第二章 屈辱は恋の始まり③
――気まずさが残る週末。
岡部は平常を装っているが、言葉の端々に刺があった。
不意に出来た陰に、彩夢は顔を上げる。
「何? ため息なんかついちゃって」
「あら、いやですわわたくしったら。全然気が付いていませんでしたわ」
悪びれることなく言う綾夢がよほどお気に召さなかったのだろう、岡部はムッとした顔をする。
「あんたさ、そのお嬢様言葉、もうやめにしない?」
一瞬、言われている意味が分からない彩夢は、ぎこちなく微笑み返す。
「なんかさ、鼻につくんだよね」
冷たい口調に、彩夢は目を瞠るばかりだった。
「男受け狙っているんだろうけどさ、ここって比嘉抜かしてみんなおっさんばっかだしさ、そういうの、本社へ戻ってからしなよ」
突然、どうして岡部がこんなことを言いだしたのか、彩夢は理解に苦しむ。
青ざめる彩夢の顔を見た岡部が、舌打ちをする。
今までこんな屈辱を味わせられたことがあっただろうか、そう思うと同時に彩夢は込み上げて来るものがあった。
「なぜそんなことを仰りますの? 心外ですわ」
薄ら涙を浮かべ言う彩夢に、岡部が鼻で笑う。
「ほら、そういうのが嫌なんだよね。まるであたしがいじめているみたいじゃん」
「そう仰られましても。 岡部様は卑怯ですわ」
「卑怯? は?」
彩夢は気負い立つ。
「論点が幼稚すぎますわ。言葉使いは癖のようなもので、すぐに直りませんし、直す必要もございませんでしょ? それをお攻めになるなんて岡部様、間違っておりますわ」
口を開きかけた岡部は、そのまま部屋を出て行こうとしていた。
「まだ、話は終わっておりませんわ」
食い下がる彩夢を一瞥したものの、岡部は何も言おうとしなかった。
「どうしてですの? はっきり仰って下さらなければわたくし、直しようがなくってよ。それにケンカは両成敗って申しますでしょ。一方的に責められるのは納得いきませんわ」
両足を踏ん張り言う彩夢を、岡部は冷ややかな目を向ける。
「面倒くせぇ。はいはい。だったら直さなくていいんじゃないの。あんた何なの? あっちにもこっちにも色目使っちゃって」
「色目なんか、使っていません」
「使っているじゃない? こんな目をして木庭さんなんて甘えた声出しちゃってさ。比嘉も狙っているの、見え見えなんですけど」
両目を指で下げ、甘えた声を出して言う岡部に、彩夢は愕然とさせられていた。
「わたくしがいつ……」
岡部は鼻で笑うばかりで、彩夢の話にまるで取り合わなかった。
「酷いですわ。わたくしはそんなつもり有りませんわ。間違っても木庭さんにだけは手を出すはずがないじゃありませんか。わたくしもそこまで鈍くはございませんわ。岡部様の気持ちを踏みにじる真似などいたしませんわ」
「何言ってくれちゃってんの?」
ものすごい形相で言い詰められ、彩夢は息を飲む。
「それは……気が……あるかと」
「は? あんたと一緒にしないでよね。あたしがいつ木庭ちゃんを好きだって言った?」
「それは……」
「最悪。マジムカつく」
「お待ちになって。まだ話は済んでおりませんわ」
引き止める彩夢の手を勢い良く振り払った岡部は、ものすごい形相で睨むだけで、部屋を出て行ってしまう。
――帰り道。
一言も口をきいてくれない、岡部に肩を落とし歩く彩夢の目の前を、晟也が自転車で追い越して行く。
止まれ。
彩夢は心で呟く。
しかし現実はそんなに甘いものではない。晟也の背中はあっという間に見えなくなってしまっていた。
岡部の言葉が胸に突き刺さる。
目的を見失いかけていたのは、確かである。自分でも痛いくらい承知している。ぐずぐずしている場合ではない。源次郎に打ち勝つ方法を見出さなければならない。山積みの課題。何としても阻止をしなければならない。そう思えば思うほど、晟也が頭から離れずにいた。
「彩夢様、どうかされましたか」
椎野木に駆け寄られた途端、彩夢の目から大粒の涙が零れ落ちる。どうしょうもなく虚しくて仕方なかった。
少し前なら、素直に胸を借りて泣くところだが、彩夢は鼻を啜り笑ってみせる。
「何でもなくってよ。ただ」
言葉を詰まらせる彩夢に、椎野木がそっと背に手を添える。
「ただ、何でございましょう?」
「ただ、厄介なものね」
「左様でございますね」
多くを語らないこの優しさに、彩夢は何度となく救われてきた。
自宅とは違う方向に車を走らせ、気が済むまで泣かせてくれる。それは昔も今も変わらない。そんな椎野木に好意を持ち始めたのは何時頃だっただろう。
ミラー越し、椎野木と目が合う。
「椎野木、わたくしにできるかしら?」
「お辛いでしょうがここは辛抱のしどころでは。今の苦労はやがて訪れるであろう幸せの加味と私は思います」
飴玉を差出し言う椎野木に、彩夢は笑みを零す。
「わたくしはもう子供ではありませんわ」
「左様でございましたね」
この気持ちは椎野木だけのもの。ずっとそう思っていたのに……。
綾夢は手にしていたバッグをギュッと、抱き締める。
「心配いりませんよ彩夢お嬢様。あなたは幸運の持ち主でいらっしゃいます。この椎野木が太鼓判を押します」
目じりを下げ言う椎野木に、どれほど焦がれていたか。
「ねぇ椎野木」
「何でございましょう」
どうして聞いてみようと思ったのか、自分でも分からなかった。
信号待ち。
振り返る椎野木に、彩夢は衝動を止められずにいた。