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遺書

作者: Jessie


灯火親しむ秋となりました。

死を渇望している今日この頃、本文に我が思い綴るべくこうして筆を取りました。

もちろん誰か様に読んで頂きたいわけではなく、私自身の自己満足であります故、お時間割いて最後まで目を通す必要は微塵もございません。

また私は文豪でもなければ、特別秀でた何かを有しているわけでもございませんので、面白おかしい内容にはならないことでしょう。



私は普通になりたい一方、特別な存在になりたかった。

幼い頃はそれは天真爛漫で、皆と円満な関係を築いていたと思います。少なくとも今の私より昔の私が大人であったように感じます。


私の母は夜な夜な酔って帰ってきては喚き散らし、あちらこちらに尿を垂らしながら、泣いては刃物で手首を良く切っておりました。

私はよくわかりませんでしたが、母が水商売で稼いでいること、母が不満を抱いていること、そのような状況で父を起こしてはならないことだけを理解しておりました。

当時は兄と共に母が帰ってくる前に刃物を隠したり、帰ってきた母の相手をしておりました。しかし4つ上の兄は次第に家に寄り付かなくなってしまいました。


なぜ母がそのようなことをするのか、なぜ父は母を止めてはくれないのか、わからないことだらけでしたが、何故だか人に言ってはならないような気がして、兄ともそのことについて話したことはありませんでした。ただ苦痛で嫌な時間が早く過ぎることを祈っておりました。家よりも学校に行っている間の方が安心感があったのです。だから兄は家に寄り付かなくなってしまったのでしょう。


父を起こしてはならない理由は母の不満に当たるところで、父は良く母に手を挙げていました。幸い父は子どもに興味がなく、良く警察のお世話になていた兄に比べて私は目立たないこともあり、父に殴られたことはありません。正直に申しますと、良く分からないで暴れ、呑んでいない時もひたすらに文句を言う母よりも、無関心な父の方が好きでした。


ですが子どもというのは成長するもので、次第に母が酔って口にしていることや、父の母に対する暴行、兄の素行について少しずつ理解していきました。


ある日母が酔って帰ってきた時に、当時家にあまりいなかった兄と遭遇しました。酔った母は常に荒れているので、兄と口論になりました。その時初めて兄が母に手を挙げ、母は倒れて地面に頭を打ちました。わんわん泣き出す母を横目に、兄は出かけてしまいました。確かに私自身兄に幼い頃は良く奴隷のように虐げられていました。それにそこまで言う母にも問題はありましたが、私はそれまで父の母に対する暴行を止めに入っていた兄自身が、母に手を出したことがショックでした。

その日私は男性のことが信じられなくなってしまいました。


私が中学に上がってからは歳のせいもあってか、父による母への身体的な暴力はなくなっていました。私自身天真爛漫だった頃に比べて、随分と卑屈で暗い者になっておりました。


これまで父や母、兄のような学のない者になりたくないためにも勉学は真面目にやっておりました。当時の私は素直だったこと、家よりも学校の方が安心できたことにもあると思います。高校は地元で進学校と言われるところに入学致しました。

残念ながら中学までの幼馴染たちとは離れてしまいましたが、幼馴染に対してコンプレックスばかりを抱いておりましたので、内心ホッとするところもありました。


進学校ということもあり、学友はこれまでの感じとは異なっておりました。中学まではフリースクールのような所だったというのもあってか、母子家庭で経済的にも苦しい家庭が多くありました。しかし高校では塾に通い、ブランド物のカバンと時計を揃えるほど金銭的に余裕のある者が多くおりました。祖父が地主であったり、親が国家公務員であったり、私は恥ずかしくて自身の家庭について余計に普通ではないものだと認識するようになりました。


その頃からか、私は私自身見えない膜で覆われるようになりました。友人ができなかったわけではありません。ただ他者の関係性と比較すると、私に対する関係はどこか距離があるように感じたのです。元々成長と共に暗く人付き合いも得意だと胸を張れるほどではなりませんでしたが、ここに来て何か違うという違和感を自覚したのです。


