第一章 希望を胸に①
生粋のお嬢様育ちの彩夢にとって、第一関門は電車に乗ること。意地は通したいものの……。
夜が明けきらないうちから起き出した彩夢は、窓を大きく開け、深呼吸をする。
いよいよ彩夢の挑戦が始まる。形はどうあれ、自分の実力を、源次郎に見せつけられる。そう思うと、うかうか眠っていられられず、こんな時間に目が覚めてしまったのだ。
「さてと」
独り言ちた彩夢は窓を閉め、部屋を見回す。
出勤、一日目である。
踊り出した気分で階下に降りて行くと、もうすでに、椎野木が車の用意をしてくれていた。この抜かりなさには、脱帽させられてしまう。
綾夢を認めた椎野木が、柔らかい笑みと共に、一礼をする。
「おはようございます彩夢様」
「椎野木、随分早いのね」
「彩夢様の大事な日でございますから」
きっと椎野木のことだから、一時間前には来て、車をピカピカに磨いたに違いない。それを思うと、言いにくいのだが、にこやかに話す椎野木からそっと目線を外す。
「椎野木、折角用意をして頂いたけど、わたくし決めましたの。おじいさまを納得させるためにも、一般の方々のように、電車通勤をしますわ」
「では、お供致します」
「いいえ。それでは、おじいさまをを見返すことにはならなくてよ」
一瞬にして表情を硬くする椎野木に、彩夢は申し訳なく続ける。
「気を悪くなさらないでね」
「畏まりました。しかしながらお言葉ですが、電車の乗継とか、お分かりでしょうか? ご案内が必要かと」
言われてみればそうである。数えるほどしか、電車に乗ったことがない彩夢である。現地集合の出発地であって、乗り継いで目的地へ向かうなど、想像もしていなかった世界の話。
「反対路線に乗ってしまわないか、この椎野木、不安で仕方がありません。ぜひ、今日だけは、ご一緒に」
不安を煽られ、彩夢の決意は揺れ動く。
「嫌ですわ椎野木。わたくし、もう子供ではなくってよ」
「そうでございました。余計な心配をして、大変申し訳ございませんでした」
あっさり非を認め、椎野木に頭を下げられた彩夢は、内心びくびくしていた。
源次郎への闘争心に駆られ、何も考えていなかった彩夢である。
急に恐怖が身を震わす。
「彩夢、そうなさいよ」
歌子に口を挟まれ、彩夢は口を尖らす。
「みんなして、わたくしを子ども扱いなさらないで」
「俺も賛成だな」
「パパまで」
引っ込みが付かない綾夢である。
「良いったら良い」
勢いよく階段を駆け上り、彩夢は自室へと飛び込んで行く。
「もうお酒も飲める齢よ。電車通勤する位で、皆大袈裟ですわ」
不安をかき消すように、綾夢は身支度を済ませ、家を足速に出て行く。
「彩夢様。お待ちくださいませ」
慌てて後を追いかけてくる椎野木を背中で感じつつ、綾夢は振り返ることもなく、駅へ向かう道を、突き進んで行く。
駅に着いた彩夢は、此処で大きな問題に気が付く。
切符の買い方が分からないのだ。
「これをお使いくださいませ」
追いついた椎野木に定期券を出され、彩夢は眉を顰める。
いつだってこうである。綾夢のこちを一番理解をしてくれているのは、椎野木だった。
「うっかりしただけですわ」
「左様でございますか。さ、参りましょう」
「本当に、ご一緒なさるおつもりですの?」
「社長からのご命令でございます。今日だけは我慢してくださいませ」
「パパの命令では仕方なくってね」
こうは言ったものの、心は裏腹であるのは、見え見えである。想像以上の人の多さに、綾夢はすでに挫けだしていた。
見れば向かいホームでの、寿司詰め状態で、押し合って乗り込む人の姿に、綾夢は踵を返す。
引き攣り顔の彩夢が、椎野木の顔を窺うが、築かない様子だった。
「椎野木、ここへは」
彩夢の顔をチラッと見た椎野木は前を向いたまま答える。
「彩夢様の足が速ようございました、車で追って参りました」
「そう」
素っ気なく答えた彩夢は、そのまま踵を返し階段を降りて行ってしまう。
「彩夢様、どちらへ?
改札を抜けたところで、彩夢は椎野木を顧みる。
「少し計算違いいたしておりましたわ」
「どのような」
「ここからですとおおよそ一時間かかるってあなたが言ったのよ」
「ですからちょうどいいお時間かと」
「何を仰っているの? とても間に合わなくってよ」
「ご安心を。30分は優に余裕がございます」
「まさか椎野木あなた、わたくしにあの殺人的な電車へ乗れって仰るの?」
「しかし、お嬢様がお決めになったことで」
「まったくこれだから」
溜息を吐く彩夢に、椎野木は申し訳なさそうな顔を作る。
「気が付かなくて申し訳ございません。配慮すべきでした」
「分かればよろしくってよ」
腕を組みそっぽ仰向く彩夢に、椎野木は笑いを堪えながら電話を掛ける。
待つことなくやって来た車から、若槻が降り立つ。
すべてを見通されていたような気がして、癪に障る彩夢だった。
「若槻、部屋を探して頂戴」
「早速会社の近くで、探させます」
「いいえ、一つ隣駅でお願いします」
細やかだが、彩夢にだって意地がある。
「畏まりました」
何もかもが面白くない彩夢むくれ顔でこぶ座席に、深く身を沈め座る。
「便宜を図っただけよ」
言い訳をする彩夢に、椎野木は目じりを下げる。
流れる朝の風景は新鮮で、会社の看板が見えるころには、期待が漲り、つい鼻歌が出てしまっていた。
「彩夢様、着きました」
「椎野木、ありがとう。下りなくって結構よ」
一人降り立った彩夢が窓を開けるよう、ノックする。
「あなたとわたくしとの関係は従兄妹同士ってことにいたしておきましょう。万が一に備えとく事は、必要ですものね」
屈託のない笑顔で言われ、椎野木は気恥ずかしくなる。
「光栄でございます」
「では行って参ります。お兄様」
目を瞠る椎野木に、彩夢は胸の前で手を小さく振って見せる。
どんな時でも一番の味方でいてくれるのは、椎野木だった。
走り去って行く車を一瞥した彩夢は、会社の看板を見上げインターフォンへ指を伸ばす。
きっと大丈夫。わたくしには見方がいる。そうですわね椎野木。
幼少のころからおまじないのように、自分に言い聞かせてきたこの言葉胸に、彩夢は新たな一歩を踏み出そうとしていた。