さよなら、スーパースター!
真夏だった。暑さなど気にならない興奮の中、声援が円を描く甲子園球場は、光に祝福された何処か、神聖な場所に思えた。午前には小雨が降った。そのため本日行われた試合に影響を齎し、湿った土からは砂を掬う事は出来なかった。甲子園の砂は、球児達の憧れだった。知性人は正気の沙汰ではないと憤怒する、思い出を物質的に残すこの行為は、極めて哲学的価値しか見出せない。沸き立ち、ざわめく感情論を他人に理解して貰おうなどとは、思わない。期待するだけ、無駄なのだ。野球に生きた俺達とはきっと、人種が違う。以後、もしくは生涯を奉げる下済みは出来ていたし、信念を捨てる勇気がなかった。それで良かった。
午後、次に当たる相手校の偵察に、外野席ではなく入場料を払い二塁側のスタンドへ着ていた。積極的に堅物だった自分は、警戒の念を込めて鋭く振舞ってはいたけれど、所詮は只の高校生でしかない。高校三年生の男子の頭など高がしれている。目先はグラウンドではなく、観客に気を取られた。赤、青、黄、白――よく興がったものだ。
初めから目線は決まっていた。盛り上がる観客席から離れた出入り口に、少女がひとり立っている。真っ白な洗い立てのポロシャツに、関西では見かけない学校指定のチェックのスカートを合わせている。球場で売っているセンスの悪い帽子からは、癖のある長い髪がその重みで伸びていた。つまらなそうに、立っている少女の印象は、なんとなく植物の白だった。弱くて、無邪気な花のような、誰の目からも本当に可憐な女性だった。しかしながら俺は、少女が少女でない事を知っている。上辺だけのまったく剥き出しの感情、例えば憧れだとかーー重ねる度に彼女は、去年も、一昨年も、何年も前から変らぬ姿で此処にいる。そう、彼女は『甲子園のおばけ』だった。偵察用に持参したカメラのピントを彼女に合わせ、シャッターを切った所で、現像された写真には、風景しか写らないような、陳腐な妄想が頭を過ぎた。
哀れな『甲子園のおばけ』に、出会った日の事を未だ、俺は覚えている。大阪で生まれ育ち、当たり前のようにリトルリーグに所属して、誰に言わずとも心の内では将来的に野球を続けて生きたいと決めていた。練習に明け暮れる夏休み、チームで高校野球の観戦に行った。これまでも多く、阪神タイガースの応援に家族で来ていたので、慣れた場所ではあったが、若い選手の姿を自分に重ねて、浮かれていた俺は、一人迷ってしまった。そうなれば、興奮は冷めて戸惑い青醒めた。ぐるぐると球場内を走り回って痛んだ足に、心が挫けた。瞳の奥が熱く、涙が溢れそうになった瞬間、柔らかい声をかけて来たのが彼女だった。
「可哀想に。貴方、はぐれてしまったの?」
彼女の身の上を語る術は残像からは残されていなかったけれど、その無邪気でいて、大人っぽい立ち振る舞いをする『綺麗なお姉さん』に顔が赤くなったのを覚えている。
小さな子どもに対しても「貴方」と、礼儀を立ててくれた事が、くすぐったかった。
「大丈夫よ」
薄いひんやりとした手が伸びてきて、自然と手を繋がれた。掌が神経の多く通った場所だと改めて感じた。永遠に思えた。掌を重ねる行為が、意味を持つ特別な触れ合いだと幼ながら理解した。
「ほら、ここからならよく見えるでしょう。小さな寅吉さん、貴方は何処からきたの?」
スタンドへ着くと、同じ目の高さまでしゃがんで彼女はくすりと軟風のように笑った。リトルリーグのユニフォームに合わない、阪神タイガースの帽子の鍔を突かれた。彼女の目線を追うと自然と、自分が何処から着たのか思い出した。
(煩いな、心臓)
清潔感のあるシャンプーの匂いに、息の仕方を忘れたかのように苦しかった。
「ねぇ、名前を教えて?将来貴方が選手になった時まで、私、覚えておくから。約束」
差し出された小枝のような華奢な小指。挙動全体に不自然さが加わりつつも必死に言葉を組み立てた。
「上久保直耶、です」
テレビでしか聞いた事のない、柔らかい標準語に、自分の敬語が恥かしく思えた。小さくなる声に語尾が聞こえなかったのか、彼女は「ナオ君?女の子みたい!けれど、いい名前ね。早く、選手になってね」と、また笑った。
思えばこれが初恋で、今もしみじみと感じている鼓動は、歳を重ねて高校生になり、女を知ってからも続く高鳴りだった。一時的な接触にロマンを感じ、綺麗な記憶だけ心の帳に置いていけたなら、状況は変ったのだろう。しかしながら、彼女との接触は続いた。続いてはいけなかった。夏が来る度に、彼女は甲子園に現れた。今年も彼女を一目見られた。初めはそれだけで胸がいっぱいだった。やがて身体も心も大きくなり、その想いは朽ちてしまったけれど。あんな衒学的な出会いを果たし、気恥ずかしさから、声を掛けなかったのではない。何年も制服に身を包み、一人きりで観戦する微風のような彼女が、何時の日か生者ではないと、恐怖したからだ。
それでも、目は彼女を追う。見つけては背中に悪寒を感じるのに、安堵する自分も存在していた。狂信深い部分が冷めた瞬間。俺は、ある意味大人になったのだろう。馬鹿げた妄想よりいたって簡単な、尚且つ難解な答えに辿り着いた。
「なぁ、一つ聞きたい事があんねやけど」
出会った時以来、初めて彼女の正面に向き合った。大きな声援が、遠くで聞こえた。出来るだけ優しい方法で解決したくて、純情多感な男は、女の扱いを慣れるのだ。驚いたように、見開く零れそうな大きな瞳は悲しそうに揺れていた。
「貴女は、ほんまは、幾つなんです?」
きっぱり言い切る事で、掬われる物もあると、信じた。染み込む熱を逃がす、場所と時間。目を伏せて、形の良い指を口元に当てては、伺うように上目使い。瞬きを繰り返して、ゆっくり粘着のある口を開く。
「何を言っているのか判らないのだけれど、」
