第八章 委ねられた自尊心④
なぜあそこまで言われなければならない。込み上げてくる怒りが涙に替わり、岡部は何も知らずにやって来た木庭を、無意識のまま睨みつける。
「機嫌、悪そうだな」
「木庭ちゃん、今日は悪いけど、遊んであげる気分じゃない」
「マジ?」
プイと横を向いてしまう岡部に、木庭は苦笑いで返す。
「また我が麗しの彩夢嬢と、お揉めになられたのでありますか?」
「あの子ならいないよ。て言うか、もう来ないし」
どうせいつものことだろう、という顔をする木庭を一瞥した岡部が、鼻で笑う。
「何で?」
「さぁ、お嬢様の気まぐれじゃない?」
「どいうこと?」
吐き捨てるように言う岡部の顔が、にわかに歪みだし、木庭はおろおろし始める。
余程悔しかったのだろう。岡部の涙は、しばらく止まることを知らなかった。
「情けないな」
涙声で言う岡部に、木庭は苦笑いを浮かべるだけで、何も言わずにいた。
「どうしちゃったのかなあの子。今までいろいろあったけど、猫を被るにもほどがあるよ」
そこまで言うと、再び顔を歪ませる、岡部だった。
そんな騒ぎがあったことなど知らない晟也は、桑井に呼ばれ会社に来たのは、その三日後である。
事務所に入って来た晟也に、桑井はいつもと違う雰囲気を醸し出し菜f柄、自分の前の席に座るよう、促す。
10時を少し回ったところだった。事務所には、桑井のほか、誰もいなかった。いつもならデーター打ち込みをしているはずの席へ、自然と目が行く晟也に、桑井が苦笑いで話し始める。
「大変申し上げにくいんだけど、契約打ち切りでお願いしたい」
実に情けない話ではあるが、どう伝えるべきか、散々悩んだ挙句、桑井はこの言葉しか思い浮かばなかったのである。
顔に、緊張を走らせる晟也を見て、桑井が頭を掻く。
「実はここを、畳むことになりましてね」
数秒、桑井を見詰めた末、「じゃあ、このせいではなく」と、晟也は負傷してしまった腕を見せながら聞く。
「違います。それだったら、あなたはとっくにクビになっているはず」
そう言うと、桑井はおもむろに席を立つ。
「電話で伝えても良かったのですが、解雇について細かい説明とか、書いてもらう書類とかあったものでね」
そう言いながら戻ってきた桑井が、晟也の前に数枚の書類を並べ置く。
「ロッカーとかに私物とかあったら、持ち帰るようにしてください」
書類を書き込む手元を見詰めながら、桑井が言う。
「私物なんてないっす。」
「そうか。怪我の具合はどうかね」
書く手を止め、晟也が顔を上げたのはその時だった。
「所長、大丈夫ですか? だいぶお疲れのようですけど」
ろくに眠れていないことくらいは、顔を見ればわかる。ここ数日ですっかり老け込んでしまったかのように、晟也には思えた。
「私なら大丈夫」
言葉とは裏腹に、その笑顔は、力を感じられないものだった。
「みんなは?」
とりあえずといった感じで聞く晟也に、桑井が小さな息を漏らす。
「閉鎖するにしても、あと三か月。受けてしまっている仕事もありますしね、荷物は片さなければならないからね。総出で片づけて貰っている。ここにあるものはすべて、処分となるから、君も欲しいものがあったら持っていきなさい」
「分かりました。そうさせてもらいます」
そのまま帰るつもりで事務所を出た晟也は、踵を返し、まっすぐ管理室へと向かった。
そこに理由はなかった。ただ何となく、そうした方が、良いような気がしたからだ。
ドアを開けるのに、一瞬躊躇ったものの、晟也は思い切ってノブを握る。
「岡部さん、居る?」
入ってきた珍客に、岡部と保科が同時に振り返る。
「どうしたんすかその顔?」
半瞬遅れて驚く晟也に、岡部が露骨に顔を歪める。
「これは名誉の負傷」
煙草を銜えたままの保科が、岡部に代わって答える。
「良いんすか。ここで吸って」
拍子抜けした晟也を見て、保科がゲラゲラ笑いだす。
「別に良いっしょ。ルールもへったくれもないじゃん。ここ全部、更地にされるみたいだしさ。桑井ちゃんも、火の元だけは注意しろよって、言うだけだったし。なんか、どうでも良いって感じだよね。あんたこそ、大丈夫なの? 腕折れちゃったんだって?」
「どこでやっちゃったの?」
