表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/89

第六章 付けられた烙印④

 心を補う方法はいくらでもある。一時のことだ。

 祥希から報告を受けた源次郎が、電話口で喋った言葉だった。

 息子の体調を気遣うことなく、その電話は切れた。

 彩夢は、込み上げて来るものを、必死で堪える。やがて来るだろう機会の望みを託すしか、今は出来ないのだから。

 すべて円満に行く。そう自分に言い聞かせて、今日会社へ出勤してきたのだ。

 おそらく、身分を隠し通せるのもほんのわずかになる。それまでは、今まで通りでいたい。それが唯一、彩夢の希望である。


 「おい。背中が哀愁、半端ねーけど、腹でも下したのか」

 珍しいこともある。晟也じゃら憎まれ口を聞いてくるなんて、今まであっただろうか。

 ぼんやり見つめ返す彩夢の目から、涙が溢れ落ちる。

 彩夢の予想外の反応に、晟也は目を見開く。

 これには、彩夢も驚きだった。

 「泣くほど辛いのか、腹」

 どうにも抑えきれないものが、突き上げて来る思いが、彩夢は止めることが出来なかった。

 「どうして、どうしてですの?」

 今にも消えそうな彩夢の声に、晟也はしっかり耳を傾けてくる。

 「どうしてって。あんだけ飯に拘っていたあんたが、飯も食わずにこんなところにいるっていうのは、そういうことじゃねぇの?」

 彩夢にとって、奇跡としか喩えようがない、出来事である。

 「相変わらず、頭がゆるくってね」

 鼻を啜りながら言う彩夢に、晟也は真顔で答える。

 「腹じゃなくって、頭の方かよ。事務所に行って、薬飲んで来いよ。ていうか、帰った方が良いんじゃねぇ。歩けるか?」

 腕を取られ、顔を覗き込まれた瞬間、彩夢は衝動を抑えきれなくなってしまっていた。

 「好き」

 彩夢は認めるしかなかった。

 この胸が苦しいのも、こんなに悲しいのも、祥希に髪を撫でられ逃げてしまったのも、全部、心に晟也がいたからだ。


 「ほら掴まれ」

 腕を肩に回され、胸の鼓動が早まる。驚きの表情で魅入る彩夢に、晟也はまるで気づく様子はなかった。

 「わたくしは、あなたのことが」

 「ああ面倒くせぇ。負ぶってやるから乗れ」

 淡々とした態度を取り続ける晟也の手を振り解き、彩夢は気が付くと駆け出していた。


 この思いが叶えられる日は、訪れない。それでも……。


 彩夢の目を赤くしているのを見つけた保科が、顔を覗き込んできたのは、終業時間間際だった。

 「おかっち。またあんたがやらかしたの?」

 「ちげーし」

 ムッとした顔で、岡部に振り返られ、保科が苦笑いをする。

 「昼休憩終わったら、もうこんな顔になっていたし、すぐあたしのせいにするの、止めて貰っていいすか」

 「そりゃ失敬」

 二人はふざけた口調でしゃべっているが、それは彩夢への気遣いであることは、痛いくらい伝わって来ていた。

 「ああでも、その理由、あたし知っているかも」

 岡部の言葉に、彩夢は青ざめる。

 気のない返事をする保科に対し、岡部の顔がにやける。

 「彩夢、晟也に告ったらしい。偶然、バンちゃんが聞いたって言いふらしていたけど、ホント?」

 岡部に質問を振られ、彩夢は俄かに胸を撫で下ろす。

 「ええ」

 胸を張って言えることではなかった。俯き加減で返事をする彩夢を、保科が抱き締める。

 「ようやった彩夢。でかした。で、奴の返事を拙者に聞かせんか。早う言わんか」

 「保科さん痛いです」

 「ごめんごめん」

 保科から解放された彩夢は、くすっと小さく笑う。

 「ほう。その笑いは」

 期待に満ちた目で、岡部に言われ、彩夢は口を尖らせる。

 「答えてもらえませんでした」

 大袈裟にこける仕草をする二人に、彩夢は吹き出す。

 「ま、あやつの気持ちもわからんでもない。持久戦で参ろうぞよ」

 「どうなさったんですの保科さんたら、そんな武士語をお使いになられて」

 「嫌ぁあんたがお姫様言葉なら、わたしゃ武士あたりが妥当かと。密かに訓練しておったのよ」

 「保科さんバカじゃないの。そんなので対抗しないでよ」

 岡部の突込みで、一頻り笑いあった後、保科が飲みに行こう。と言い出す。当然満場一致で決定したのは、言うまでもない。

 彩夢は、心が少し軽くなった気がした。だがそれも束の間のことである。

 彩夢を待つ祥希に、いち早く気が付いたのは保科だった。

 「何だあの男」

 一緒にいた岡部も、あっ。と短い声を上げていた。

 「彩夢さん」

 「誰?」

 明らかに彩夢の様子がおかしいのは、一目瞭然である。

 岡部が保科の裾を引っ張る。

 「おかっち。知っているの?」

 岡部は、ちらり彩夢を見る。

 「うんまぁ」

 言い辛そうにしている岡部を、保科が焦れる。

 「誰よ。教えなさいよ」

 「彩夢、あの人って木庭ちゃんが言っていた」

 岡部にそれ以上喋らせまいと、彩夢は慌てて言葉を遮る。

 「申し訳ございませんが、二人で先に行っててください。わたくしは彼と少し話してから参りますわ」

 顔面蒼白になっている彩夢を、心配そうに保科が見る。

 「一人で平気?」

 「ええ。これはわたくしが、解決すべき問題ですので」

 きっぱり言い切る彩夢に、保科は口を噤むしかなかった。

 「じゃあ先に行っているね」

 保科に優しく肩を叩かれ、彩夢はぎこちなく頷く。


 通り過ぎて行く二人に、祥希は愛想の良い笑みで会釈をかわすのを見届け、彩夢は歩き出す。


 トイレで一頻り泣いて、彩夢は決心をしたのだ。

 もうこれ以上、自分へ嘘は吐けないと。 



 



 


ここから少しドロッとしそうな予感が……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=58318851&si
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