プロローグ②
一呼吸を置き、彩夢は緊張した面持ちで三つ指をつく。
「おじい様彩夢です。ただいまアメリカから戻りました」
「うむ。中へ入りなさい」
「失礼いたします」
「彩夢、お帰り」
彩夢は思い気けない声を聞き、パッと表情を明るくして顔を上げる。
「お父様も来ていらっしゃったのね。ただいま帰りました」
その声の主は彩夢の父、哲司のものだった。
「元気だったかい」
「はい。勿論ですわお父様。もう毎日が楽しくて夢のようでしたわ」
「それは良かった」
朗らかな笑みで話す哲司の傍らで、片眉を上げた源次郎が咳払いを一つされ、二人の顔から、スッと笑みが消える。
「雑談はそこまでだ。本題に入る。彩夢、お前に縁談の話がある。相手は十三丘ホールティングの専務、十三丘祥希君だ。申し分がない相手だ。明日、一席設ける。来春早々に挙式を上げる」
唐突な話題に、彩夢は思わず哲司の顔を見てしまっていた。
「お待ちになっておじい様」
「祥希君には哲司と変わって、西園寺グループを任すことになる」
「お父様、どういうことですの?」
問い詰める彩夢に哲司は言葉なく笑うばかりだった。
「西園寺グループを任すのには、哲司には荷が重すぎたまで」
「それは更迭ということですの?」
「そうとってもらって構わない」
経営がうまくいっていないことは、直接聞かされてはいないが、薄々気が付いていた彩夢である。源次郎がこのようなことを言いだすだろうと、予測もついていた。だが、彩夢はこの横暴とも思える源次郎の話に、素直に応じる気にはならなかった。
「彩夢、お前もバカではあるまい。西園寺家の一人娘として何をするべきか分かるな」
「それはお断り出来ない、ということでござましょうか、おじいさま」
「そういうことだ」
「なぜ、そんなに急がれますの」
「お前が知る必要はない」
「お言葉ですかおじいさま、政略結婚なんて時代錯誤も甚だしいですわ」
「随分会わないうちに、小生意気なことを言うようになったな。彩夢」
訝る源次郎に彩夢は身を固めるが、ここで怯むわけにはいかなかった。
刃向っても敵う相手ではない。それは百も承知である。しかし、このまま源次郎のやり方に従っていては、会社の未来はないことも、経営学を学べば学ぶほど痛感させられた一説でもある。手に汗を握る思いで彩夢は煩労を止めようとはしなかった。
「わたくしなりに考えておりますわ。その為の準備もしてまいりました。あと二年お待ちになって頂けたら、会社に貢献できますことを、お約束しますわ」
「二年?」
鼻で笑う源次郎を、彩夢は真っ直ぐ見る。
「ええそうですわ」
「生ぬるいことを言うのではない。彩夢、お前は何も分っていない」
「どういうことですの?」
「その理由は哲司に聞くが良い。私は出来が悪い息子のため、一肌脱いだまで。良いか彩夢、お前の知識など今の西園寺グループに必要ない。その美を有効利用してこそ、お前の存在価値が見出される。そう思わんか、哲司」
「父さんよしてくれ。彩夢はまだ二十歳。巻き込まないでくれ」
「どの口が言っている哲司」
源次郎の声が、哲司を威圧するのと同時に、襖が静かにあけられ、誰もが口を閉ざす。
入って来たのは、お茶を持った清江だった。
手伝いではなく、清江が運んできたことに、彩夢は目を瞠る。
微かに鹿威しの音が聞こえていた。
お茶を配り終えた清江が退室するのを待って、哲司が口火を切る
「父さんこの通りだ。俺に時間をくれ」
「哲司、お前に何が出来る?」
源次郎にぴしゃりと言われ、哲司は小さくなる。
「哲司、親の欲目か? お前に言う資格はない」
「重々承知の上。だからこうして頼んでいるのではありませんか?」
「この私に刃向うというのか」
「そんなことは言ってはいない。俺はただ」
「ただなんだ。こうなったのは誰の責任だ。答えてみろ哲司」
「それは……」
「このような論争は時間の無駄。明日3時。ロイヤルパークシティホテルだ。遅れるではないぞ彩夢」
「お言葉ですがおじいさまは、一線を退かれたお方。もし会社をお救いになるのが目的なら、わたくしは父の命令に従いますわ」
それを聞いた源次郎の目に、鈍く光るものが宿る。
「なかなか出来が良い娘だな哲司。さすがは三流の女の血が流れているだけのことはある」
「何がおっしゃりたいのおじいさま」
「事実を述べたまでだ」
「いくらおじい様でも母を侮辱することは許しませんわ」
声を震わせる彩夢の顎を、源次郎は扇子でしゃくりあげる。
「何だその眼は?」
「父さん、もう止してくれ。彩夢ももういいから下がりなさい。あとは父さんが話す」
「でも……」
「良いから下がりなさい」
「彩夢、おまえに父親を見殺しにする度胸があると、言うんだな」
渋々立ち上がった彩夢だったが、戸口に手を掛けたまま源次郎を蹴り見る。
絶句する綾夢に、源次郎がどこまでも冷淡な笑みを向ける。
「父さん、彩夢を脅すような真似、しないでくれ。彩夢も早く行きなさい」
「しかし……」
「所詮付け焼刃。到底お前では無理だったってことだ」
「それはどういう意味だい、父さん」
哲司は、膝に置かれた手を強く固める。
「はっきり言ってやろう。青磁がいたら、こんなことにはならなかった。あいつはお前と違って、差益が有能なやつだった」
怒りが籠った目で、哲司は源次郎を睨む。
張りつめた空気が漂う中、綾夢は決断をしなければならなかった。