泣き虫な君と、名前のなかった愛の話
泣き虫な女の子がいた。
彼女はいつも泣いていて、いつもどこかを怪我していた。
彼女は誰といても怯えていた。だから誰も気味悪がって傍にはいなかった。
臆病で傷だらけの女の子は、いつも一人で泣いていた。
「どうしたの?」
俺が話しかけていても女の子は泣いていた。
「何があったの?」
小さな声で女の子は答えた。
「怖いの。」
「何が怖いの?」
「全部、全部怖いの。」
「みんな?」
「うん。」
「クラスの子たち?」
「うん。」
「先生たち?」
「うん。」
「お父さんとお母さんは?」
「…………、」
彼女はまた、口をつぐんで泣き出した。
ぼろぼろと涙を流す彼女を見て、ほかの子が泣いていたら赤ちゃんのようだと思うのに、彼女には何も思わなかった。
唇をかんで、泣き声を押し殺しながら泣く彼女はただただ恐ろしい何かから身を守り、耐えているようだった。
静かに泣く彼女に対して抱いた気持ちを、小さかった自分は知らなかった。
数年後、あの気持ちは憐憫だと知った。
「俺も怖い?」
「…………、」
彼女は何も言わなかった。
「全部怖いなら、俺が全部守ってあげるから。」
なんでそう言ったのか、今でも俺にはわからない。
「何も怖くないよ。俺が君を守るから。」
彼女の事情も何も知らない俺の言葉は、まったく無責任で、きっと吹けば飛ぶような覚悟だった。
けれどそれでよかったんだ。
「……ありがとう、」
目が溶けてしまうんじゃないかと思うほど泣いていた女の子の、笑顔をその時初めて見た。
***********
泣き虫な女の子は、それからあまり泣かなくなった。
泣きそうになっても、じっと耐える。それから俺の傍によってきてぎゅっと服の裾を握る。それから頭をなでると、彼女がとても喜ぶことを、無意識のうちで知っていた。
あまり泣かなくなった臆病な女の子は、誰とも口をきこうとしない。誰にも笑いかけたりしない。
ただ俺とだけ話して、俺にだけ笑いかける。
このときの気持ちの名前を小学生の俺は知らなかった。
数年後、あの気持ちは優越感だと知った。
どこに行くにもついてきて、俺がいないと惑うように泣きかける。
誰の傍にもいないのに、安心したように俺の手を握る。俺の傍から離れない。
泣き虫な女の子は、臆病な女の子になった。
けれど怪我は減らなかった。
「怪我、痛いだろ。保健室行くか?」
「大丈夫だよ、これくらい。慣れてるし前より全然痛くない。」
彼女は泣かずにへらりと笑った。
この時、俺にはもっとするべきことがあったかもしれない。
そんな話を彼女にしたら、あれだけでよかったんだと言った。
************
泣き虫な女の子は、泣かなくなった。
臆病な女の子は、氷のような少女になった。
彼女は何にも怯えてなかった。いつもシンとしていて、胸を張って歩いていた。
誰とも話さない、誰にも笑いかけない、誰の言葉にも心動かされない。
ただ俺とだけ話し、ただ俺にだけ笑いかけ、俺の言葉だけを一生懸命聞いた。
このときの気持ちの名前を、中学生の俺は知らなかった。
数年後、あの気持ちは不安だと知った。
何に対する不安なのか、それにだけは、蓋をした。
氷のような女の子は、もう昔のように怖がって泣いたり、身体を震わせることはなかった。けれど彼女はまだたぶん、怯えていた。ほかの人間を怖がっていて、昔の周りの人のように遠巻きにされるくらいなら、自分の方から遠ざける。そんな怯え方だった。誰にも気づかれない臆病さだった。
周囲の人はみんな彼女を気にしてた。俺とだけ話し、俺にだけ笑いかける。それなのに自分たちには一瞥くれることもない。
疎んでいたのではない。彼女に憧れていた、好意を抱いていた、近づきたいと思っていた。
「もう少し周りと仲良くしたらどうだ?」
「君がいればいいよ。君以外何もいらない。誰も必要じゃない。」
「…………、」
彼女は泣かない、怯えない。氷のようでありながら、俺にだけは春風のように笑う。
そんな彼女の怪我は減っていた。
彼女はもう、か弱い少女ではなかった。
******
彼女の怪我はある日ぱたりとなくなった。
彼女の母親が自殺したのだ。
このとき初めて知った。
彼女はずっと母親から虐待を受けていた。
父親は、彼女が物心つく前に母親によって殺されていた。
自分の思い通りにならないものが許せなかったのだと。
なぜ自殺したのかは、誰も知らない。
