第二章 屈辱は恋の始まり②
意識してはいけない。と思うえば思うほど、目が行ってしまう自分が情けなく、彩夢は思う。
春の日だまりが出来ている壁にもたれ、携帯を見ている晟也を見とめ、深い溜息を吐く。
本来、ここへ来た目的を見失いそうで、彩夢は足早に管理室へ向かう。
こんな生半可な気持ちでは、源次郎に立ち向かうなど到底できやしない。
突然、目の前に顔が現れ、彩夢はドキッとさせられる。
「ごめん。脅かすつもりはなかったんだけどね。あまりに真剣な顔をしていたからつい」
思いの外、彩夢に驚かれてしまった木庭が、頭を掻き掻き言う。
「つい何なの?」
その声に、彩夢と木庭は同時に振り返る。
トイレから戻って来たばかりの岡部に訝られ、木庭には全く津ようしなかった。むしろ楽しむかのように言葉を返して行く。
「何だよその目は」
「別に」
二人のやり取りを聞きつつ、彩夢は椅子を引く。
「彩夢、お茶なんか淹れなくていいよ」
いつの間にか岡部にそう呼ばれるようになっていた彩夢は、人知れず喜んでいた。
「気、使わんでええよ。それより」
自分で椅子を引っ張て来た木庭は両肘をつき、興味津々な顔で彩夢を見る。
首を傾げる彩夢に、木庭の顔がだらしなく緩む。
「かわいいなって思って」
言った途端、岡部が木庭の襟首を引っ張り上げる。
「まったくこのスケベじじぃが、彩夢から離れなさい」
くすくす笑う彩夢に、木庭が救いを求めてくる。
木庭はどうしちゃったの、と岡部が首を傾げてしまうほど、頻繁にここを訪れるようになっていた。その理由は彩夢に会いたいが故らしいのだが……。
それにしても岡部がいじらしくて仕方ない、彩夢である。
「木庭さん、何かお飲みになられますか?」
「飲む飲む。彩夢ちゃんが淹れてくれるものなら、毒だって飲む」
「本当に毒、盛ったろうか」
「いや。岡ちゃんに俺は殺せん」
木庭に意味深な笑みを浮かべられ、岡部はムキになって突っかかって行く。
「虫も殺せないように見えるあたしでも、怒ったら何するか分からないわよ」
「ほう。虫が避けて通って行くの間違いだろ?」
「何言っちゃってくれているのかしら」
これもいつものこと。
二人の会話に、だいぶ慣れた彩夢である。
「自動販売機で買ったものなので、誰が毒を入れたのか、分からなくってよ」
まがおで水を差し出す彩夢を見て、岡部と木庭は顔を見合わせ噴き出す。
「おいおい殺す前提かよ」
「もう良いからそれ持って、とっとと所長のところへ行ったら」
冷たく突き放す岡部に、目じりいっぱいに皺を寄せ笑う木庭を見て、彩夢は確信する。
「木庭さんって」
「ほい」
「お付き合いされている方っていらっしゃるの?」
その言葉に、意図はなかった。しいて言うならば、岡部のための一言である。
笑顔で首を傾げる彩夢に、木庭の目じりが下がる。
「まさか彩夢ちゃんの口から、そんなワード、聞けるとは思わなかった」
いつものように同調して来ると思った彩夢は、それとなく岡部を見る。
「もしかして俺にホの字とか?」
岡部に冷たいものを感じ、彩夢は内心気が気ではなかった。
「俺は大歓迎。何なら今日、デートでもする」
「それは……」
助けを求めるように見る彩夢に、岡部は目を合わせようとしなかった。
「何が食べたい? それとどっか行く?」
「わたくし、そんなつもりで」
「いい加減にしなさいよ木庭ちゃん。いい歳したおっさんが彩夢みたいな若い子が相手にするわけないじゃん」
困り果てている彩夢を見かねた岡部の一言に、木庭の顔が緩む。
「おっさんって、失礼な」
「じゃあ齢、言ってみなさいよ」
「俺か、俺は」
「見栄張らないでよね」
「こんなもん見栄張ってどうするん。俺はここら辺では正直者の木庭ちゃんで通っているんだ」
「よく言うわ。図々しいのの間違いでしょ」
「もうお二人ともお止しになって」
「彩夢ちゃん、俺、幾つに見える?」
「そうですわね、わたくしの父が43歳ですから、6か7くらいかしら?」
「鋭い」
「で、幾つよ」
「そこをあえて言わないのが良いんだよ。興味そそられるだろ? 俺、こう見えても愛のテクニシャンだから」
「何がテクニシャンよ」
「彩夢ちゃん、親子ほどの齢の差があるけど、こんな俺を好きになってくれてありがとう」
木庭にがっちり手を握られ、彩夢は目を瞬かせる。
岡部が、無理矢理彩夢から木庭を引き離す。
「ゲッドアウト」
岡部に言われ、木庭が小さくなる。
「ほら行った行った」
こんな関係が築けたら……。
振り向き様、岡部と目が合ったことに、彩夢は気が付かずにいた。
「こんなことばかりにかまけていてはいけませんわね」
「は?」
「職場に私情を挟むのは」
突然岡部に頬をはたかれ、彩夢は目を瞠る。
「あんた本気で言っているの? そりゃああんたが言う通り、仕事中にする会話じゃないわ。するなって言うならしないわよ。だけどあんた何様のつもり?」
「わたくしはただ」
それは、揺らぐ自分を戒めるつもりの言葉だった。
弁解の余地も与えず、岡部は表へと出て行ってしまい、一人残された彩夢は呆然と佇む。