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第二章 屈辱は恋の始まり⑤

 「彩夢様、あの方はどうなりました?」

 椎野木の質問に、彩夢は一呼吸を置き答える。

 「何のことかしら?」

 「気になる方がいらっしゃると、先日お話されていたかと」

 「ああ」

 恍けてみせる彩夢に、椎野木は思わず笑いそうになる顔を引き締め、ミラー越しに様子を窺う。

 彩夢は足を組み変え、外を見ながら言葉を続けた。

 「自尊心は大切って申し上げましたでしょ。ですからわたくしは行動を起こしたまでですわ」

 「左様でございましたか」

 彩夢は深い溜息を吐き、椎野木をまっすぐ見る。

 「彼は生活のみならず、心も貧困のようですわ。わたくしには関係ないってことかしら」

 取るに足らない。という見立てに狂いはなかったことを確認した椎野木は、目じりを下げ、「それで結果はいかほどに」と尋ね返す。

 再び車窓へ目線を戻していた彩夢は、しばし外を眺めてから、「最低な気分でしたわ」と答える。


 全くの茶番だった。屈辱でしかない出来事を、彩夢は頭から排除したかった。


 成功した。と思われた押しつけ作戦も、ふたを開ければ人を介し返されてしまう、というお粗末な結末が待っていた。しかし、それは彩夢とて、考えなかったわけではない。予想済みだったがゆえに、次の行動へと移せていた。柏木に申し訳なさそうに渡された弁当を食堂で広げ、これ見よがしに、「皆さんにお作りしてきましたのよ。うっかりそのことを言い忘れてしまっただけですわ。まさかこの量をおひとりで全部召し上がるつもりでしたのかしら? と笑って見せたものの、心がすっきりしなかった。

 早々に食堂を後にした彩夢は、文句を言う相手を探し回ったが、どこにも姿はなかった。

 聞けば晟也は、珍しく早退していた。

 何たる失態。何たる屈辱。

 思い出しただけでも、腹立たしい出来事の一つになったのは事実。

 だがそれと同時に、不本意ながら、考えても癪なのだが、見とめざるを得ないことに気づかされてしまったのだ。

 あの日、更衣室から出て行くと、彩夢を待ち構えていたのは好奇の目だった。言うまでもない。うわさ好きの坂東が、マシンガンのようにあることないことをそこら辺中に言いふらしていたのである。彩夢が姿を現したころには、話は大きく膨らみ、告白した。まで行きついてしまっていた。当目で見た晟也も、柏木に何か聞かれている様子だった。

 無論、彩夢は事実無根。と全力で弁解をしたが、それに効力は呆れてしまうほど持っていなかった。

 そして気が付いてしまったのだ。

 何気ないしてきた行為が、見方によっては大きく捻じ曲げられてしまうってことにだ。

 もう少し思慮深く、行動すべきだった。そうすれば、岡部との間に誤解も生じなかっただろうし、こんな如何わしいうわさも流されることはなかった。

 晟也に受け取ってもらえなかったことより、自分の浅はかさに、彩夢はうちの意めされてしまったのだ。

 絶句する彩夢を、桑井が手招いたのはその日の夕方だった。

 「出来れば行動を、もう少し慎んでほしい」

 申し訳なさそうに言う桑井の言葉を、うわの空で聞いていた。

 「やはり、今日のような真似は」

 「皆さんと、お近づきになりたかっただけですわ」

 「そのようなことでも、普通はなさりません」

 「普通?」

 どうしてそこでスイッチが入ってしまったのか、彩夢自身判らなかった。

 「お言葉ですが桑井所長、普通って何ですの? わたくしにとってはこれが普通ですわ」

 「五十嵐さん。声を下げて」

 慌てて周囲を見回す桑井が、気に入らなかった。

 「もうよろしくって」

 悔しさで涙が込み上げて来ていた。

 その様子に、桑井が慌てふためく。

 「ええまぁ。何も泣かなくても……。すいません。言葉が過ぎたなら謝ります。ですが、大盤振る舞いは控えて頂かないと」

 消極的に言ってくる桑井を、彩夢は涙目で睨む。

 「ええ承知いたしましたわ。庶民は庶民らしく、振る舞えばよろしくってね」

 「五十嵐さん」

 桑井が慌てふためき、指を口の前で立てる仕草も、今の彩夢には許せない行為に過ぎない。

 悔しくて、悲しくてど、うしようもなく虚しくて仕方がない彩夢は、一刻も早く家に帰り、思い切り泣きたかった。

 そして、出来ることならすべてなかったことにしたかった。


 そうこうしているうちに、二週間という歳月が流れ、陽気はすっかり夏模様に、様変わりしていた。


 倉庫に入ると、ムッとした熱気が顔を顰めさせる。

 ちょっとした備品を棚へ入れて行くくらいは、彩夢自身の手で行われていた。

 それこそ最初は桑井も良い顔をしなかったが、彩夢の猛烈な反撃にあい、しぶしぶ承知させたのだ。とはいえ、ほんの入り口付近の備品棚。奥まで行ったことは、説明を受けるためはいった初日だけで、その後は一度も行ったことはないままである。休憩時間、保科たちが話す地獄のような暑さとか、荷棚の配置とか、分からないまま、愛想笑いで彩夢は相槌を打っていた。

 源次郎をなった食させるには、数字が必要なのだ。営業が持ってくる数字や、無駄な商品の排除が大切であって、そこで働く者たちへの配慮など、彩夢の頭にはないに等しかった。


 「彩夢、何か暗いけどどうした?」

 「何でもございませんわ。それよりムシムシいたしますわね」

 朝からじめっとした空気が漂っていた。

 先に着替えを済ませた彩夢は、煙草を吸う保科の隣で缶コーヒーを飲みながら、鬱としそうに空を見上げる。

 「一雨、きそうだね」

 「ええ。予報は80%でしたわ」

 「うひー。さっさと終わらせないと」

 そう言うと保科は重い腰を上げ、更衣室へと向かって行った。


 何気なく彩夢は、視線を映して行く。

 倉庫の壁に凭れ掛かり、片足を上げ、頻りに携帯画面を見詰めている晟也の姿があった。

 他の人たちのように、ゲームをしているわけでも、音楽を聴いているわけでもないようだが……。

 しばらく見入ってしまってから、彩夢はぶんぶん頭を振る。

 「気になる?」

 不意に現れた坂東に、彩夢はドキッとさせられてしまっていた。

 「何のことかしら?」

 「またまた恍けちゃって。良いわね若いって」

 「そんなんじゃありませんことよ」

 顔を真っ赤にして言い返す彩夢を見て、坂東は顔をニヤつかせる。

 「朝礼始めるぞ」

 遠くで桑井が叫んでいた。

 「本当のこと、教えなさいよ」

 「ですから」

 肩を小突かれた拍子に、彩夢はよろめいてしまう。

 危うく通りかかった岡部にぶつかりそうになり、ムッとした顔をされ、そのまま行かれ、彩夢は泣きたい気持ちになる。

 「ありゃ、また始まっちゃったみたいだね。気にしない方が良いよ」

 坂東に励まされ、頷いたものの、すっきりしない彩夢である。

 木庭との距離も置いたのになぜ?

 一向に戻らない岡部の態度に、彩夢は途方に暮れてしまっていた。

 


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