第八章 委ねられた自尊心⑦
――明け方、軽自動車に乗る晟也の姿があった。
花嫁修業するため、居るはずの祥希の実家に、彩夢がいる気配はなかった。ここへ来る前、下調べをしてきたと言う椎野木の言葉を、鵜呑みにしていいものか、正直晟也は悩んだ。
ここで張ろうと言い出した時には、それなりの反論もしたが、椎野木の頭の回転の速さに、任されてしまったのだ。
「本当にここで張っていれば、あいつの居所が分かるんですか?」
十三丘ホーディングスの傘下である一つ、製薬会社を食い入るように見ていた椎野木は頷く。
昨夜のことである。
本社を出た晟也は、もう一度彩夢のマンションへと足を運んでいた。
応答はなく諦めかけた晟也に、一人の男が近づいて来る。それが椎野木だった。
訝る晟也に、椎野木は彩夢の名前を出し、話を聞いて欲しいと頼んだ。
半信半疑のまま晟也は、軽く飲もうと誘う椎野木に連れられ、近くの居酒屋へと入って行ったのだった。
「こういうところの方が、内緒話をするのにはちょうどいい」
一度だけ、椎野木を見たことがあった。チラリとだけだが、ジョッキを傾けながら、血相を掻く彩夢を迎えに来た日のことを、晟也は思い出していた。その男が、何の話があるんだ。と正直、訝っていた。今でも、100パーセント信じたわけではない。
椎野木の話は、単刀直入だった。
彩夢が、この結婚を望んでいないこと。源次郎との、忌まわしい関係。そして、聞き捨てならなかったのが、これまでの祥希の奇行である。
息を飲む晟也に、椎野木は一呼吸吐き、彩夢を救い出したい。力を貸して欲しい。と言うのだ。
椎野木の話に、晟也はいくつか思い当たる節があった。あながち、外れた話をしているわけではない。と言うことは分かる。が、手元にあるジョッキへ、晟也は目を移す。
なぜだか分からないのだが、晟也の心に靄がかかった。
あまりに、話が出来すぎているのだ。ここまで詳しく調べをつけているのなら、しかるべく方法はあるはず。そう反論する晟也に、椎野木は彩夢の苦しい立場を説明し、懇願し続けたのである。
根負けをしたのではない。だが、椎野木の話を聞いているうち、あることに晟也は気が付いてしまったのだ。
ハンドルに胸を当て、来るのか来ないのか分からない相手を、必死の形相で待ち続ける、椎野木があわれに思えた。
はっきり口にしたわけではないが、ほぼほぼこの勘はあっているだろう。
晟也は腕組をし、シートに身を任せ軽く目を閉じる。
もう何年もこうやって、彩夢を見守り続けてきたにちがいない。
俺には、関係ない。そう言って突っぱねるべきだった。
時折、話し掛けてくる椎野木に、晟也は居心地の悪さを覚える。
一言二言で返す晟也に、椎野木は柔らかい笑みを浮かべ返してきていた。
そこには、品格の差があった。分っていたが、改めて住む世界が違うことを、思い知らされる晟也である。
あと少し待って姿を現さないようなら、身を引かせてもらおう。
そんなことを考えている、矢先だった。
晟也は椎野木に身を揺すられ、目を開ける。
時計は、もうすぐ10時を指そうとしていた。
一台の車が、スッと中へ入って行くのが、見えた。
「十三丘の車です。矢張り来ましたね」
晟也も、知らず知らずのうちに身を乗り出してしまっていた。
目配せをしてくる椎野木に、晟也はつい歎息を漏らす。
待つこと30分。
予測したよりも早く、祥希の車が出てきた。
暗黙の了解で、椎野木が静かに車を発進させる。
見失わないよう、慎重に車を勧められ、少し開けられた窓から、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
鬱蒼と樹木が立ち並ぶ山道を、走っていた。
別荘地の看板が見えてきた時、椎野木が、矢張り。と呟いたのが、晟也の耳に残る。
疑心が生じていた。
急に道が開け、祥希の車はログハウスの前で止めらる。
勘付かれるのを恐れ、だいぶ離れたところから、車から降りて来るのを待った。
待つことなく、人が降りてくる。
背広姿の、おそらく祥希だろう人物が、いそいそと両手に荷物を持ち、ログハウスの中へと入って行くのを確認して、二人で車を降りる。
「探しても、見つかるはずがないですね」
看板を確認した椎野木が、晟也の顔を見ながら言う。
「そういうことか」
呟く椎野木を晟也は見る。
「避暑地へ行かれるだろう、と思っていおりましたが、どうにも見つからない。不思議で仕方がありませんでしたが、これでからくりが解けました。西園寺家所有の別荘と、ホテルがございます。おそらく十三丘様もご所有のものがおありかと存じておりましたが」
そこで言葉を切り、椎野木は考え込み始める。
「疑うほどのことでは、なかったんじゃねーの」
しばらく看板を見入ったまま、動こうとしない椎野木に、晟也は言ってみたものの、反応は薄かった。
「椎野木さん?」
顔を覗き込む晟也に、ハッとした椎野木が、慌てて言葉を繕う。
「すいません。考え事をしていました。車へ戻りましょう」
これ以上続けても、無意味の気がする晟也だったが、何となく、そのことが言い出せずにいた。
椎野木に促されるまま、来た道を戻りかけた晟也が、一旦足を止め振り返る。
「どうされました?」
椎野木に聞かれ、晟也は言葉を濁した。
どこがどうということではない。
前を歩く椎野木に半歩遅れて、晟也は後を歩く。
車のドアが開かれ、乗るのを躊躇わられる。
そんな晟也の心を読んだのか、椎野木はそのまま立ち話を始めだす。
「私は、彩夢様について十六年になります。お小さい頃から、ずっとそばで成長を見守ってきたこの私が、なぜ今になって、解雇されてしまったのでしょう。ご結婚されても、この椎野木が、運転手を務めさせていただけると、信じておりましたのに」
熱く語りだす椎野木に、晟也は苦笑するしかなかった。
腹立たしさを顕わにし、言葉を荒げる椎野木が、さりげなく乗るよう促す。
しばし椎野木の顔を見入った晟也が、首を横に振る。
「ここまで来て、彩夢様とお会いにならず、帰られるとおっしゃるのですか?」
目を大きくして言う椎野木に、晟也は頑なに断った。
携帯電話で現在地を確認しながら、歩き出す晟也に、椎野木の言葉が追いかけてくる。
「あなたはそれで本当に、良いのですか?」
その問いに、晟也は答える気はなかった。




