決戦(6)
第22話です。
「ストリーク、終わりだ」
ウィストは充分に余裕を持って黒魔導師の動きをかわすと。
指をカギに曲げて心臓めがけ音速で振り下ろす。
ぱん! と音の壁を越える音がして、猫の爪は黒魔導師の細い身体に、致命的な一撃を加えた。
と見えた瞬間。
ヴン!
黒魔導師の胸の部分が、不意に曖昧になる。
「おぉっ!」
獣の咆哮をあげたのは、ウィストの方だった。
「くくくっ」
続いて黒魔導師の胸の部分から、含み笑いが聞こえてくる。
ウィストは腕を切りつけられて血を流しながら、わけのわからぬまま笑いのする方向、つまり黒魔導師の胸のあたりを注視していた。
胸の部分はもやもやと曖昧な輪郭のまま、黒い蜜壷のごとく口をあける。
「な、何が起こったんだ?」
この薄気味悪い光景を見ていたのは、彼と戦っているウィストだけだった。
あたりは大混戦になっていて、みな周りに注意を払う余裕がなかったのである。
フリーとサイレンスさえ目を離していたのは、逆に彼らのウィストに対する信頼なのだろうが、しかし、ウィストにとっては不幸であった。
ぎょぱっ!
黒い蜜壺から吐き出された粘液が、ウィストに襲い掛かる。
「くっ!」
小さく悲鳴を上げたウィストは粘液をかわしたが、体を崩したところを次の粘液に襲われた。
コールタールと呼ばれるそれは、ウィストの下半身を捕らえた次の瞬間には、じわりと固まり始めていた。
「くそっ! 身動きが」
ウィストは次の攻撃に備え、黒魔導師の胸を注視しながら構える。
しかし、次の攻撃はなかった。
黒魔導師の様子がただならぬ事に気づいて、ウィストは視線を離せないまま彼を見つめる。
ぎょろりと血走った目を自分の胸に向けて、なんとも納得がいかないというような表情をしたまま、次の瞬間。
「けえぇぇぇあぁぁぁ!」
黒魔導師は魂消る悲鳴を上げた。
肛門から突き刺さり脳天に抜けるその悲鳴は、聞く者の体毛を一本一本持ち上げる。
ぞわりと背筋を這い寄る黒い悲鳴に、人々が凍りつく。
黒魔導師の目がくるりとひっくり返り、白目を剥いた。
極限まであけられた口は、いまや悲鳴を発することさえ出来ずに、だらだらよだれを垂れ流すだけ。
やがてその唇の両端が赤く染まってきた。
自身の筋力であごの関節が限界を超えて開かれ、唇の端が裂けはじめているのだ。よだれと混じりあった鮮血は首筋を流れ、黒魔導師の黒衣に溶け込んでゆくと。
鮮血をはじけさせながら、男の顔が割れた。
いや、割れたと見えたのは、顔の上にかぶさっていた精巧な仮面がはがれたものだ。
はがれた仮面は黒い煙を上げながら溶けてゆく。
男はいまや、その本当の顔を恐怖に引きつらせ、極限まで開かされた口からよだれと血を流しながら、けぇあぁと無残な悲鳴を上げ続けていた。
そしてその胸に。
かぽりと口をあけた真っ黒な空間。
その漆黒の闇の向こうから、二つの光がこちらを見ている。
まがまがしい笑い声とともに、黒魔導師の胸の中で、真っ赤な口をあけて笑っている者の正体こそ。
大魔導師ストリークその人であった。
「きさま……まさかさっきの黒い霧は……」
「そういうことだ虫けらども」
先ほどの黒い霧は、ストリークがこの黒魔導師と入れ替わるために用意した目隠しだったのである。
目隠しの霧の中で、ストリークはこの黒魔導師の顔を自分のものに似せ、その体内にもぐりこんだのだ。
そう、哀れなこの男は、おのれの知らぬ間に偽面をつけられ、自分がストリークであると思い込まされて、フリーたちの攻撃の盾とされたのだった。
その体内に本物が隠れていることなど、露ほども知らぬまま。
そして、今まさに死にかけているこの男の正体こそ。
「あぁ! ヨハンさん!」
何とか粘液から身体を引き剥がしたウィストが、偽りの仮面のはげた男の顔を見て叫ぶ。
「知り合いか?」
サイレンスの言葉にウィストはうなずいた。
「ヨハン・ロングアイランド。もとの僕らの仲間です。魔導師ギルドが健在だったころの」
「そして彼はいまや、世界を統べる十人委員会の委員長であり、私の忠実な僕だ。ほら、こうやって己の身体が痛むのもいとわず、私に尽くしてくれるのだよ。なんとも美しい忠誠心だとは思わないか?」
ストリークがヨハンの胸の中で、そう言いながら狂笑する。
ヨハン・ロングアイランドの身体は、頭が地面につきそうなほど反り返り、狂気のブリッジを形成している。
背骨がほとんど完全に二つ折りになっていて、万が一助かったとしても重篤な障害を残すであろうことは明白だ。
「なんと言う……きさま、なんと言うことを……」
自分の分が悪いと見るや、手下の身体を犠牲にして逃げるそのやり口に。
ウィストやサイレンス、フリーは吐き気を催すほどの嫌悪と怒りを感じた。
しかし、言われた当の本人には、露ほどの感慨も与えない。
「キサマらの甘ったるい仲間意識とは比べ物にならんこの忠誠心を見ろ。これこそが世界を統べるために必要な、真の信頼関係というものだ」
「おまえの口から信頼などと言う言葉を聞くと反吐がでる」
「私はキサマらがそう言って歯軋りするたびに、この上ない幸せを感じる」
いまやすっかり背中に向かって二つ折りになった、ヨハン・ロングアイランドの身体が、ついに耐え切れず、どうと地面に倒れた。自分の下半身に上半身を乗せたありえない格好のまま、世界を夢見た男は、今、苦悶の中で息を引き取る。
「さて、このままコイツが死んでしまったら、私も動くに動けない。血管をはちきれさせんばかりに怒っているキサマらには悪いが、私はここで消えるとしよう。灰の結界の力も、この男の身体が生きているうちは遮蔽してくれる。次の次元を掌握してから、キサマらには改めて地獄を見せてやる」
言い放って哄笑すると、ストリークはスペルを唱え始めた。
「いかん! 次元移動だ」
サイレンスが叫び、フリーとウィストがヨハンの体に向かって飛ぶ。
だが、ストリークはその様子をにやりと眺めながら、まさに最後のスペルを唱えようとした。
そのとき。
「あぁぁぁぁ!」
建物の影から、絹裂く叫びとともに影が飛んでくる。
ぎょっとしたストリークがスペリングを終えるのと、飛び出した影がヨハンの首を落とすのは、ほとんど同時だった。
フリーとウィストの猫使い二人を超えたその速度は、まさに神速。
ありったけの魔道力を使って飛び、ヨハンの首を切り落とした影は、ストリークに向かって吼えた。
「ざまあみなさいっ! これであんたは飛べないっ!」
凛とした表情。瞳に燃え上がる炎。
その少女の姿は、ちろちろと燃え残る火事の炎に照らされて。
神々しいまでに美しかった。