数年ぶりに、彼女が泣くのを見た。
昔のように、声一つ上げることなく、静かに涙を流していた。
「……、」
かける言葉が見つからない俺に、彼女は涙を流しながら笑った。
「よかった。やっといなくなってくれた。」
一瞬、耳を疑った。
「やっと、自由になれる。」
言葉を失った。
俺は彼女のことを何一つとして理解してなかったのだ。誰よりも傍にいた。誰よりも近くにいたはずなのに、何もわかってやれてなかった。
無意識のうちに思ってしまったのだ。どんな奴でも、家族が死んだら悲しいだろう、と。
違うのだ。彼女にとっては自分をただただ痛めつける、暴力の塊だったのだ。それがいなくなることは、彼女にとってまごうことなき喜びだった。
泣き虫な女の子は、臆病な女の子は、氷のような少女は、ようやく自由になれたのだった。
ならば俺は、祝福しなければならない。
「そうだな、よかったな。」
きっと諫められると思ったのだろう。目を瞠って、それからまた彼女は泣いた。俺の言葉はたぶん、正解だった。
彼女にとって母親は、家族などではなかったのだろう。同じ家に住むだけの、暴力を振るうだけの同居人だったのだろう。
それならそれでいい。それでも母親は家族だったのだと、どの口が説き伏せられよう。
俺は普通の家だった。きっと恵まれた家だった。そんな俺が、どうして彼女にわかったような口を利けるだろうか。
彼女は家族を知らない。慈しまれることを知らない。無償の愛を知らない。
ならきっと、ここが彼女始まりだ。自由になった彼女は、ようやく普通を知ることができる。
泣き虫な女の子は、臆病な女の子は、氷のような少女は、無垢な少女になった。
******
多少の時間はかかったけれど、彼女はうちの養子になった。彼女は俺の妹になったのだ。
家に来た彼女はあらゆることに戸惑った。
誰かに話しかけることに、誰かに笑いかけられることに。そしてそこに一切の害意や悪意がないことに。
母親や父親、兄弟というものに戸惑った。それらに対するイメージや取るべき行動がわからなかったのだ。困ったように俺を見上げる。
「大丈夫だから。普段俺にしてるようにでいい。」
「…………、」
「この家に、お前を傷つける人間はいない。」
困ったように、彼女は笑った。
少しずつ、少しずつ彼女は家族になっていった。
両親と話すときにはまだ緊張するけれど、話ができる、笑うことができる。
何も盛られてない食事を食べることができる、暖かい布団で寝ることができる、風呂に入ることができる、許可なく外を歩くことができる、話かけてもらえる、笑いかけてもらえる、名前を呼んでもらえる。
彼女にとって、すべてが特別だった。
どんな普通のことにも戸惑って喜んで、顔を綻ばせる彼女を、誰がどうして愛さずにいられるだろうか。
このとき抱いた気持ちが何なのかは知っていた。
それは紛れもない庇護欲だった。
「おにいちゃん?」
呼ばれた声に飲んでいた麦茶を噴出した。
気持ち悪いからやめろといったら、顔を真っ赤にして背中を叩かれた。
彼女は妹であるが、呼び方を変えられるのはこそばゆさに耐えきれなかった。
泣き虫な女の子は、臆病な女の子は、氷のような少女は、無垢な妹になった。
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泣き虫な女の子は、臆病な女の子は、氷のような少女は、無垢な妹は、凛とした少女になっていた。
しっかり前を向いて歩く彼女は自信にあふれ、涼しげであった。
饒舌ではないけれど、誰とでもはきはきと話し、時たま笑う。普段あまり笑わないからこそ、たまにのぞかせる朗らかさがいいのだと。
もう彼女は俺の傍にいなくても怯えなかった。
俺の後ろに隠れることもなかった。
彼女の自信の正体は、もう誰にも傷つけられることはないという自負からだった。
自身をもっとも傷つけた実の母親はもういない。長年暴力に耐え続けたタフな彼女に怪我を負わせられる者はほとんどいない。
心を傷つけ、自尊心を折り続けた母親はもういない。彼女はもう人から愛されることを覚えていた。
彼女はすべての空き時間を俺と過ごすことはなくなっていた。
高校生になった彼女は、初めての俺以外の友人を持った。
「聞いて!今日ね、クラスの子がね……、」
彼女の口から、俺の知らない人間についての話を聞くことがあった。
このときの複雑な気持ちの名前を、俺は知らなかった。
