第八章 委ねられた自尊心③
ただでは、済むはずがない。そう覚悟していたはずの彩夢だったが、無言でハンドルを握る祥希を、そっと見る。普段から、無駄口をしない人だが、今日に限っては、不気味で仕方なかった。その嫌な予感がまさか、的中してしまうとは。
「着きましたよ。どうされました?」
彩夢は目を瞠る。
「祥希さん?」
「あなたの部屋に、ご招待して頂けませんか、今日の罪滅ぼしに」
青ざめる彩夢を見て、祥希が口元とを緩ます。
そうなのだ。彩夢が、どうしてもこの人を好きになれない理由。それがこの笑みである。優しい言葉もかけてくれる。気使いもできている。申し分のない相手。そう源次郎が、豪語していたが、それはすべて上っ面だけのもの。
「しかし、お仕事の方は」
半瞬ほど遅れて、彩夢は笑みを繕うが、そんなものが通用するような、生ぬるい相手ではない。むしろ今まで、清江を立て、何もしてこなかったのが、不思議なくらいである。
有無なしで肩を抱かれ、彩夢は部屋へと向かう。
ドアが閉まる音にさえ、彩夢は肩をビクつかせてしまう。祥希はまるで、そのことを弄んでいるかのように、頬を緩ませる。
「祥希さん。怒っていらっしゃるのなら、わたくし謝りますわ」
振り向き様に訊く彩夢に、祥希はどこまで優しく微笑む。
「怒る? この僕が? 大丈夫ですよ。僕はこう見えて寛大ですから。ただ、躾が足らなかったことは、反省しています」
なぜこんなにも、祥希の言葉に、重圧を感じてしまうのか、彩夢自身理解できずにいた。
「祥希さん。わたくし、良き妻になれるよう、努力いたしますわ」
「バカだな。そんな怖がらなくても、僕はあなたに、自分が置かれている立場を、きちんと理解をして頂きたいだけですよ。あなたは、僕なしでは生きていけないってことをね」
彩夢は、辛うじて笑みを保っていた。
「お茶を」
離れようとする彩夢を、祥希がおもむろに抱き寄せる。
「もうすぐですよ。あなたは永遠の歓びを得ることが出来るのは、楽しみはとっておくとしよう」
逃げたい気持ちを必死で堪える彩夢だったが、手を放され、複雑な心境で、祥希を顧みる。
祥希の上げられた口角が、彩夢を嘲るように見えた。
「期待させて、すいません。僕は予定がありますので、ここで失礼させていただきます」
「祥希さん、これからどちらへ」
祥希が、満面な笑みを作る。
「仕事に、決まっているじゃありませんか」
それが返って、彩夢の焦りを煽った。
「わたくしも、ご一緒、させて頂けませんか」
どうしてこんなことが言えたのか、彩夢自身も分からなかった。言い終えてハッとする彩夢を見て、祥希が髪を撫でる。
「何て素直な人なんだ、あなたは。僕が、見初めただけのことはある。そんなかわいらしさに免じて、一つ、宿題を出すとしましょう」
意味深な笑みを浮かべる祥希を、彩夢は震える思いで見つめる。
すべてを理解するまで、時間が少し掛かった。
口角を上げる祥希が、髪を撫でる。
じっと祥希を見続ける、彩夢だった。
安堵していた矢先だった。
再び姿を現した二人に、桑井は困惑の笑みを浮かべ、迎え入れる。
「すいませんね。どうしても今日しか予定が付かなくて」
にこやかな笑顔で言う祥希に対し、桑井はまるで、苦虫でも噛み潰したような笑みで、頷く。
彩夢は、目を合わせるのが怖くて、祥希の陰に隠れる。
「構いません。従業員たちへの説明も、済ませましたので」
桑井は、額から吹き出す汗を、頻りに拭う。
「それは良かった」
冷ややかな笑みで言う祥希のことなど、桑井に構っているよ湯などなかった。
「ではこちらへ。足元に注意してくださいませ」
物々しい雰囲気を醸し出し、桑井が連れ歩く人物の顔を見ては、誰もが足を止めた。坂東に関しては、堂々と彩夢の名前を呼び、手を振る有様だった。