「何度でも言います。貴女、高校生ちゃいますやろ」
甲子園と書かれた野球帽を奪う。ふわりと、触れた髪の柔らかさに、驚いた。現れた可愛らしい顔。けれどそれは、初々しい新人女優が高校生役を演ずるような、不自然さ。高校生には見えない。「貴方」と、使うのはひどく嫌味たらしかった。
観念したように肩を落とす。「ひどいわ」と、うわ言のように繰り返し、もう三度も溜息を突いて。泣き出すかなと、言葉を詰まらせると、突如睨まれた。
「……関係ないでしょ」
「え?」
「だ・か・ら。アンタには関係ないでょ!アタシが何処で何しようが、勝手じゃない。アンタに迷惑かけてない」
辛辣な言葉、幼稚な言い回し、ひどい顔。其処に利口さの欠片も存在しなく、只俗物的な女がいた。しばらく事を飲み込むのに時間がかかった。記憶の中の『綺麗なお姉さん』とは、あまりにかけ離れていた。
「何よ、子どもの癖に。大体女性に年齢を聞くなんて、非常識じゃない!」
可憐な印象は消え去り、仁王立ちで腕組みをする目の前の女に、失望からふつふつとした怒りが湧き上がる。
「あんたこそ女の癖に、その言い方はないと思います。ええ年して制服着るなんて、可笑しいからゆうてるんです」
高ぶる感情のまま、身に満ちる暴力をダイレクトに言葉で表現してしまった。丁寧な言い回しをする彼女に憧れた。男兄弟で育った所以、いささか女性に対する理想が砕けるのは遅かったけれど、更に音を立てて粉々にされた気分だった。瞬間、歓声が沸きあがる。頬を叩かれた音は見事に掻き消された。
「二度と話かけてこないで。サヨウナラ」
踵を返す彼女は、小柄ながらも並外れた軍人のように肩で風を切っていた。見た目と比例して、逞しさは養われる。背丈のある鍛えた身体に五輪駆りで日焼けした自分が、女々しく初恋を忘れられなかったように。決して振り向かない、その気高さと言ってもいい、頑固さは何処からくるのだろう。
偵察所ではなくなってしまった。帰ってから録画したビデオで、データを研究する手間が増えてしまった。収穫は、憧れの女性が思いのほか性格が悪かった事実と、残されたセンスの悪い帽子。御丁寧に神経質そうな整った字で、名前が書かれていた。
「中条郁子……古臭い名前」
苛立ちを、バットを握る事で、沈静化させようと、大股で家路を急いだ。
散々悩んだ結果、次の日も練習後、自ら偵察を引き受けて(生憎男子校でマネージャーはいなかった)間抜けにも彼女を探す事にした。偵察と云えども、今更何を統計学的に計った所で遅いのだが、心情の問題だった。誰も、この情報に頼る事はないだろう。
補欠でベンチ入りしている俺ですらも、緊張を身体で動かすことで解き放ちたい衝動はあったが、突き動かす衝動の意味が解らず、俺はむかっ腹を立てていた。女なんてなんだ。結局は我侭で、強かでズルイ生き物じゃないか。なんら男と変らない。寂しさに負けない分、男よりも逞しい。中学時代の友人の伝手だとか、練習時代で声を掛けた女の子と、付き合った事はあるけれど、これまで野球一本で生きてきたつもりだった。青春を満たすに足り、ギリギリになるまで一つの恋すら語れずにいた。
「上久保。お前上の空やで、集中せな」
走り込みをしている途中、チームメイトが自分のずぼらさを見抜いた。確かに気持ちが浮付いて、ユニフォーム用のベルトを忘れ上、制服の皮ベルトを代用していた。洞察力の良い石原寛則はそうゆう事に長けていた。
「何抱えとるんかまで、聞かないし興味もないけどな、今この時期に精神不安定にしてどないするんや」
常日頃、俺の方が真面目に打ち込んで怠惰を叱る節があったが、如何せん本番に弱く打たれ弱い面から今大会中一度も、スタンドメンバーに上げられなかった。彼のように、つかみ処なく、恋愛や学業、本命に野球を置ける少年に、嫉妬に近い憧れを持っていた。
「今は、野球の事だけ考えればええ。ちゃうか?」
俺は口を紡いだまま、彼の言葉を噛み締めた。まるで小説から引用したかのように、熱い青春を語り合っているではないか。事実、高校生らしい生活を送っている。けれど、実際は高校野球の頂点に立つ、強豪といえど、精神の限界に達する理由は恋愛沙汰であったり、結局はそんなものなのだ。今は正しい事を言う彼が、無神経に思えた。走りこみを終えて止まった足を、上げる理由が見付からない。
「其処の二人、足が止まってるよ?」
スポーツドリンクを抱えた主将の幸村真利が、穏やかに微笑みかけてきた。一見、小柄で華奢な身体からは想像できない、確かな実力を買われ、京都から引き抜かれた寮生だった。地位を気にした風でもなく、周囲とも馴染んでいた。穏やかな性格からか、無邪気で野球部にはそぐわない女性的な所があった。
「ねぇ帰りにプリクラ撮りに行こうよ」
「真利、明日は決勝戦やで、そんな悠長な、」
「いいではおまへん。記念になるよ」
まるで女子高生のように、はしゃぐ姿は短く切り揃えた髪と不釣合いで、彼をからかう要素となったが、受け流せるだけの器量と、人望はあった。人と違う人生を送っている分、大人なのだと、最後の高校三年の夏を楽しもうとする憂いすら感じだ。
「今日は彼女の家に夕飯ごっつぉになるんや。
さかいに、寛則。舎監に巧いこと頼みます。日付変る前には戻るわ。プリンこうたるから、ね、いいでしょ?お願い!」
顔の前で合わさった掌は、誰よりもボロ雑巾みたいだった。意外な事に、幸村の女は中々の美人で、気立ての良い申し分ない有名女子高の生徒だった。練習試合には、必ず応援に駆けつける程の、熱心な惚れ込みようで、触れ合う姿から百合のような恋人達だった。
「遅そうなるようなら、連絡入れな」
「うん」
「彼女の家に、迷惑掛けるような事はするんやないで」
「分かってはるって」