数年後、その気持ちは成長の喜ぶ家族愛と嫉妬だと知った。
凛とした少女は、俺に守られることをもう必要としていなかった。
泣き虫だった女の子は、もう俺が隣にいなくても笑うことができていた。
*************
泣き虫な女の子は、毅然とした少女になった。
大学生になった彼女は、初めて俺と違う学校に通っていた。
毎日長い時間一緒に過ごしていたのに、今では朝と夜にしか会うことがない。それはとても妙な気分だった。
隣にあるはずのものがない。何か忘れものでもしたような気分になる。
彼女が隣にいないというだけでとてつもない違和感に襲われた。
「ずっと迷惑をかけてきた。どこに行くのも何をするのも一緒じゃないと嫌で。」
「優しいから、優しすぎるから、ついつい甘えすぎる。」
「私が泣けば傍にいてくれて、私が怯えれば手を握っていてくれて。挙句の果てには家族にすらなってくれた。」
「私が欲しかったもの、全部、惜しげもなくくれた。」
「だからもう、いい加減離れなきゃいけない。」
「私はもう、自由にさせてあげなきゃいけない。」
迷惑だなんて思ってことは一度もなかった。
普通のものをやっているだけで甘やかしてるつもりなんてなかった。
傍にいたのは俺が傍にいたかったから。
家族になったのは、それをお前にやりたいと思ったから。
けれど彼女の本音を聞いたのは彼女の口からではなく、彼女の知人からのものだった。
泣いてばかりの女の子は気が付けば、一人で立つことのできる大人になっていた。
俺はひどく、後悔していた。
けれど何を後悔していたのかまでは、わからなかった。
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泣いてばかりの傷だらけの女の子は、俺に泣きながら笑いかけた。
臆病な女の子は、控えめに俺の服の端を握った。
氷のような女の子は、ほかに何もいらないといった。
何も知らない無垢な妹は、困ったように手を引いた。
凛とした少女は、俺に向かって手を振った。
毅然とした少女は、静かに俺の手を解いていた。
傷の絶えない泣き虫だった少女は、白いドレスに身を包んで、俺に笑いかけた。
「慎司くん。」
落ち着いた声が、俺の名前を呼んだ。
もう彼女は泣いたりしない。
もう恐怖に身を震わせることはない。
もう俺の背に隠れることはない。
もう俺以外の人を遠ざけることはない。
もう与えられる愛に戸惑うことはない。
「私はね、きっと慎司くんがいたから生きてこれたんだ。」
すべてが怖いと、呟く彼女はもういない。
「君がいなかったら私は、どこかで死んでいたかもしれない。君がいたから、耐えられたんだ。」
与えられる暴力に耐え、唇をかみしめる彼女はもういない。
「いつも一緒にいてくれてありがとう。」
俺のいないところへはいけない彼女はもういない。
「私の手をひいてくれてありがとう。」
俺の手を握る彼女はもういない。
「私に”普通”を教えてくれてありがとう。」
困ったように見上げる彼女はもういない。
「私の家族になってくれてありがとう。」
今日彼女は、誰かの妻になる。
俺だけの妹はもう、いない。
「ねえ慎司くん。」
たくさんの時間を彼女と過ごした。
けれどこれだけは、
「守ってくれて、ありがとう。」
お前のことを守ると言った、その言葉を忘れたことは一度たりともなかったよ。
「……愛してる、燈梅。幸せになれ。」
**************
幼いころは、感情の名前を知らなかった。
泣くばかりのお前に、憐憫を抱いた。
俺だけを頼るお前に、優越感を覚えた。
俺以外を拒絶するお前に、不安を感じた。
自由を知ったお前を、祝福した。
何も知らなったお前に、庇護欲をもった。
俺の知らない誰かと過ごすお前に、家族愛と嫉妬を抱いた。
迷惑をかけていると思っていたお前に、後悔した。
もっと言葉にすればよかった。
守ってやるだけではなくて、共に歩けるようにすれば、お前も思っていることが俺に言えたのではないか。迷惑だと思ったことは、一度もなかった。俺はお前といたかった。
ありがとう、そう礼を言う美しい妹を抱きしめながら思う。
「愛してる、燈梅。」
俺はきっと、ずっとお前に恋をしていたんだ。
だからいつか、もう一度同じ言葉をお前に言おう。
次はどうか、家族としてお前の幸福を祝う。
この長い恋が、思い出に変わるころに。