第八章 委ねられた自尊心⑩
おぼろげな視界に映る椎野木を見て、取り乱したのは、病院へ運び込まれて三日目の夕刻の出来事である。
自分がどのような状況で見つかったのか、それよりも以前の話である。彩夢には全く時間の感覚と言うものが、抜け落ちてしまっているのである。ただ、心の奥底に染みついているなにかが、無意識に怯えさせているのは確かだった。
「お嬢様、彩夢お嬢様、ご安心ください。ここは病院でございます」
その声が誰のものなのか理解するのに、少し時間を用立ててしまった彩夢だった。
「もう心配いりませんよ」
椎野木に優しく微笑まれ、彩夢の脳裏にほんのり暖かな記憶が蘇ってくる。名前を呼べば、いつでも変わらないこの笑顔で、包んでくれる。どこで何をしていても、どんな場面でもこの笑顔が彩夢を支え続けていてくれていたのだ。
「椎野木? 椎野木なのね」
光を取り戻した目で言う彩夢に、椎野木は安堵の息を漏らす。
「ご不憫に。さぞかし怖かったでしょう。でもご安心ください。お嬢様をこんな目に遭わせた男は逮捕されましたから」
合点がいかない顔をする彩夢だった。
「気が付いたんだね彩夢」
無条件で振り返る椎野木が、顔をひきつらせ頭を下げる。
「祥希さん」
パッと明るい声で言う彩夢だったが、その手は立ち去ろうとする椎野木の腕を、しっかり掴んでいた。
「良かった。本当に良かった」
半歩ほど下がっただけの椎野木を一瞥した祥希が、彩夢の手を握る。
「祥希さん。わたくし……」
伏し目がちに言う彩夢に、祥希は言葉を詰まらせてながらも、言葉を続ける。
「もう大丈夫ですよ。彩夢さん、すべてはこの僕に責任がある」
「どういうことですの? わたくしに、何が起こったというのです? それにそのお顔のお怪我は、どうされましたの?」
「これですか。名誉の勲章。とでも言っておきましょうか」
話をはぐらかされ、不安を募らせる彩夢を、まるで楽しんでいるかのように、祥希の口角がわずかに上がる。
「彩夢さんのためだ。知らない方が良い」
「しかし、そのお怪我はわたくしのせいで、負われたのではありませんの?」
「彩夢さんが気に病むことはありません。それより僕がうかつだった。もっと君に護衛をつけるべきだった。あの男が、危険だということを、承知していたのに。すまなく思っています」
あの男。と言われ、顔が定まらない様子の彩夢を見て、祥希はフッと笑みを零す。
「もうよろしいのでは。これ以上は、彩夢様のお体に触ります」
仲裁に入る椎野木に、今度ははっきりと怪訝な顔を祥希が見せる。
「椎野木、わたくしは大丈夫。それよりも、本当のことが知りたくてよ」
「彩夢さんがそこまで言うなら、お教えしましょう」
会釈し、退室する椎野木を見届けた祥希が、再び彩夢の手を握り直し、そっと口づけをする。
「君はね、会社を潰された者に、恨みを買ってしまったらしい」
ゆっくり顔を上げて言う祥希を、彩夢はまっすぐ見つめ返す。
「もっと早くに、気が付けていたはずなのに。僕としたことが、とんだミスをしたものだ。あの男が、反射に姿を現した時点で、警察に通報さえしておけば、彩夢にこんな怖い目を合わせずにできたのに。ごめんよ」
探るように瞳を見詰められ、彩夢はぎこちなく微笑み返す。
「祥希さんは悪くありませんわ。すべて、わたくしの淫乱な心が、きっと招き入れたことですわ。どうかこんなわたくしを、お見捨てにならないで」
確信した祥希が、彩夢の髪を撫でる。
――そして数日後、うだるような暑さと、眩しい程の陽ざしに彩夢は手をかざす。
まるで嘘のように過ぎて行った日々を振り返り、自分の青さに、彩夢はフッと笑みを零す。
源次郎に呼び出され、会社を立て直そうと奮起したのがまるで昨日のことのように思い出される。一時の気の迷いとはいえ、どうしてあんな野蛮な人へ好意を持ってしまったのか、彩夢は話しを聞かされた限り、自分の未熟さと愚かさを恥じる。
お嬢様暮らしの彩夢にとって、目新しさに気を引き付けられてしまったのでしょう。という祥希の言葉に、深い感銘を覚える。それと同時に、この人がいてくれて良かった。この人にもっと愛されたい。彩夢の欲情は後を止まなかった。
祥希さえいてくれれば、自分は幸せになれる。そう信じていたはずだった。それなのに……。
被告人として立つ晟也に、どうしてこんなにも心がざわつくのか、彩夢は理解に苦しんだ。
証人として、彩夢が呼び出されていた。
久しぶりに人前に立ったせいだろうか。
むっつりした表情で外を眺める彩夢に、珍しく椎野木が話しかけて来ていた。
「しかし恩を仇で返すとは、悲しすぎるお話ですね」
「ええ」
被害者である祥希は、仕事が立て込んでいるらしく、以前ほど彩夢に時間を割くことが少なくなっていた。現に今も、椎野木の運転で、実家へ戻るところである。
何かがかみ合わないのだ。
晟也の証人である凛子に、鋭い眼差しを向けられ、彩夢はたとえようのない不安を過らせていた。
「ねぇ椎野木」
「何でございましょう」
彩夢はその先の言葉を飲む。
被告人である晟也は、こちらの言い分に何も反論せず、無実だけを主張し続けている。勝ち目のない戦いなのは、目に見えていた。
押し黙ったままの彩夢に、椎野木は眉を顰める。
「お嬢様、罪人へ同情は禁物です。彼のためにも、罪は償わせなければ」
「ええそうね。椎野木が仰る通りですわね」
言葉とは裏腹に、暗い顔をする彩夢だった。