くすくすと、笑う姿からは幼さが残り、皆を纏め上げる主将には見えないが、試合になれば鬼のように厳しい人だった。自己管理に抜かりなく自分に厳しい故に、相手にも強いる。一見、一人よがりにも思える性格は、強豪と云う重石を背負う野球部に、必要不可欠な厳しさだった。牛乳で割る不味いプロテインを、なんてこともない風に飲む姿は男らしい。幸村には、纏め上げる実力もあった。
「明日はクリーンナップの順番を変えようと思う。寛則には、ぎょうさん塁に出てもらうつもり。さかいに期待しとるで」
同情も感情も一切切り捨てる、笑顔で見つめられると何も返せなくなる強かさ。肩を叩き、渋い顔をするチームメイトを見送ると、今度は俺の番とばかりに、小首を傾げられた。
「何か言いたい事がありそうやね」
視線のみをゆるりと動かした。
「そんなもん、あらへんよ」
「上久保は、真面目なんに最後の方で遠慮しちゃうから」
俺の全心は、嫌な汗でびっしょり湿っていた。正午の日差しが皮膚にへばり付く。直向なおののきすら、忘れかけていた。
「しとつやけ、お願いしても良かったのに」
大きな瞳が感情を射抜いた。蝉の鳴き声が轟き、スローモーションで展開される笑い声に夏らしさを感じ、ああ、これが現実なのだと思い知る。鮮やかに進む景色に、未だ追いつけず、心理ばかりを求めた自分が、ようやく幽体離脱から帰還した。季節は、夏。甲子園は始まっている。野球が出来るのは、明日が最後なのだ。
「俺じゃなくても、ええんです」
足元には、汚れた白球が転がっていた。真上から降り注ぐ日差しから、青い桜の木が守ってくれていた。チームメイトはがむしゃらに、バットを振るっていた。コンクリートの校舎が湯気を出していた。空いた教室から、下手糞なピアノの演奏が聞こえた。先生達が、手を振っている。童顔だと思っていた幸村は、大人びた笑みを浮かべていた。ふと、目線を落とした足元のスパイクは、何時買って貰ったのかも思い出せない。俺の身体は、筋肉で固められて、はやり、大人のようになっていた。
「俺じゃなくても、ええんです。チームが勝てるのなら、それで。俺じゃなくてもええんです」
本心だった。心の底から想い願っていた事実だった。
「ほな、そうやって一生、何かに遠慮して自分を殺していくん。そうやって、身を引けば、丸く収まるとでも思ってはるんか?」
ひどく鎮痛作用のある言葉に、酔い知れる。俺は、ただ皆の幸せと、目標を達成したかったに過ぎない。其れを、理想に自分を絡める事で頑なな未来を崩したくなく、身を引いた事が、間違いだと胸倉を掴まれるまで気付きもしなかった。
「男だったら、一度決めた道を通せ」
迫力に飲まれて、跳ねる心臓は俺の心情と違い動揺を隠すように、とくとく鳴る。俺はむしろ、誰かの感情を目の当たりにすると、普段気にも止めない風景の美しさに意識が飛ぶ。まるで幽体離脱。表現しようもない、埃臭い空気と蒸し暑い熱気が、汗を誘った。幾分低い所にある大きな瞳を、無表情で覗き込んだ。色素の強い黒。羨ましい程の、純粋さを含んでその色は広がる。純粋とは、白ではなく黒を指すのかもしれない。
「幼いね、上久保」
にっこり微笑んでから、グラウンドに駆け足で戻り、部員を集め最後の練習を切り上げる姿は、白昼堂々たるもので、寂しさなぞ見せない強さがあった。練習は、明日の決勝に備えて午前で切り上げる。今日は最後の練習だった。引退と言う言葉が、過ぎる。塩素で錆付いた朝礼台の前に、腕組みをして佇む幸村は、緊張から落ち着かない俺達の不作法も理解してくれた。隣に立つ無精髭の監督が、今日は大きく見えた。監督は幾つも皮肉を込めたあだ名を付けらたが、一人一人をよく観ていてくれていたように思う。
「ほんなら最後に、景気良くいきましょうか」
部室に常備されたバリカンを持ち出し、試合前にお互いの頭を刈りあうのが、うちの部の不評な伝統だった。石原が俺の頭に手を置いた。
「お前の頭刈るんも最後やな」
「せやな」
「俺な、引退したら髪伸ばそうと思うんやけど、どう?」
「やめときぃ、石原には坊主がお似合いや」
「阿呆、俺かて女子にもてたいわ」
石原はにぃっと、人の良さそうな愛嬌ある顔を見せた。鰓の張った男らしい顔は、心静かに惹きつけられる。短く切りそろえられた爪が虚空を描く。バリカンの電気音が間抜けに響いていた。
「案外、上久保の方が似会うかもしれへんな。入部届け出しに行った時は、俺より小さくて、可愛かったんに、こんな大きくなりおって。
あぁでも俺、まだ坊主続けるかもしれへん」
「どないして?」
「プロ諦めたわけやないし。もし、スカウトされたら大学行かんでプロになる。されへんかったとて、東京の大学受けて続けたる。なんや、相手待ちみたいで気に食わんけど仕方ないよな」
とりたて名門野球部員ならば、可笑しな会話でもなかったのだろうが、ひどく羨ましい話だった。俺は今大会中、一回も甲子園の土を踏んでいない。「お前はどないするん?」と、石原の質問にも曖昧に答えた。職業を野球にするだとか、この学校に入って嫌という程それが限られた人間の選べる道なのだと分かった。結婚だってしたい。養うだけの給料、それを考えなければならない年になった。プロのスカウトとか、東京の大学にスポーツ推薦だとか、今大会ベンチ連続の俺が語るには脳不足に思えた。
皆が髪を剃り終えたところで幸村は、部長として士気を高めるには十分な言葉を綴り「俺を負け部長にしないでくれよ」と、笑った。最後に組んだ円陣からは、不思議な円の一体感を感じる事が出来た。
どうやら俺は野球以外に夢中になれるものを、見付けてしまったようだ。決して悪い事をしている訳ではないのに、道徳心と良心が悼むのは、現状を理解しないからだ。そうなれば、俺を護る環境はない訳で、吐息がかろうじて膜を張る。心に。やはり俺を避けているのか今日は、大人しく階段より手前のスタンド席に、腰掛けている彼女を見付けた。去年改装され、小奇麗になった席に、ハンカチを握り締めてちょこんと座っていると、周囲との違和感は薄れた。