物の序でに訊く保科と打って変わって、まるで自分が怪我しているかのように、岡部が痛い顔を晟也に向ける。
「チャリで、こてっと」
「ドジね」
吊るされた腕を突っつき、完璧に面白がっている保科が、言い繋ぐ。
「あんたらしくもない。得意の瞬発力で、回避できなかったの?」
「ダメでした」
「ついていなかったわね」
保科の言葉に、岡部が大袈裟な反応を示す。
「本当についてない。折角可愛がってきたのにさ」
「また、その話を蒸し返す」
苦笑する保科を相手に、岡部が真顔で訴える。
「だって腹が立つでしょ。今までのことをぶちまけたかと思ったら、自分の正体ばらしだよ。散々人の顔を、こんなにしておきながら、泣きゃがるなっての。相当悔しかったんだろうけどさ。自分の荷物を片しとけときたもんだ」
何度話をしても、悔しさが込み上げて来てしまうのである。 涙ぐむ岡部を慰めるように、保科が頭を撫でる。
晟也は、まるで想像が付かなかった。どこをどう切り取っても、彩夢のそんな姿が、思い浮かばないのだ。だからこそ、岡部がここまで怒っているのだろう、と汲めるのだが……。
彩夢の席を見やる晟也に、保科が肩を窄め、岡部の話の補足を聞かせた。
「まったくね。あの子には騙されちゃった感じ」で、話しを結んだ保科が、さてと、膝を打ち立ち上がり岡部を見る。
「ええ。マジでやるの?」
「嫌でも、片さないとならんでしょ」
保科が岡部を強引に立たせる。
どうやら保科は、ただ単に、油を売っていたわけではなかった。桑井に頼まれ、岡部の手伝いに来ていたのである。
「分かったわよ。やればいいんでしょやれば」
渋る岡部を横目に、保科はまだのんびり煙草をくわえたままだった。
「あんたはもう帰るの?」
見れば、やりかけのものが、あちらこちらに散らばっていた.帰りづらい状況ではあるが、この手じゃと言いかけ、話はそこで止まった。
「何よこんなものまで書いて、どんだけよ」
奇声を上げる岡部に、気を削がれてしまったからだった。
引き出しから、無造作に出されたファイルの間から、走り書きのようなものが出てきたのだ。彩夢自身が本当に書いたのか、疑いものだが、丁寧に鍵が掛けれていた引き出しから出てきたものである。信ぴょう性に欠けるその紙きれを、岡部がおもむろに開く。
「畜生、どうせ酷いこと、書いてあるのよ」
そう嘯く岡部の手が、若干震えている。
しかし、岡部が想像していた内容とは、全く違っていた。文句どころか、身分を隠していた無礼をお許し下さいと冒頭で述べ、今までの感謝が綴れていた。
「だったら、あの態度は何だったの? 見せつけるように、あんな嫌味っぽい男に、寄り添っちゃってさ」
腹立ち紛れに言う岡部の言葉を聞いて、保科の顔色が変わる。
「ちょっと待って、彩夢、あの男に寄り添ってきたの?」
「もうべったり」
飛び上るように立ち上がった保科が、岡部の手から彩夢の手紙を引っ手繰る。
「どうしたの?」
「変よ。うまく説明がでいないけど。あの子、あの男からずっと離れて歩いていたし、それに図と下を向いていたのよ。それがどうして子j子にはいるときだけ、べったりしたわけ?」
「あたしにあてつけってことっしょ」
「だから、何でそんなこと、する必要があったのよ。良く考えなさいよ。だったら、あんなケンカを吹っ掛けるようなこと、なぜしてきたのかってことよ」
そう言われても、ぴんと来ない岡部である。
何を思ったのか、岡部を差し置き、保科は引き出しの中を引っ掻き回し始める。
「ネ、これは何?」
保科は引き出しの苦から、箱を見つけ出し岡部を見る。
箱に見覚えがあった。
彩夢が依然、皆のために焼いてきたクッキーが入れられていた箱である。
保科が蓋を開けないまま、耳元で振ってみる。
「中に、何か入っているみたい」
「どうせ、余ったクッキーじゃないの?」
「それはない」
言い切る保科を、二人して見る。
「あの子の性格上、余らせるくらいなら捨てるか、誰かに無理矢理くれるかの二択でしょ」
自信満々に言う保科に、二人は反論できなかった。
あの日、例のごとく晟也は彩夢に執拗に付きまとわれ、仕方なく一つだけもらった覚えがある。岡部も、それを知っていた。