高校に上がってからもやはり家よりも学校の方が安心できました。父の暴力はありませんでしかし、以前に比べ母の泥酔状態も多少マシにはなりましたが、それでも家は嫌なものでした。私は男性よりも女性の味方であるし、母のことも味方でいたいと思っておりましたが、母とはどうも相性が悪いのか、私が我慢できないからか、良く口論になっておりました。


家を離れるためにも、大学は遠く離れた場所を希望しておりました。そのため勉学に一層励み、成績は常に中の上におりました。ですが人生とはそう上手くいかないもので、ここでも裕福か否かが問題となりました。現実問題、受験費用、受験時滞在費用、一人暮らしの資金とその援助がなかったのです。高校はアルバイト禁止ということもあり、私自身一切のお金がありませんでした。奨学金を借りようとも思いましたが、皆のような友人関係を築けない私がきちんと就職し返していけるのか不安で不安で仕方ありませんでした。正直奨学金を借りても母に取られるのではないかとも思いました。

結局私は私よりも成績の低い者がそれぞれ満足する大学へ進学するのを傍らに、偏差値も低い地元の大学へ通うことになりました。


大学の学費は国立ということもあり、何度か払いましたが、経済的困窮者の免除を利用してタダで通えることになりました。


入学後は高校の友人とも離れ、また一から関係を築くことになりました。そこでそれまで意識していた膜の存在を実感することができました。もちろんハブられるということはありませんでしたが、特別親しい関係も築けませんでした。入学直後はチャットにハマっていました。誰とも会話がないままの日々だったので、人恋しくなったのでしょう。そこで今の恋人と出会いました。


誤解しないで頂きたいが、私はネットの出会いに反対です。それに相手が男性ならなおのことです。私は純粋でしたから、その時の彼の言葉を鵜呑みにし、好きになってしまいました。それから実際に会い、付き合うことになりました。遠距離ということもあり、また当初の話と違う彼の言動に嫌気がさし、男性のことが更に嫌いになってしまいました。ですが家を出るための唯一の手段ということもあり、彼との関係は継続しております。時折大切にしたいとも感じます。



私の死にたいという感情は自我が芽生えた頃からあるように感じます。もちろん初めから死にたいとは願っていませんでしたが、消えてなくなりたいとは考えておりました。

母の自傷行為を見ておりますので、傷が残ってしまうと周りにバレてしまうという小心者の心が働き、自傷…と言って良いのかわかりませんが、その時は壁に何度も頭をぶつけたり、髪を引っ張ったり抜いたりしていました。死にたいと考えるようになってからは窒息死を試みました。袋を頭に被り首元で結んだり、枕にうつ伏せになったり、しょうもない方法ばかりですが、小心者ゆえ何度も断念致しました。


大学に入った今でも死にたい日々を送っております。

睡眠薬とお酒の組み合わせも試しましたが、数が少なく度数も低いことから全くの無意味でした。ですが初めて死のうと思い最後まで実行できたのです。もちろんそれだけで死ねないことは承知の上で実行しましたが、ほんの少しの達成感を得られたのです。


今は脱水症による死に方を試しております。

まだまだ始めたばかりで最後まで実行できるかわかりませんが、こんなにもこの世に対する諦めを感じたことがありません。しかし絶望もしていないこの状態が初めてなので、きっと今度こそ成功することでしょう。



たくさんのことを省きましたが、思いのまま書くというのはわかりにくくなってしまうものですね。最後まで読んで腑に落ちない思いでしょうが、現実とはこのようなものなのでしょう。



さて、日毎に秋冷の加わる頃、なにとぞご自愛のほどを


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― 新着の感想 ―
[一言] おつかれ様です! 複雑な家庭環境かつ自分を拓けず大変かと思いますので掛ける言葉が見つからない私をお許しを! 何故掛ける言葉が見つからないかと言えば、私が同情の言葉を投げ掛ければ侮辱となってし…
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