「中条さん」と、普段よりやや低めの声で話しかけると「郁子でいいわ」と、あっさりした答えが返ってくる。目線はこちらには、向けられる気配はなかった。ジリジリとした日差しが、制服の黒いスラックス越しに伝わる。こちらとしては、勇気を持って現れたのに、彼女の態度は年齢の差を見せ付けるような、淡々としたものだった。肩を透かすも、じっとグラウンドを睨む彼女の横顔を見た。帽子がない為、眩しそうに目を細めては、細かく上向きの睫が揺れている。薄化粧を施した目元には、睫の木陰が出来ていた。進行形で日焼けした頬が赤い反面、筋張った青い首筋が病弱そうに見えた。
「郁子さん。帽子、忘れていますよ」
学校指定の傷だらけなスポーツバックから、甲子園球場の帽子を差し出すと、薄い反応があった。
「いらない。あげる」
「いりませんて。こないセンスの悪い帽子」
言葉に溜息を混ぜると、自然に落胆の意図を伝えられる。モラルさえ抜け落ちた駆け引きは、少々疲れた。
「なら、捨てて。アンタが触った帽子なんて、いらない」
俺達の座席近くに、車椅子専用ブースがあって、数台の車椅子に座る彼らを、甲斐甲斐しく世話する母親達(もしくは、看護婦)が見える。手作りだろう、弁当を無慈悲の愛情を持って、口へ運ぶさまは哀れむより先に、ざわめく心臓が煩わしかった。
「貴女、本当に可愛くないですね」
郁子さんの細い腰の脇に、ケンタッキーの袋が隠されていた。大分残したようで(当たり前だ。この炎天下の中)、タピオカ入りのミルクティーだけが、綺麗に飲み干されていた。
「……五月蝿い」
苛む心をと、全て掬えるものがあったのなら、無理矢理にでも認めてしまいたかった。その片鱗すら伺えない、回答に失望する。
踵を返そうとして、振り返るとぐったりと
肩に頭を乗せた姿が痛ましかった。ぐらぐら揺れる肩を掴んで、自分でも驚いた、思いの外簡単に崩れた華奢な身体を、彼女は自力で必死に立たせた。
「何やっとるんですか」
大声を出した。有無を言わさず腕を掴んで、スタンドを出る。
「脱水症状です」
衰弱した身体は、火照って熱かった。剥き出しの腕は、しっとりしていて厚めに塗られた日焼け止めが、必死に彼女を守っていた。健気な撫肩に、胸を締め付けられながら、逆流するように人の波を押しのけて階段付近に座るように促す。幾らか風があった。その間に売店から水を買いに急いだ。戻ってみると未だ立ったままの彼女に呆れ「お嬢様」と、毒づきながらハンカチを床に敷いた。ようやく腰を下ろしてくれた。薄いピンクの口紅を差していたのを思い出し、わざわざ貰ったストローをペットボトルに刺し渡す。少しずつ、少しずつ飲んでいく姿を見ていると現役の高校生より、幼く見えた。左の泣きほくろだけが、妙に大人っぽくて目立つ。
「なぁ、ほんまは幾つなんです?」
ぽつりと本心が、息と共に出た。
「永遠の十八歳、なんて言える程アタシはロマンチストじゃないの」
少しよくなれば直ぐいつもの可愛くない郁子さんに戻る。憎まれ口を叩いて、攻撃的な態度に隙がない。僕の気遣い沙汰など無に等しい。
「毎年制服着て観戦しとる癖に」
「別にいいじゃない。自分の働いたお金と、有給使って来ているのだし、文句あるの?」
「働いてたんですか?」
「働かないでどう生活するのよ」
正直、急に現実的な話を持ち出されて、魔法が解けたみたいな気持ちだった。彼女は『甲子園のおばけ』であり、空想的なロマンチックな世界に生きる人物に頭の何処かで、期待していた。
「身体弱そうですし、働けなそうやなって」
ふと、目元だけで笑うような相手を小莫迦にするような表情をされた。
「アンタ、バイトした事ある?」
「いや……ずっと部活漬けやったので」
「でしょうね」
階段に腰を下ろした彼女と、頭上のテレビ画面からリアルタイムで実況される、この壁の向こうで行われている試合を、交互に目を配らせる。彼女がもう一度甲高い声で笑うと、塁に出た打者にざっと歓声がざわめいた。
「身体が弱ければ、働かなくてもいい?お金に困ってなければ、稼がなくていいの?けれど、もしも家族が倒れたら。もしも、支えてあげなければいけない、人がいたら。自分が頼ったら、相手は頼れない。逆も一緒。人は、個人として確立したものだし、一人で生きていく覚悟がいる。親の財布の底ぐらい判る歳になったでしょう?身体が弱いなんて言ってられない。そんな風に、弱さを出せる人はそう、幸せなのだわ」
毒付いた言葉より、辛辣に聞こえたのは現実味を帯びていたからだ。心地よかった風が、脂汗をかいた身体では肌寒い。美しく生まれて、何の不自由もなく、愛されて育ったであろう少女は、愛でられたまま世間を知らずに大人になり、世間から浮いてしまったのかもしれない。なんだか、哀れに思えた。無鉄砲な行動をしつつ正論を語る滑稽さ。格好の悪い、彼女など、見たくなかった。他人の精神論など早々触れて、受け入れられない。その癖自身のアイデンティティーは理解して欲しいと、身勝手だ。彼女が述べる真実を、受け入れた自分も未だ世の中を知らない子どもだと、単純に思った。彼女と理解し合えない事が、ただ悲しかった。
俺の葛藤など無視して、普段着としても使えそうな、カジュアルなスポーツバックから
上着を取り出し、靴を履き替えた彼女は「お水、ありがとう」と、立ち上がり階段に足をかけた。「何処に行くんですか」と、俺の質問も無視して向かった先は、喫煙所だった。見慣れないチェックのスカートのお陰で、私服にも見えるが、あどけない外見からはひどく不釣合いな場所だった。小さな部屋は透明な硝子が張られ、中には幾つも置かれた灰皿の周りに、大人が集まっていた。郁子さんがドアに手を掛け、横目で俺を捕らえた。
