第二章 屈辱は恋の始まり④
昨晩降った雨が乾ききらない道を、彩夢は急ぎ足で歩いていた。
まさかという思いで、椎野木は彩夢の話を聞いていたのは、二日前のことである。
「大の男が、昼食を満足に食べないって、どういうことかしら」
椎野木にとって、思いがけない彩夢の質問に戸惑いを覚えたのは間違いない。
「何かの御病気では」
期待する目に晒され、椎野木は慎重に言葉を選んだ。
「そんなことなくってよ。彼、普通に働いていらっしゃるし」
晟也のことを思い浮かべながら答える彩夢に、椎野木は半瞬ほど置き、答える。
「では貧困でいらっしゃるのでしょう。何らかの原因で、執拗に借金取りにおわれておられるとか」
「椎野木凄い。きっとそうですわ。彼、借金取りにおわれているかどうか存じ上げませんけど、確かにみすぼらしい恰好をしていらっしゃりますわ。躰の線も細いようにお見受けできますし、間違いなくってよ」
目を輝かせて言う彩夢が、椎野木は眩しくて仕方なかった。
「もっと早く、椎野木に相談すればこんなに悩まずに済みましたのに、わたくしとしたことが、とんだお粗末様でしたわ」
皮肉を言ったつもりだった。
「男っていうのは、妙な性分でございます」
噛みしめるように言う椎野木を、車を降り掛かった彩夢が、驚いた表情で振り返る。
「そうなのですね」
満面の笑みで言う彩夢に、椎野木は目を細める。
「自尊心の塊のようなもの、差し出がましいのですが、憐れみで差し伸べられるお嬢様の手を煩わしく思われるのでは」
「そうかもしれませんね。自尊心は傷つけないよう、心得ますわ」
一人納得する彩夢に、椎野木は何とも言えない気持ちになる。
「椎野木がいてくれて、本当に良かった。また相談に乗ってくださいね」
笑顔で言う彩夢に、椎野木は深く腰を折る。
椎野木はしばらく顔を上げることが出来なかった。
椎野木椎野木。と、子犬のように後をついて回っていた彩夢が、目に浮かぶ。
彩夢の言葉が、これほどまでに残酷で胸に突き刺さるものだとは……。
何も知らない彩夢が、家を出る。
車を静かに発進させ、椎野木は後をつける。
荷物を重たそうに歩く彩夢を、心苦しかった。駆け寄りその手柄荷物を受け取り、無謀はおよしなさい。と諭してやりたい。そして、自分だけを見ていて欲しい。そう言えたらどんなにいいだろうと思う。
何時もより一本遅い電車に乗り込む彩夢を見届け、椎野木は先を急ぐ。
折よく彩夢を乗せた電車が付き、改札から出てくるところだった。
首を長くして辺りを見回す彩夢に、椎野木は眉を顰める。
がっかりして歩き出したところで、追い抜いて行こうとする自転車へ彩夢は手を伸ばす。
振り返った事物が、彩夢の思い人だとすぐに分かった。
窓を開け、椎野木は必死で聞き取ろうとしていた。
わざと脇を通り過ぎる。
用意周到である。余程のことがない限り、まずばれることはない。と椎野木は隠していた。今までも何度となくこうやって彩夢を守って来たのだ。
「ちょっと、レディが重そうに歩いているのに、無視なさるなんて男の風上にもおけなくってよ」
まるで彩夢の視界には椎野木は入っていなかった。
訝る様に舌打ちする晟也の自転車のカゴに、無理やり荷物を置き、両手をぶらぶらさせている彩夢をミラー越しに確認し、椎野木はしばらく通り過ぎたところで車を止める。
先に行ってしまう晟也をしたりと頬を緩ませる彩夢に、胸が痛んだ。
「彩夢様にも困ったものだ」
独り言ちり、椎野木は口元を緩ます。
目新しさに好奇心が煽られたのだろう。
「要経過観察ってとこか」
少しかわいそうにも思えるが、致し方がない。それが恋ってものである。彩夢にとっていい経験になる。どこか美味しいお店を探しておくとしましょう。
再びアクセルを強く踏み込む椎野木の口元が、わずかに緩んでいたことを知る由もない彩夢は、駐輪場で晟也と対峙していた。
「ちょっとお待ちになって?」
行ってしまおうとした晟也は、後ろから力いっぱい彩夢に引っ張られ、睨らんでいた。
「取ってくださるくらいの紳士のわきまえはなくって?」
彩夢がどれほど必死で言っているのか、晟也はまるで何も気が付いていなかった。
「ほらよ」
乱暴に渡され、彩夢はバランスを崩す。
「あぶっ」
晟也に助けられ、彩夢は顔を赤くする。
「お気をつけあそばせ」
「は? 助けて貰ってその言いぐさはないだろう」
「ええそうですわね。ではこれは感謝のしるしということで」
売り言葉に買い言葉。
それでも、大成功である。
晟也に袋を押し付けた彩夢は更衣室へ逃げ込み、全身から力が抜け落ちていた。
「彩夢ちゃん? 具合でも悪いの。顔が真っ赤よ」
坂東に言われ、彩夢は顔を両手で覆う。
「彩夢ちゃん?」
「大丈夫です。きっと走ってきたせいですわ。少し涼んだら参りますわ、わたくしにお構いなくお先にどうぞ」
「そう」
両手で顔を仰ぐ彩夢に、坂東は首を傾げ傾げ更衣室を出て行く。
そっと首を伸ばし外の様子を窺う。
誰かを使いに寄越す様子はなかった。
受け取ってくれた。そう思っただけで顔がにやけてしまう。
たかがこれしきのことだが、されどこんなに嬉しいことだとは思わなかった彩夢だった。