第八章 委ねられた自尊心⑤
しかめ面を突き合わせて、しばししてからおもむろに口を開いたのは、保科だった。
「あの子、もしかしたら私たちに助けて欲しいんじゃない。だってこれ、あの名前なんだっけ、うーんと、出てこない。えッとね。ああそうだ思い出した。十三丘ってやつのプレゼントよねきっと 「そうかな?」
半信半疑で答えた岡部に、少し思い当たる節があった。ブランド志向は、だいぶ前から知っていた。それは、今時それほど珍しいことではない。寧ろ、アクセサリーを身に着けない方が、不思議なくらいだった。少し前までは、母親からのプレゼントだと言って、ネックレスをしていたような気がしたが、それすらもいつの間にかしてこなくなったのである。
「これ、かなりなもんだよね」
目を細め、保科が一つ一つ確認して行く。
「あたしもこういうの詳しくないけど、これなんか雑誌で見たことがある。ええーちょっと待って」
岡部が慌ててネットで検索し始める傍ら、保科が険しい顔で晟也を見る。
「あんた、あの子から何も聞かされていないの?」
責めるように、保科に見られ、晟也は目のやり場に困る。
「ゲッ。これ見て保科さん」
次の瞬間、変な声を岡部に出され、思わず二人で見てしまっていた。
「不用心にも、程がある」
「ますますおかしいわね。いやな胸騒ぎがする」
無言の圧力を掛けられ、晟也はたじろぐ。
「様子が変て言っちゃ、変だったわよね。今、思うと」
岡部が保科の調子に合わせ、晟也を見る。
「何、今の名推理?」
出て行ってしまった晟也を見送りながら聞く岡部に、保科がのほほんとした声で返す。
「ちょっとドラマ飲み過ぎかな? まぁいいんじゃない。青春ぽくってさ。それに彩夢、幸せそうには、全然見えなかったしさ」
そんな会話がされているとは知らず、晟也の足は、段々か加速され、走りに変わろうとしつつあった。
全く迷惑な話だ。
そう心で叫びながら、晟也は管理室を飛び出す。
あの夜のことさえなかったら、無視できたはず。
「わたくしを、このままどこか遠くへ、連れ去って下さらない」
何であんなこと、言ったんだよ。
愚痴る心とは裏腹に、晟也の足は先を急いだ。
「比嘉君」
不意に現れた手に、晟也が足を止める。
桑井が、物々しい雰囲気を醸し出しながら、一枚のメモを渡す。
「私が知っている情報は、すべて書き出しておきました。五十嵐さんをどうか、助けてやってください。この通りだ。無事助けられたら、こうなることはね、だいぶ前から知っとりました。会社のことは、だいぶ前から覚悟できておりましたので、どうか、お気を揉まれませんようにと、桑井が言っていた。と伝えてやってください。お願いします」
桑井の言葉を聞いて、一瞬冷静さが戻った晟也は、警察にと言いかけ、すぐに止める。
祥希の冷ややかな笑みを、晟也は思い出していた。
「畜生」
晟也は心で叫ぶ。
気だけが焦った。
ここで自分が行ったとしても、何が出来るわけでもない。大袈裟に騒ぎ過ぎている。そう思う半面、放って置いていいのか、と言うもう一人の自分が居るのが、煩わしかった。桑井達に頼まれごとがあるし、自分に言い訳をして、晟也が真っ先に向かったのは、彩夢の住むマンションだった。
セキュリティが万全そうなマンションを見上げ、晟也は深い溜息を吐く。
こんな暮らしをしている彩夢に、自分事気がしてやれることなど、たかが知れている。警備もしっかりされているはず。そう思いつつ、晟也は彩夢の部屋番号を押す。
何度繰り返しても、結果は同じだった。
晟也は一歩離れた場所から、マンションを見上げる。その手には、しっかり携帯電話が握られている。数回呼び出し音が繰り返され、留守番サービスに繋がる。普段ならここで切ってしまうのだが、一呼吸置いてから、連絡をくれ。と残す。電話を切ってしまってから、自分の名前を継げなかったことに気が付き、後悔するが、そのまま放置して、晟也は次の行動へ移る。
Tシャツにジーンズ姿の自分が、お呼びでないことくらい、誰に言われなくても解っていた。
「こちらに、五十嵐、すいません。西園寺彩夢さんて方は、出社していますか?」
怪訝な顔で晟也を見上げる受付嬢に、晟也は苦笑いをする。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
完璧に、疑われてしまっていた。
「マルシチ倉庫で、一緒に働いていた比嘉が来たと、伝えてくれれば分かる」
「マルシチ倉庫」
余程聞きなれない単語だったようで、復唱する受付嬢に、晟也は頷く。
いればいい。会わないと言うなら、伝言だけでも伝えて行けば、それで自分の任務は完了する。そう自分に言い聞かせ、晟也は受付嬢に背を向け、答えを待った。
「あのお客様、大変失礼ですが、どこの部署へ所属か、ご存知ではありませんでしょうか」
愛想の良い笑みの下に、晟也は悪意が感じられた。きっとその次に、断わりの文句が、用意されているのだろう。
晟也はゆっくり息を吐き出す。
「俺をバカにしているのか? ここの、お嬢様だ。あんたらだってそのくらい知っているはずだ」
大声を、出したつもりはなかった。
反響した声に、その場に居合わせた何人かが、こちらを見ていた。晟也は焦り、言い訳をしようとしたが、それより早く、警備員が駆けつけて来てしまっていた。
「放せ。俺は怪しいものじゃねぇ。無事かどうか確かめに来ただけだ」
問答無用で、晟也は警備員に両脇を押さえられ、表へ連れ出されようとしていた。
このやり方は気に入らないが、当然の報いだとも、晟也は手足をばたつかせながら思った。
ここ数年なかったじたばたする自分の滑稽さに、晟也は笑えた。
「話くらい聞けよ」
自動ドアが開き、二人掛で、晟也は追い出されようとしていたその矢先だった。
「その人を放してやりなさい」
自分の声で掻き消され、まったく後ろに立つ人物に気が付かずにいたが、誰かの常務と言う声が聞こえ晟也を掴む手が緩まされる。
晟也のみならず、取り押さえていた警備員二人も、その状況が上手く飲み込めない様子だった。
「しかし、常務」
「責任は私が持つ。良いから君たちは下がりたまえ」
「ですが」
それ以上は無用と、言わんばかりに手を軽く上げ制する、その紳士を唖然とした面持ちで、晟也は見続けてしまっていた。
「部下が大変失礼しました。わたくしはこういうものです。今日はそちらの件で?」
一瞬、何を言われているのか、晟也には理解できずにいた。
軽く首を傾げられ、ああ違います。と言ったきり、沈黙してしまう。
物腰は低いのだが、晟也を見る目はまるで別の物である。
「彩夢様からは、お話を伺っております。すべてをわたくしが任されておりますので、こちらへ」
神戸龍一。晟也は心の中で読み、紳士を見返す。
六十半ばであろうか、きちんと整えられた髪に、白い物が目立っている。貫録を感じさせる風情に、晟也はなるほどと納得させられてしまっていた。そして、こんなことさえなければ、決して出会うことのない、人種である。
神戸には、無駄がなかった。
先に歩き出したカンベにつられ、晟也も後を追う。
流れるように晟也は、常務室へ通されてしまっていた。