「アンタは入れないわよ」
どくんと心臓が熱くなった。硝子の向こう側で郁子さんが慣れた手つきでブランド物のシガレットケースから、ピンクの煙草を取り出す。開けっぴろげな態度は、寛ぐ大人のそれだった。その場の雰囲気を読み合うように火を付け、吐き出した煙をまいて、また中継をつまらなそうに見ていた。俺は、この先に入れない。強行突破する情熱的な境を持たない。発作的な感情に流されないだけの理性を培ったのは、皮肉にも野球だ。
現実だった。俺は未だ、この中に入る資格を持たない。子どもだからだ。法を守ることが子供なのだと不条理すら覚え、感覚や思考が、似て非なるもの、痛覚や愚痴に変わる。煙草を吸う郁子さんを、硝子ごしに待つ自分がどうしようもなく、恥かしく思えた。
郁子さんが、三本目の煙草を吸い終わった所で、喫煙所から出てきた。
「試合、東京が勝ちましたね」
鼻に付く灰の匂いに混じって、仄かに香る桃の相性は最悪だった。趣味の悪い煙草を吸う。微かに届いたしめった風も俺の気持ちをいらいらさせる。上唇を突き出すような、面白くないと言わんばかりの表情に、疑問を持った。
「郁子さんは、何処から来たんです?」
「東京」
ふうんと、相槌を打って彼女とはあまりに違う、自分の刈ったばかりの頭を触ると「なによ?」と、睨まれた。
周りは未だ興奮と感動の中にいて、夢語を語る酔いどれのように中年男達は試合の結果を好き勝手討論していた。あるだけの知識、暴くような会話はそこにない。甲子園球場特製ビーフカレーをほお張りながら、どの選手が格好良かったか無邪気に笑う中学生が羨ましかった。近くの手洗いから、寄り添うように支えあう二人の女子高生が出てきた。ダークブラウンに染めた髪をゆるく巻いている。
愛嬌ある唇に塗られたピンク色のグロスが目に付く。泣き腫らした瞳をハンカチで隠すこともせず、惜しげもなく涙を流していた。其の、瞳を通してろ過されたような、悔し涙は、綺麗だ。素直で強くて、いじらしく可愛らしい。そんな彼女達が、愛おしい。目もくれず階段を下り始めた郁子さんは、相変わらずつまらなそうに目を伏せていた。黙って細い背中を守るように、後を追い甲子園球場を出た。汗でへばり付いたポロシャツから肩甲骨が浮き出ていた。土産屋が並ぶ中を、会話無く進む。可憐な足は忙しなく、背景は夕日に染まる黄昏色だ。不躾な風に、行きずりに絡まれる事無く行人は感情に流された。泣き、笑い、にこやかに過ぎる青春。其れは、大人にとっても同じ、この場所は若々しさを取り戻させた。
東京が勝った。明日、俺たちと決勝戦を行う。郁子さんに気を取られながら見た彼らのプレーは、俺を驚愕させた。プレッシャーが、嫌でも行きかう人々の会話により圧し掛かる。それ程までに、熱く攻撃的な東京のプレーはなけなしの勇気をくじき、焦りを齎した。負けず嫌いな幸村や石原なら、士気に油を注ぐのだろう。二人の熱意に負ける、俺は恐らく最後までベンチヒッターだ。夏の残り香が鼻先を掠める。無垢な声が響いた。
「アイス。アイスが食べたいわ」
「え?」
「買ってきて頂戴」
最寄りの小さな駅まで来て、混み合う改札に諦めたのか一旦俺らは遠ざかった。公園のまで歩いた所で、郁子さんが振り向いて言った。早くと急かされて、咄嗟に売店まで向かったけれど、先ほどから自分は彼女に振回されてばかりだ。
(何をやっとるんや、俺は)
可愛いだけじゃ、だめなんだ。駄目になる、一緒にいて自分を下げる相手とは一緒になれない。いつも自然に相手を見下して、馬鹿にしていた。これは、怨念か?主導権を受け渡す異性に惹かれるのは、万有引力並みの、欠落が欠落を同じ強さで求め合えっているからだ。着地点も判らない、飛んだままの心も疲れたし、穏やかに休める場所が欲しい。だってそうだろう?精神論だとか、現実はどうあれ気持ちの上の話を恋人には要求したい。下らないじゃれ合いや、甘い言葉よりもっと深みへ届く会話がしたい。より、高度な知的な言葉で。それなのに、単純で無理解なんてあんまりだ。マザーグースじゃないけれど、綿菓子で出来たような、ふんわりした女の子に憧れた。しかしながら、実際触れられる現実でそんな女の子は面倒くさい。言葉が通じない程の純粋さはいらない。欲しいのは、理解ある物分りのいい女だった。
食べやすい口元があまり汚れないようなアイスを探しても結局、王道の最中のバニラアイスと、ソーダのアイスキャンディーしか思いつかなかった。独りにしておくのが何処か後ろめたく、小走りで郁子さんの下へ戻ると、木陰に隠れるように置かれたベンチにハンカチを敷いて座っていた。俺が先程渡したハンカチだ。遠めで見ても、やはり小柄な体は儚げで、猫背になった姿は迷子の子猫に似ていた。
「幾らだった?」
俺の姿を見て関一番に開いた台詞がこれだ。風に揺れる葉の音に掻き消えるような小さな声に思わず聞き返した。
「奢られっ放しは、嫌なの」
つんと上唇を突き出し貴女はまだ、そんな可愛くない言葉を吐く。
「別にええです、これぐらい」
「自分の金じゃない癖に」
目の前に差し出したコンビニの袋を、覗き込んで郁子さんは、ため息を漏らした。痛い所、どうしようもない感情を全て暴かれる。小遣いの遣り繰りだとか、親から理由を告げて自身の財布に入る金銭の経緯は、決して女性に言ってはいけないタブーだ。
溜息をつきたいのはこっちだ。呆れ呆然と、人が少なくなった公園を見ていると、何時までたっても袋を受け取らない彼女の旋毛が見えた。つまらなそうとゆうよりは、寂しそうに取れた。俺は、最中のバニラアイスを取り出し半分に割った。
「半分こ……しませんか?」
