飾らせて頂きますわね」
嬉しそうに花の香りを楽しんでいる彩夢は、後方から歩み寄ってくる者の気配など全く気が付いていなかった。
「彩夢様、お久しぶりでございます」
不意に声を掛けられ、彩夢は肩をビクつかせる。
鼓動が速まる胸を押さえ、顔を強張らせる綾夢に、桑井は深々と頭を下げる。
会わなくなって、ひと月……、もう少しなるか。会わない間に、すっかり桑井の髪は白くなり、顔のしわも一段と深くなったような気がする。にこやかな振る舞いも、どこかみすぼらしく見え、彩夢は目を細める。
「これをお返しに上がりました。裁判所でお渡ししたかったのですが、叶いませんでした。聞けば今日、こちらへいらっしゃるとのことだったので、押しかけて参った次第で」
目を瞠る彩夢に、くたびれた桑井の笑顔が返ってくる。
彩夢は言葉が出てこなかった。
なぜ、自分のジュエリーボックスを桑井が持っているのか、まるで思い出せなかった。立ち尽くす彩夢を見かね、清江が口を挟む。
「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
広い庭である。
清江は温室へ二人を招き入れ、ハーブティを淹れると出て行ってしまう。
桑井とて、男性と二人きりというこの状況に、綾夢は戸惑いを隠せずにいた。
しかし、綾夢は気を取り直し、桑井をまっすぐ見る。
清江が此処へ通すなど、あり得ないことである。夫である源次郎さえ、一切入れさせない。と哲二から聞かされている。それは言わば近寄るな。ということだと、幼心ながら感じとっていた。
「お元気でいらっしゃりましたか?」
「ええ。桑井所長こそ、どこかお加減がお悪いのかしら? 顔色がよろしくなくってよ」
「そんなこと、ないんですけどね。それより御婚約、おめでとうございます」
「心からのお祝い、ありがとうございます」
彩夢の皮肉めいた言葉に、桑井は苦笑してしまう。
「正式に御婚約された。と聞きましてね、是が非でも、これをお返しに上がらなければ、と思いまして。十三丘様からの贈り物なんだろう。と、保科さんたちが煩く言うものですから」
彩夢は中身を一つつまみ出し、不思議そうに桑井を見る。
「お嬢様が使われていた、デスクに残されていたものでございます。処分をと言われましたが、そのような高価なもの、私にはどうしてもできなくって」
「桑井所長、わざわざお越しいただいて申しわけございませんが、わたくし、このようなものに、全く記憶がございませんわ」
「参ったな。そう言われましても、これはあなたが十三丘様から頂戴した物で、これを見て」
そこまで言いかけて、桑井は髪を掻き毟る。
「これを見て、どうされましたの?」
事件の後遺症で、記憶障害を起こしている。という話は、多少なり聞かされていた桑井である。しかし、悔しさが先に立ち、どうしても聞かずにはいられなかった。
「おひとつお聞かせ願いたい」
一呼吸を置いて聞く桑井に、彩夢は小首を傾げる。
「どうして、あなたの身を案じて探しに行ったはずの比嘉君が、あなたを襲う必要があったんです? 本当のことを教えてください。保科さんも岡部さんも、自分たちが変なことを言ってしまったから、比嘉君があんな事件を起こしてしまったと、気に病んでいます。私も同様です。みんなあなたが残して行った言葉を信じて、心配して動いた結果です。なぜ、比嘉君は、捕まらなければならなかったのです?」
「申し訳ございません。わたくしにも分からないのです。何も記憶がなくって」
「この通りです。比嘉君を助けられるのはあなただけです。どうか助けてやってください」
「そう仰られましても、祥希さんを大怪我させた憎き相手。そうはいきませんことよ」
言い切る彩夢を、桑井は情けない気持ちで見つめ返す。
「不躾なお願いをして、申し訳ありません。お時間を取らせました」
そう言い残し、桑井が先に温室を出て行く。
1人残された綾夢は呆然としてしまっていた。
何かが心に引っ掛る気がしていた。それが何なのか、判然としないのことは確かである。
「綾夢さん」
「おばあさま、わたくし行かなくては」
一刻も早く、祥希に会いたい。抱きしめられたい。そうしなければ、自分がどうにかなってしまいそうで、恐怖が綾夢へ襲いかかる。そんな自分を癒せるのは、祥希だけ。
足をフラつかせる綾夢に清江が手を貸す。
「大丈夫ですわ」
微笑んで見せるその顔は、真っ青だった。




