第六章 付けられた烙印④
心を補う方法はいくらでもある。一時のことだ。
祥希から報告を受けた源次郎が、電話口で喋った言葉だった。
息子の体調を気遣うことなく、その電話は切れた。
彩夢は、込み上げて来るものを、必死で堪える。やがて来るだろう機会の望みを託すしか、今は出来ないのだから。
すべて円満に行く。そう自分に言い聞かせて、今日会社へ出勤してきたのだ。
おそらく、身分を隠し通せるのもほんのわずかになる。それまでは、今まで通りでいたい。それが唯一、彩夢の希望である。
「おい。背中が哀愁、半端ねーけど、腹でも下したのか」
珍しいこともある。晟也じゃら憎まれ口を聞いてくるなんて、今まであっただろうか。
ぼんやり見つめ返す彩夢の目から、涙が溢れ落ちる。
彩夢の予想外の反応に、晟也は目を見開く。
これには、彩夢も驚きだった。
「泣くほど辛いのか、腹」
どうにも抑えきれないものが、突き上げて来る思いが、彩夢は止めることが出来なかった。
「どうして、どうしてですの?」
今にも消えそうな彩夢の声に、晟也はしっかり耳を傾けてくる。
「どうしてって。あんだけ飯に拘っていたあんたが、飯も食わずにこんなところにいるっていうのは、そういうことじゃねぇの?」
彩夢にとって、奇跡としか喩えようがない、出来事である。
「相変わらず、頭がゆるくってね」
鼻を啜りながら言う彩夢に、晟也は真顔で答える。
「腹じゃなくって、頭の方かよ。事務所に行って、薬飲んで来いよ。ていうか、帰った方が良いんじゃねぇ。歩けるか?」
腕を取られ、顔を覗き込まれた瞬間、彩夢は衝動を抑えきれなくなってしまっていた。
「好き」
彩夢は認めるしかなかった。
この胸が苦しいのも、こんなに悲しいのも、祥希に髪を撫でられ逃げてしまったのも、全部、心に晟也がいたからだ。
「ほら掴まれ」
腕を肩に回され、胸の鼓動が早まる。驚きの表情で魅入る彩夢に、晟也はまるで気づく様子はなかった。
「わたくしは、あなたのことが」
「ああ面倒くせぇ。負ぶってやるから乗れ」
淡々とした態度を取り続ける晟也の手を振り解き、彩夢は気が付くと駆け出していた。
この思いが叶えられる日は、訪れない。それでも……。
彩夢の目を赤くしているのを見つけた保科が、顔を覗き込んできたのは、終業時間間際だった。
「おかっち。またあんたがやらかしたの?」
「ちげーし」
ムッとした顔で、岡部に振り返られ、保科が苦笑いをする。
「昼休憩終わったら、もうこんな顔になっていたし、すぐあたしのせいにするの、止めて貰っていいすか」
「そりゃ失敬」
二人はふざけた口調でしゃべっているが、それは彩夢への気遣いであることは、痛いくらい伝わって来ていた。
「ああでも、その理由、あたし知っているかも」
岡部の言葉に、彩夢は青ざめる。
気のない返事をする保科に対し、岡部の顔がにやける。
「彩夢、晟也に告ったらしい。偶然、バンちゃんが聞いたって言いふらしていたけど、ホント?」
岡部に質問を振られ、彩夢は俄かに胸を撫で下ろす。
「ええ」
胸を張って言えることではなかった。俯き加減で返事をする彩夢を、保科が抱き締める。
「ようやった彩夢。でかした。で、奴の返事を拙者に聞かせんか。早う言わんか」
「保科さん痛いです」
「ごめんごめん」
保科から解放された彩夢は、くすっと小さく笑う。
「ほう。その笑いは」
期待に満ちた目で、岡部に言われ、彩夢は口を尖らせる。
「答えてもらえませんでした」
大袈裟にこける仕草をする二人に、彩夢は吹き出す。
「ま、あやつの気持ちもわからんでもない。持久戦で参ろうぞよ」
「どうなさったんですの保科さんたら、そんな武士語をお使いになられて」
「嫌ぁあんたがお姫様言葉なら、わたしゃ武士あたりが妥当かと。密かに訓練しておったのよ」
「保科さんバカじゃないの。そんなので対抗しないでよ」
岡部の突込みで、一頻り笑いあった後、保科が飲みに行こう。と言い出す。当然満場一致で決定したのは、言うまでもない。
彩夢は、心が少し軽くなった気がした。だがそれも束の間のことである。
彩夢を待つ祥希に、いち早く気が付いたのは保科だった。
「何だあの男」
一緒にいた岡部も、あっ。と短い声を上げていた。
「彩夢さん」
「誰?」
明らかに彩夢の様子がおかしいのは、一目瞭然である。
岡部が保科の裾を引っ張る。
「おかっち。知っているの?」
岡部は、ちらり彩夢を見る。
「うんまぁ」
言い辛そうにしている岡部を、保科が焦れる。
「誰よ。教えなさいよ」
「彩夢、あの人って木庭ちゃんが言っていた」
岡部にそれ以上喋らせまいと、彩夢は慌てて言葉を遮る。
「申し訳ございませんが、二人で先に行っててください。わたくしは彼と少し話してから参りますわ」
顔面蒼白になっている彩夢を、心配そうに保科が見る。
「一人で平気?」
「ええ。これはわたくしが、解決すべき問題ですので」
きっぱり言い切る彩夢に、保科は口を噤むしかなかった。
「じゃあ先に行っているね」
保科に優しく肩を叩かれ、彩夢はぎこちなく頷く。
通り過ぎて行く二人に、祥希は愛想の良い笑みで会釈をかわすのを見届け、彩夢は歩き出す。
トイレで一頻り泣いて、彩夢は決心をしたのだ。
もうこれ以上、自分へ嘘は吐けないと。
ここから少しドロッとしそうな予感が……。