大きく瞬いた瞳にぶつかる。音がしそうな程に、大きな瞳は数回瞬いた。子供のように、こくりと頷いた彼女に、ソーダのアイスキャンディーを渡し「先にどうぞ」と、自身も隣に腰を下ろす。肩がぶつかる。静かな時間だった。冷めた眼差しが捕らえる先は、ありふれた現実だった。
「本当は、今日貴女に会うつもりなんて、なかったんです」
口内の甘さに絆されてつい、ぽつりと漏らした。郁子さんがソーダのアイスキャンディーを半分食べた所で、最中のバニラアイスと交換した。なんだが、まるで恋人同士みたいでひどく可笑しかった。
「アンタ、大阪の選手?」
「ええ、今大会ずっとベンチですけれど。せやから、偵察も兼ねて今日は甲子園に来ました……けれど、実際誰も今更俺の採るデータなんて期待してませんよ。結局、集計も出来ていない。誰も待っていない、空しい事なのかもしれへん。其れでも、ただ、黙って待っている事なんて出来へんで、自分が許せなくて、」
感情が溢れて舌が縺れる。言葉が詰まる。苦しい。真っ直ぐに交差するような、初めて見る不安げな瞳に気付いて、饒舌になっている自分を叱った。
「あかん。これは愚痴です」
ややあってから、郁子さんは微笑んだ。
「関西弁は、難しいわ」
妙に其の態度が、幼くて安心した。
「貴女はどうなんです?野球も其処まで詳しくなさそうやし、正直何処の学校も応援しているようには見えへんくて。如何して、甲子園にくるんですか?」
蝉の鳴き声に混じりながら、疑問を投げかけると、郁子さんはスカードのポケットに、手を入れた。出てきたものは、何の変哲もない硝子のビンだった。
「砂が欲しいの」
甲子園球場で売っている、小さい硝子ビン。選手達がグラウンドに立てた記念に、砂を持って帰る際に利用されてきた空っぽの硝子ビンは彼女の手の中で赤く輝いていた。からかわれているのかと、思えば真剣に見上げられる瞳に偽りがないと分かる。今度は正気を疑った。
「アンタ、本気ですか?」
「ええ」
「そんな事の為に、わざわざ東京からくるんですか?」
はっきりと頷く彼女に、頭が燃えた。俺たちが十八年分の大半を注いできた野球を、そんな下らない理由で観戦して、野球を好きな人にしか意味を持たない砂のために、全国の球児が夢見た聖地へと訪れたのか。俺のことなんか、全然覚えてもない癖に、約束って言った癖に、この人は何にも見ちゃいなかった。そう思った瞬間に急激に彼女への興味が失われてくのを感じた。他人の底度詰まらないものはない。知らなくて、よかった事もある。大人になるってそうゆうことだろう?
手の中のアイスも食べ終わり「もう、会うこともないんだろう」と、ぼんやり考えながら席を立とうとした所で子供の泣き声が聞こえた。けたたましい声のする方向へ目を向けると、小学校低学年くらいの女の子が、母親に手を引かれながら、何が悲しいのか目を腫らしていた。
「五月蝿い。全く、最近の親は躾がなってないわ」
郁子さんは忌々しげに呟いた。女の子を持て余したように、母親は強く手を引いた。鳴き声をあしらう様に、まるで大人に向ける言葉を浴びせた。鳴き声は続く。赤い目は塞がれて、四肢はだらしなく伸びていた。俺たちの育った時代とは違う、昭和生まれと平成生まれの差を常日頃から感じていた。何処か歪曲した疑問は、生まれた天皇陛下の元の違いが影響するのだと心神深い俺は思っていた。
「ママ、ママ、ママ」と、繰り返される言葉に、だんだんと郁子さんの表情が険しくなる。「ああ、」と、俺は納得した。
「なに?」
俺はアイスを舐める彼女の、耳たぶを軽く掴み自分の方へ顔を寄せた。
「こうゆう時は、目を瞑るのがルールです」
年頃の娘見たく、頬を染めないで欲しい。身体を硬くした彼女の、最中のバニラアイスを持ったままの手は宙ぶらりんだった。刹那、戸惑いつつも素直に目を閉じられる。その顔が妙に笑えたのを合図に、両の手で彼女の耳を塞いだ。
「望まないのなら、見なくても、聞かなくてもいい」
息が唇に触れる程に近い。目を見開いた郁子さんが、真っ直ぐ俺だけを見た。
「アンタ、ずっと俺にこうして欲しかったんやろ。心が幼いまま止まっちまったから、子どもしか好きになれへんのやろ。いい加減しんどいんやろ、痛いんやろ、恐いんやろ。アンタが求めているのは恋なんかじゃない。自分を、子供扱いしてくれる人だ」
郁子さんは羞恥で耳たぶまで朱色に染めた。こんなに震えるほどに緊張して、無理して背伸びをして、砂を取ってきてくれるような男を捜しにきた訳じゃないだろう。不機嫌そうに見えた眼差しは、憧れと嫉妬からだ。本当は貴女自身が、マウンドに立ちたかったんだ。夢を見ていたんだ。
「俺がアンタの望むものを、手に入れてやるよ」
本当は、もう二度と会わないつもりだったのにな。
「……何よ。何よ、大人みたい口の利き方して!アンタは弱いんだから、負けちゃうに決まっているわ!」
弱い人の声なんて、耳に入らない。
「何時、東京に帰るんですか?」
愛嬌と、憧れと哀れみを込めて微笑む。子供の泣き声は止んでいた。郁子さんはほんの少しゆがめられた顔で、確かに微笑んだ。
「明日、決勝戦が終ったら」
いい天候だった。雨が降る心配はまずないだろう。湿気の多い真夏日が続き、温度差から昨日の積乱雲の名残が窺える。今朝方母さんは、炎天下に咲く向日葵と百日紅の花に寂しそうに水を注いでいたが、出掛けには明るい顔して見送ってくれた。「いってらっしゃい」と、微笑む母親に照れ臭さから苦笑する。しとやかで上品に振舞う反面、余計な干渉や同情をしない強かで勝気な所は、郁子さんに似ていると思った。
試合は終盤まできていた。一塁側の先攻、1―4で八回裏が終わった。次で三点入れなければ、俺たちは負ける。絶望的な数字に、思考が止まる。三年間共に苦しみや喜びを共にした仲間が、必死になってグラウンドをかけている。選手に選ばれなかった仲間や後輩の声援が痛い程聞こえてくる。近所の女子高のチアガールが、可愛らしい応援をくれるのに、今の俺たちには残念ながら響かない「畜生」と、誰かが呟いた。汗なのか涙なのかも分からない、分泌液が全員の目を滲みらせた。俺はベンチに戻ってきたナイン達にタオルとスポーツドリンクを渡す。
