第七章 穢れた花嫁②
「あの」
一人でタバコを吸っていた保科に行かれてしまい、彩夢は肩で息を吐く。
あれからひと月が経とうとしていた。
祥希との婚約が公にされる前に、彩夢はどうしても自分の口から伝えたかったのだが、二人の関係は平行線をたとどったままである。
「ありゃ相当重症だね。
いつの間にか、岡部がやって来ていた。
驚いている彩夢の肩を一つ叩き、岡部もそのまま行かれてしまう。
彩夢は何も言えず、何も聞けず、ただ虚しさだけが胸に広がる。
項垂れるように帰って行く彩夢は、桑井に声を掛けられ、少し驚いてしまう。
「たまには一緒に帰りませんか」
そう言ってぎこちない笑みを見せる桑井を、しばらく見ってしまってから、彩夢は頷く。
幸い、今日は祥希も出張で会う約束はない。
「もし良かったら、どこかで軽く食べて帰りませんか。ちょっと込み入った話もしたいし」
桑井は、果たしてどこまで、話を聞かされているのだろうか。
笑いかける桑井の目を、彩夢は探るように見つめ返す。
何となく駅まで歩いてきたものの、桑井はどうやら思い付きで彩夢を追いかけて来てしまったらしく、なかなか入る店が決まらなかった。
「ここにしません?」
彩夢が指差した店を見て、桑井が目を丸くして訊き返す。
「こんなところで良いのですか?」
「ええ。わたくし一度、入ってみたかったので、ここでよろしくってよ」
本当にここで良いのかと念を押す桑井に、彩夢は明いっぱい明るく頷いて見せた。
彩夢の言葉に嘘はなかった。
先に席に着いた彩夢は、何気なく、外を見る。
日が暮れるのが早くなっては来ているが、歩いている人のほとんどがまだ夏服のままだった。
「お待たせしました」
桑井が置くトレーを、彩夢は興味深く見る。
「本当にこんなもので良かったのですかね」
恐縮する桑井に、彩夢は少し怒った顔をしてみせる。
「諄くってよ」
「申し訳ございません」
眉が下げる桑井に、彩夢は思わず吹き出してしまう。
「さ、食べましょう」
バーガーを小さく千切って食べる彩夢を、桑井はじっと見たままだった。
「何か?」
「本当に初めてなんですね。こういうものはこんな風に食べた方が、うまいんです」
かぶりついて見せる桑井に、彩夢は目を丸くする。
「こうかしら」
嬉しそうにかぶりつく彩夢に、桑井は目を細める。
「久しぶりに見ました、五十嵐さんの笑顔」
言われて、彩夢は顔を赤くする。
「そうでもなくってよ」
口の中でブツブツ言う彩夢に、桑井は小さな息を漏らす。
「五十嵐さん、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
桑井に改まって聞かれ、彩夢の顔に緊張が走る。
「五十嵐さん、何か悩み事でもあるのでは」
聞かれた内容が、予想していた物とあまりに違っていて、彩夢は呆気にとられてしまう。
「最近、元気がないようだったので」
彩夢はつい笑ってしまう。
「そんなことなくってよ。どうしてそんなこと訊かれますの?」
「思い過ごしならいいのですけどね。しょんぼりしているようにお見受けしたもので。こういう話は保科さんにしてもらうのが一番なんですがね、どうも、気が進まないようなので」
桑井はアイスコーヒーへ、手を伸ばす。
変な沈黙が出来てしまっていた。
彩夢はひたすら外に目を向け、桑井は食べ続けていた。
「そろそろ出ましょうか」
居たたまれなくなった桑井に言われ、彩夢は目を戻す。
「一つ、わたくしからも質問してもよろしくって」
外を眺めながら、彩夢はずっと聞こうか聞くまいか悩んでいた。
「何でしょう」
彩夢の心臓が、ギュッと誰かに握られたように痛くなる。
「保科さんから、何か伺っておりませんこと」
神妙な顔をした桑井が、彩夢をじっと見る。
「今の話は忘れてください。何でもありませんわ」
急に聞くのが怖くなってしまった彩夢だった。
「やはりこじれてしまっていたのですね」
桑井の言葉に、彩夢は目を瞠る。
「場所を変えましょうか」
桑井はまっすぐタクシー乗り場へ向かって歩いていた。
行先を告げた桑井は、軽く目を閉じる。
「あの桑井所長」
訝る彩夢に、ようやく桑井は重い口を開く。
「五十嵐さん。いやお嬢様、先だっての方とは、正式にお付き合いされているのでしょうか」
彩夢は目を瞠る。
「すいません。こんなことを聞くべきではないのですが」
そう前置きをした桑井が、彩夢をまっすぐ見る。
「聞くところ、あの方をだいぶ嫌がっていたと」
奥歯にものが挟まった言い方をされ、彩夢は戸惑う。
「保科さんは、ああいう性格ですし」
はっきりしない桑井の物言いに、彩夢の気が逸る。
「何がおっしゃりたいのか、わたくしにはさっぱりですわ」
桑井は困った顔をして、頭を掻く。
「私も詳しい話を聞かされたわけではないので、はっきりしたことは言えませんが、まぁ時間が解決をしてくれると思うので、気を落とさないでください」
「なぜ……ですの。保科さんが怒る理由が分からなくってよ」
涙目で訴える彩夢に、桑井は小さく息を吐き出す。
「裏切られたと、思っているんじゃないかな」
どういうことなのか、彩夢には全く判然としなかった。
「はっきりおしゃって桑井所長」
言い辛そうに桑井は彩夢を見る。
「私にもわからないんですがね、ただあの日、あいつに裏切られたって」
「どういうことですの」
「いや、こんなことを申しますのは心苦しいのですが、あれはちょっとまずかったかな」
「それでは分りませんわ」
「付いていたんです」
口の中でもごもご言う桑井に、彩夢は押し迫る。
「はっきり仰って」
「ですからここにキスマークが」
うなじを摩りながら桑井に言われ、彩夢は呆然となる。
全く気が付いていなかったのだ。
彩夢は言葉を失ってしまっていた。
「きっと時間が解決してくれます。ですから、そう気を落とさず」
「致し方がありませんわ。わたくしにはこんなことでしか返せませんもの」
今にも消えそうな声で言う彩夢を、桑井はなんて声を掛ければいいのか分からなかった。
桑井は一人になったタクシーの中で、大きなため息を吐く。
訊きたいことはもっと別にあった。だが、どうしても切り出すことが出来なかったのだ。
彩夢が無理しているのは、充分すぎるほど、伝わって来ていた。おそらく保科も同様なのだろう。
桑井は無性に腹が立った。
それが何に対してなのか、自分でもよく分からなかった。