プロローグ③
彩夢がまだ幼かった頃、その名前を耳にしたことがあった。
ちょうど今時分だったか、法事を済ませ会食する宴に飽きた彩夢は、和歌子の膝から離れて庭へと出ていた。
夏を思わせる日差しが照らす庭は、彩夢にとって絶好の遊び場だった。
雪見障子戸から、親戚の男の子が睨むのを眺めながら縁側から降り立った彩夢は、清江の姿を見つけ、すぐに姿を隠す。
幼子だった綾夢を、甘やかすことがなかった清江である。途中退座してしまったことを見つかれば、静かな口調ではあるが、叱られる。そう思うよりも速く、躰が動いていた。植え込みの陰から、そっと様子を伺った綾夢は、目を見張る。
裏木戸から、一人の紳士がこちらに向かって歩いて来ていた。
「それは青磁お坊ちゃまがお好きだった花でございますね」
一礼を交わし、さりげなく始まった会話に、彩夢はそっと首を伸ばす。
見知らぬ中年男性だった。
「ええ。今年も良く花をつけてくれております」
「あれから、九年ですか」
「今でも信じられませんわ」
「お気持ち、お察しします」
「ごめんなさいね、わたくしのわがままで、あなたにもご苦労をおかけしてしまって」
「お気づかいなく」
「お礼を申し上げるわ」
「お礼なんて、とんでもございません。しかし、このままずっとというわけにはまいりません」
「それはわたくしも存じ上げております」
「詳しい話は、また後日にでも。さ、中へ」
蝉の鳴き声にかき消されながら聞こえてきた二人の会話と、去りゆく清江の寂しげな背中が強烈に残っている。
のちに知ったことだが、青磁は哲司の四歳離れた兄で、大学四年生の秋、旅先から姿を消してしまっていた。崖から、青磁が乗っていたと思われる車が引き上げられ、自殺と事故の両面から捜査されたが、本人が見つからないまま失踪扱いとなった。しかし、源次郎は青磁を死んだものとみなした。そんな時でさえ、清江は取り乱さなかったと聞く。
心無い、親戚たちの如何わしい話である。
しばしの沈黙を保っていた源次郎が、扇子で膝を打つ。
「……良いだろう。お前がそこまで言うなら一年だけやろう」
「父さん、分かってくれてありがとう」
「ただし、何かあれば待たずとして、彩夢を嫁にやる」
「それでは何の解決になっていない」
「分かりましたわおじい様。その条件をお飲みしますわ。ですが一つだけ、わたくしからもお願いがあります。是非、父の手伝いをさせていただけませんか。きっとお役に立てると思いますわ」
「そうだなそうするといい」
「それはならん。生ぬるい経営法など学んで何の役に立つ? 彩夢、お前がどうしても働きたいというなら、行き先は私が決める」
「望むとこですわ」
わずかに口角を上げる源次郎に彩夢は挑むように見詰める。
「マルシチなんかどうだ」
「父さん、マルシチって」
困惑する表情で言う哲司に、源次郎は片眉を上げて睨む。
「何か不服か哲司」
「お父様、わたくしはどこでも構わなくってよ」
「良く言った彩夢。それでこそ私の孫。どうせ働くなら特別扱いでは面白くあるまい」
「どういうことですのおじい様」
「西園寺家の跡取りとではなく、一社員である、そうだな五十嵐彩夢として働くっていうのはどうだ。お前の力を発揮するのに申し分がない条件だろ」
「そうですわねおじいさま」
「よし、話は決まった。彩夢、私の期待を裏切りるなよ」
「おじいさま、心配り大変ありがとうございます」
「父さん、俺からも礼を言うよ。ありがとう」
「礼には及ばん」
戸口に手を掛けた源次郎の口元がわずかに緩んだことを知らない二人は、安堵するように見つめ合う。
「ああ緊張しましたわね、お父様」
足を崩す彩夢を見ながら、哲司が頭を掻く。
「彩夢、俺が不甲斐ないばかりに、すまない。この通りだ」
頭を下げる哲司を見て、彩夢はもうと口を尖らせ笑う。
「お父様、謝らないで良くってよ。おじいさまのあの性格は、今始まったことではありませんわ。それよりお腹が空いたわ。そろそろお暇させていただきましょう」
「そうだな。早く帰ろう。母さんが首を長くして待っているぞ」
そう言って立ち上がろうとした哲司が、よろめく。
「お父様」
「大丈夫。心配ない。足がしびれただけだ。悪いが彩夢、肩を貸してくれ」
哲司の躰が悲鳴を上げ始めているのは、うすうすだが、彩夢も気が付いていた。