「強いな、東京。うん、ほんま強いわ」
石原だけが、満面の笑顔で駆け寄り俺の隣に腰を下ろす。
「堪忍な、俺打たれちゃった」
石原は本来投手で、チームのバッテリーBを任され変化球を得意とする選手だった。ウイニングショットのシンカーは波の選手じゃタイミングを掴めない。へらへら締まりのない顔をしているが、いい加減な奴じゃない。只の阿呆が誰よりも遅く部活に残り、影で練習する訳がない。彼の底の無さは周知の事実だし、冷静に状況を判断出来る頭も持っていた。ようは笑顔がポーカーフェイスなのだ。
「お前が誤るな、阿呆」
震えていたと思う。俺の声に、石原は少し困ったように笑った。
「上久保、宗教改心?」
自身の額を指差して、パンと乾いた音を立てて両手を合わせる。
「ちゃうわぼけぇ、只のニキビや」
おどけてけたけたと笑う彼に、場の緊張が解れた。心を砕いてくれる優しい俺の、友人。彼が苦しい時に、どうして俺はその背後にいないのだろう。決して無神経な彼じゃないと分かるからこそ、出来る談笑に酔った。幸村が優しさを汲み、ひとり、ひとりに的確に指示を与える。監督は彼に全てを任せた。
静まったところで、石原がこっそりと内緒話をする子供のように、俺を見上げた。
「ねぇ、俺、頑張ったよな?俺、しっかり投げたよな?」
始めて彼が震えている事に気が付いた。ロージンバッグで真っ白な手が目に入る。
「俺、プロになれるかな?」
豆が破けて所々血が滲む指は皮が厚そうで硬い。バッティングも安定している彼はクリーンナップの順番を変えて、バットを握る回数も増えていた。不安で、押し潰されそうになりながら、戦っていたのだ。
「石原、マウンドは寂しいか?」
「ううん。マウンドは独りぼっちだってゆうけれど、マウンドに立てたのは独りの力やないから」
はっきりと答える彼に、熱いものが込上げる。
「そっか。お前は最高の投手だよ」
石原は「おおきに」と、繰り返しながら膝を丸めて泣いた。乱暴にちくちくする坊主頭を撫でた。幸村が「寛則」と、呼んだ。
「寛則、だいすき」
被さる様に幸村は石原を抱締めた。女とは違う、骨格がぶつかる様な硬い抱擁。仲間だと、確かめるようにしがみ付く。
「今度は俺を信じて。上手く言えへんけど」
其れは、十分チームを安心させる、無敵の言葉だった。「いってきます」と、幸村は俺の肩を叩いて、グラウンドへ駆けてった。
『続きましてサード、幸村真利くん』
相手方のバッテリーは我が強そうな典型的な投手に対して、冷静にゲームを運ぶ策士の捕手を合わせた理想的な組み合わせだった。
一球目は見送った。動体視力が極端に良い幸村に目を慣れさせないよう、ここに来て縦のスライダーを見せた。幸村は不適に微笑んだ。勝気そうな投手が「おかま主将!」と、侮蔑するのを制しつつも、捕手もいやらしく笑っている。俺は怒りで腸が煮えくり返りそうだった。
「よし!」
最後はプライドの高い彼のウイニングショットである、高速ストレートでくるのは分かっていた。サイドで来たボールを、幸村は大きく前へ踏み込む。石原が叫んだ。
『デットボール!ランナー一塁!』
超速球で投げられた硬球を、石原は肩で受け止めた。白球は更に顔面に跳ね返った。今大会でも、刹那、小柄な方に入る幸村は、背後に大きく倒れた。駆け寄るナインを制して、明るい顔して俺の前、ベンチまで戻ってきた。
「えへへ、鼻血出ちゃった」
自分の肩を犠牲にして塁に出るだなんて、幸村らしくない行動だ。彼は、何かと何かを天秤にかけることなんかしない。それなのに、今の行動の熱さはなんだろう。俺が憧れた、野球を始めた理由はなんだろう。
「お願いだ、真利。こんな無茶、もうせんといて、頼むよ」
「ごめんね、寛則」
石原達が擦れた声で言った。日焼けした顔の血の気が引いて、青黒くなっている。コールドスプレーの冷たさに幸村は顔を歪めた。鼻血の出ているその顔が、可愛いとすら思った。必死になってた頃の、子供の自分を思い出した。
「幸村、頼む」
どうしようもない衝動だった。俺も笑顔を円を描くこの輪に入りたい。彼らと同じチームメイトでありたい。このまま大人になりたくない。必死に莫迦みたいに、野球がしたい。燃え尽きるような衝動を、硝子のビンに入った砂のように、胸に閉じ込めておきたい。
「幸村、俺を出してくれ、俺、後悔したくない。ずっとずっと、ここに立つために野球してきたんや、野球したいよ」
ベンチから降りて、頭を下げた。幸村は、今朝見た母親とよく似た表情で綺麗に笑った。
「上久保は、本当の事を言うのに、時間がかかるね」
強く肩を叩かれる。
「行って来い」
聞こえていますか?覚えていますか?郁子さん、俺は貴女との約束を果たしに来ました。
アナウンスが球状に響く。
『続きまして幸村真利くんに代わり、サード上久保直耶くん』
もう、女の子には間違われなくなったけれど、俺はこんなに大きくなっちゃったけれど。ずっとずっと貴女に、気付いて欲しかったんです。ずっといじけていたんです。飾る言葉など、もうありません。詰まらない意地など、捨てました。
「郁子さん、見ていて下さい」
俺は野球が好きです。
水色のアンサンブルに、膝丈のふんわりした素材のスカートを合わせた郁子さんは幾分大人っぽく見えた。フェミニンなスタイルに似会うハーフアップも、さわやかで社会人らしい。いつもの薄化粧より、頬紅を抑えた代わりに目元をしっかりした事が一目見て分かった。