桑井に手払いをされ、不満たらたらに業務に戻って行く坂東が、彩夢の横をすれ違って行く。
「やっぱ、そういう関係だったのね。彩夢ちゃん、おめでとう」
その言葉が、彩夢の胸を抉る。
見て回ると言っても、狭い倉庫内だけである。ものの30分で終わる経路だった。桑井が説明を閉めようとした時だった。
「あの、ここに確か比嘉晟也って方が、働いていると聞きましたが、今日は」
吹き出す汗を頻りに拭った桑井が、苦笑いをする。
「彼なら、しばらくお休みを取っておりますが、何か」
窺うような目をする桑井に、祥希は満面の笑顔を向ける。
「お休みなら結構。それより桑井所長、一か所、説明が抜けているようだが」
祥希が何を言わんとしているのか、すぐに分った桑井が、慌てて付け足すように、管理室のドアを開く。
噂は流れていたのだろう。管理室に入ってきた彩夢を見て、緊張した面持ちで迎え入れた岡部の顔が、綻ぶ。
「何だ。本社からの視察って、彩夢ちゃんだったの。脅かさないでよ。ああでもあんたで良かった。もう変な噂が流れちゃってさ、みんなびくびくもんだったんだから。何なら仕事、して行く?」
ケタケタ笑う岡部を見て、彩夢はうんざり顔を作る。
「まったく相変わらずお下品ですわね」
「え? 今なんて言ったあんた?」
今まで見たことがない彩夢の醜態に、岡部ならずそこに居合わせた誰もが、目を瞠った。
一言、二言返そうものなら、何倍にして返す悪態に、岡部はわなわなと震えだす。口では何倍も優っているはずの岡部だが、今日だけは彩夢の気迫に押されてしまっていた。
これには、流石の祥希も読めなかったのだろう。慌てて割って入ろうとするが、それにすら彩夢は噛みついた。
「ずっと言いたいことがありましたのわたくし。ですからここは祥希さんはお黙りになっていて」
「彩夢がそこまで言うなら、僕は口を出さないとしよう」
「ありがとう。祥希さん」
「何なのよ」
不意打ちの、攻撃を受けたのだ。面白くないのが、岡部である。
「岡部さん。わたくしがどれほどあなたに迷惑を被っていたか、ご存じ?」
「迷惑なんて掛けてないわよ」
「まぁなんてお方なの? 勝手に木庭さんとの関係を疑ったり、ご気分で無視をなさったり、服装のこともおしゃっておろましたわね。わたくしがどれほど傷ついてかご存じ?」
「似合わないもんは、似合わないって言って、何が悪いのよ。保科さんと二人して、わたくしを、このわたくしをよくも」
高ぶる感情を抑えきれず、彩夢は岡部に殴りかかて行く。
「あなたたちときたら野蛮で、卑劣で、はしたなくって、わたくしの心がどれだけかき乱されたか知っていて、生涯、あなたたちだけだったのよ」
「痛いわね。そんなの知らないわよ」
「わたくしが誰か、お教えして差し上げるわ。わたくしは西園寺グループの一人娘、西園寺彩夢ですことよ。あなた方が恐れ多くてお話なんて、できないわたくしなのよ」
「そんなの関係ないわ。あんたはあんた。意味不明な言葉使いをする、ただの彩夢に過ぎないわよ。お高く留まっているんじゃないわよ」
「わたくしの荷物は、すべて処分してくださって、結構よ」
「何で? 何で私がやらんといけないのよ。お断りよ。自分で、やって帰りなさいよ」
「こんなところ、一秒でも長くいたくなくってよ。祥希さん、帰りましょう」
「そうだね。今日のところは帰った方がよさそうだ」
テロのような彩夢の攻撃に、岡部が猛然と反撃を繰り返す。
そんなやり取りが10分ほど続き、彩夢たちは帰って行った。
とっつかみ合いの喧嘩を始め出した二人に、苦笑いの祥希が止めに入る。
「相当、怒りが堪っていたようだね」
祥希にはぎとられても、彩夢は怒りを顕わにし、岡部を睨み続けるその眼は、赤く潤んでいた。