「アタシ、こう見えて学生時代はモデルをやっていたのよ。高校も通信制で全然行ってなかった。その時アタシの世界は家と仕事で構成されていて、恋を除いたら他に何も残らなかった。それでよかった。自立する意識は早くからあったし、満足もしていた。けれど、三年の夏、中学の同級生が甲子園に出た。彼は砂の入った小瓶をくれた。難しそうな顔をしていた。野球とさよならして、次へ進む勇気にしていた。羨ましかった。其の頃、三年付き合った彼氏に別れを告げたばかりだった。アタシは、仕事にも限界を感じていたし本当は好きな事がなかった。アタシには何もなかった。何も出来なかった。綺麗にお化粧された自分より、泥だらけの彼らが綺麗に見えた。折角貰った砂は、大事にしていたのに、蓋が開いて鞄の中で散っちゃった」
泥だらけのゆんにホームのまま、俺は夕日を背に昨夜約束をした公園にいた。
「約束を、守れなくて、すみません」
「うそつき、ばか、しんじゃえ」
なんて値打ちのない女なのだろう。三十秒で宗教改心できる世界で、自分の哲学を頑なに通すのは茨道だ。進むは茨姫。ロミオだって愛の翼で空を飛べたのだから、愛情にまさる行動力はない。それは、始めから用意された一人に使えるんだ。本すら彼女は読まないのだろう。備わった家族だったり、感動を共にした仲間だったり、拠り所にした恋人だったり、例え自分が臨んだポディションじゃないかもしれない。誰も待っていないかもしれない、相手を間違えて求めているのかもしれない。
「砂を採る事は簡単でした。けれど、俺が差し上げる砂じゃ貴女は救われないと思い、しませんでした」
「五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い!何よ、結局負けちゃったじゃない!大口叩いた癖に、嘘!アンタなんか弱い癖に、ボロボロのどろどろで格好……いい」
泣き崩れるように、ベンチへ座る。スカートの下にハンカチはない。
「空っぽにしないで……」
咄嗟に彼女の冷たい指を握り締めた。小鳥のように震えている。擦れた声が「隠して」と、呟いた。俺は膝を付く。貴女は何も恥じるような人じゃない。胸の前で合わせた両の手を、包み込むように、自分に出来る精一杯の優しさで触れた。小さな指を絡めるその行為は祈りにも似ている。なんて、神聖なのだろう。脅えさせない為に、ベンチに腰掛ける彼女に跪くと、見上げる形になる。少しずつ、溶ける様に温かくなる皮膚を感じると、胸が熱くなった。精神的なものに触れている気がした。
「しんじゃえ、なんて言ってごめん」
「貴女はほんまに、莫迦な人だ」
幾ら見た目が良くても、痛々しい女性を貰う人はいないだろう。
「ねぇ、郁子さん。俺達は結婚して、まろやかな家庭を持ちましょう。俺達の子はきっとスーパースターになります。きっと甲子園に連れて行ってくれはります。せやから、」
ああ、俺は何を言っているんだ。幸せを間違えていないか。
「東京は住みやすいですか?」
幸せになりたい。
「夢も見るのは自由です」
「三十路、を、超えても?」
ああ、本当におばさんじゃないか。
「俺は長い夢を見ていました」
言葉にして要約涙が出た。幼い日の事が走馬灯のように駆け巡る。毎日続けた走り込みも、もぅしなくていい。真夏の過酷な練習も、虐めまがいな上下関係も、怪我をすることもない。もっと自分の時間を使えるのに、この喪失感はなんだ!野球が好きだったんだ。こんなにも俺は野球がやりたかったんだ。全ては野球を通して世界を見ていた。身体の一部を持っていかれて、残るのは思い出だけなんて、いやなんだ。野球がしたい、終わりたくない、もう少しだけ傍らにいたい。そうして親は叶えられなかった夢を子供に託す。期待
して幻滅されたんじゃなかったんだよ、郁子さん。貴女を愛していたから、貴女はこんなに美しいんだよ。夢を傍らで見ていたい。それは、郁子さんが甲子園に来る理由と同等のものだと思った。
「大人になるのは、怖いね」
言葉にしてようやく涙が出た。俺は自分が思っていたより幼かった。
制服のスラックスから白球を取り出し、乱暴な字で名前と携帯電話の番号を綴った。「あげます」と、キャッチボールをするように胸元に投げると、不思議そうに郁子さんは三回瞬いた。
「未来のスーパースターの父親の、サインボールです」
ゆっくりと、痩せた頬をほころばせた。
「アタシを犯罪者にさせる気?」
おどける口調は相変わらずなのに、初めて見せてくれた本当の笑顔だった。郁子さんは、誰よりも、誰よりも、綺麗に笑う。その事が嬉しくて、嬉しくて、悲しかった。
「ほら、チームメイトが待っているんじゃないの?」
「でも、」
「行ってあげて」
公園の入り口で、幸村たちが俺を待っていた。同じユニフォーム。同じ、時間と感動を過ごした仲間。滲む瞳を通して見る、儚げに微笑む彼女の影が霞んでいた。
「アタシの為にも、アタシが出来なかった事を、アタシがどうしても欲しかったものを、今の貴方が持ってる」
「ずるいよ、今更そない事ゆうなんて」
「忘れないから、ナオ君」
強く背を押された。
「郁子さん、」
彼女は首を振った。まるで、こっちには来ちゃいけないというように。
「さよなら、スーパースター!」
その後、郁子さんが、制服で甲子園に訪れる事はなかった。人は何時か大人になるという、けれど決して少年時代の自分が消える事はない。何故なら、青春に足り思い出が背中を押してくれる。いいえ、後悔などしない。大人になることは、独りではないのだから。
春の選抜を観戦しに甲子園に行った時に思い付き、書き進めていたお話です。
高校生の頃に、キラキラ輝く彼らを見たかったのを覚えています。
制服を着て、何処かに所属する一体感がどうしても羨ましかったのです。
甲子園球場は野球の神様がいると信じられるくらい、神聖な場所でした。
郁子が本当に『甲子園のおばけ』かどうかは、読んでくれる人に任せたいと思います。