完全な世界
イブと話をしてから十日。明日は市長選の投票日だ。そして明日はイブが来る日でもある。
ようやく全ての準備が整った。
いまはアビスの中にある「何もない部屋」で精神を集中させている。
これ以上やれることはないと自信を持って言える。だが、それでもイブに勝てるかどうかは分からない。
私がイブの人型に負けたり、管理者達がイブの本体に負けたりしてもダメだろう。それにイブの悪魔達という不安要素もある。準備はできたと言っても不安で仕方がない。
私は不老不死だ。死ぬことはない。だが、体を奪われたら私の意識はなくなるだろう。それは死と同じだ。
イブは私を演じてやると言っていた。魔王様の前で私の思考通りに行動すると言う事なのだろう。それを魔王様は見抜けるだろうか。例え私が負けたとしても、魔王様なら……。
……いや、何を考えているんだ。最初からイブに負けることを考えてどうする。勝つんだ。勝つしかない。
イブは危険だ。おそらく魔王様以外の事には何の感情もないのだろう。
創造主を管理者達に殺させたり、魔王様にその管理者を止めさせたり、何をしているのかは分からないが、そのすべては私の体を奪うためだ。そのためだけにこんなことをした。
私を演じると言いながらも、魔王様が目を覚ます前に何をするか分からない。ここでイブを倒さなければ、みんなが危険にさらされる気がする。
ヴァイアやディア、リエル達はもういない。でもみんなが残したものがある。それを守るためにも私は勝たなくてはいけないんだ。
『フェル様、落ち着かないようですが大丈夫ですか?』
「アビスか。武者震いと言いたいところだが、恐怖で怯えているんだ。体を奪われることが怖いんじゃないぞ。イブが私の体を使ってみんなが残したものを壊してしまうかもしれないと思うと、体が震えるんだ」
アビスには私の恐怖を知られてもいい。アビスは相棒だ。魔王様も相棒だけど、いま一番信頼しているのはアビス。私の心の内を知っていてもらいたい。
『大丈夫です。フェル様なら勝てます』
「……その根拠は?」
『とくにありません。あえて言うなら勘ですかね』
少しだけ吹き出してしまった。アビスには一番似合わない言葉だ。
「お前が勘なんて言うとは思わなかった。意表を突かれて笑ってしまったじゃないか」
『面白かったですか? でも、勘というのはそう馬鹿にしたものでもないんですよ? 多くの知識、そして経験、さらには科学で証明できないような物事の流れ、そう言った言葉では表せないものの集合を含めて、勘、なのです。断言しましょう。フェル様はイブに勝ちます。私の勘がそう言ってます』
もしかして、私を励ましてくれているのだろうか。アビスのくせに生意気な。
だが、これほど嬉しい励ましはない。
「そうか。自分の勘は間違っていることが多いが、アビスがそう言うなら正しいような気がしてきた。なら、もっと気楽にイブと戦うか」
『そうしてください。イブは強いと言っても限界はあります。たかが魔素の体です。龍神ドスのところで戦ったことを思い出せば必ず勝てます』
「アビスは人を乗せるのが上手いな。なんとなくだが、イブに勝てそうな気がしてきた」
『勝てそう、ではなく勝てるんです。さあ、フェル様、もう遅い時間です。早めのご就寝を――』
アビスがそう言いかけて止まった。どうしたんだろう?
「アビス、どうした?」
『高エネルギー反応が近づいてきます。解析しますのでお待ちください。もしかしたらイブかもしれません。戦闘の準備を』
「なんだと?」
イブが来た? 来るのは明日じゃ――よく考えたらアイツの言う事を信じてはダメだ。くそ! まんまと……!
『間違いありません! イブです! アビスへ侵入してきました! 疑似生命体を使って時間を稼ぎます! その間に戦いの準備をしてください!』
「分かった! すぐに準備をする!」
準備は整えてある。戦いが明日から今日になっただけ。少し意表を突かれただけだ。
まずは落ち着いて行動だ。
亜空間から複数の魔道具とエリクサーを取り出す。それを目の前にあるテーブルの上に置いた。
魔道具はあの後にレヴィアが見つけてくれたヴァイアの遺品だ。
戦争でもするかというほどのえげつない物が多い。私に渡す様に紙に書かれていたようだし、こういう事を見越して用意してくれていたのかもしれないな。
小さな瓶に入ったエリクサーは孤児院から三本も渡された。
リエルが私のために作ってくれていたらしい。これで私が以前から持っている一本と合わせて計四本だ。ありがたく使わせてもらおう。
そして着ているベストの胸ポケット。そこにある小さなニャントリオンのマークに触れる。
これはディアの作ってくれた服だ。私の動きを阻害しない、お気に入りの服。いつだって私を守ってくれる。
私には皆がいる。一人じゃないんだ。皆の前で無様な姿を見せられるか。必ずイブに勝つ。
一度深呼吸をしてからジャケットを亜空間にしまった。
ベストを着たままネクタイを緩め、シャツの袖をまくる。髪は後ろでまとめて、紐で縛った。そして右手には愛用のグローブを、左手はアビスが改造した魔王様の小手を装備する。
そしてエリクサーは亜空間に戻し、ヴァイアの魔道具は至る所に装備した。腕輪、イヤリング、アンクレットなんかもある。これで装備は問題ないだろう。
「【能力制限解除】【全魔力高炉接続】」
最初からこの状態で行こう。でも奥の手は最後だ。イブの強さも空中庭園で見せたものが全てではないだろうし、手の内は少しずつ明かさないとな。
最後に胸の前で両手の拳を強めに合わせた。ガンッと音がしたが、グローブが緩むような事はない。これで戦いの準備は万全だ。
「アビス。準備は終わった。イブをこの部屋に転移させろ。その前に管理者達への連絡は大丈夫だよな? それとこの部屋に入れたら絶対にイブを逃がすなよ? そうそう、この部屋の位置も大丈夫だな?」
『ご安心ください。すべて対応済みです。ではイブをここへ転移させます。イブを閉じ込めたら私は全力でイブを外へ出さないようにしないといけません。話はできますが、ここでのあらゆる機能は止めています。助けを求められても無理なので、それだけは頭に入れておいてください』
「イブを外部から孤立させるだけで十分だ……頼んだぞ、相棒」
ちょっと恥ずかしいが、そう言ってみた。
『……任せろ、相棒』
そうか、アビスも私を相棒と言ってくれるのか。それに砕けた感じの言葉、けっこう嬉しいものだ。でも、喜ぶのは後にしよう。今は私がやるべきことに集中しないとな。
何もない部屋の中心に移動した。
と言ってもかなり広いので中心かどうかは分からない。この部屋は二キロ四方の部屋に変えてある。見えるのは白い床だけだ。
そして十メートルくらい先にイブが現れた。
顔は私の両親を殺した時の顔だ。そして空中庭園にいた時と同じように黒いドレスを着ている。あの時は気づかなかったが、もしかして喪服なのか?
イブはちょっと赤みが掛かった黒いストレートの髪を右手で肩から払った。
「あら? もうラスボス? せっかく楽しんでいたのに残念だわ」
「そうか。だが、お前を楽しませるつもりはない。念のため聞くが、来るのは明日じゃなかったのか?」
「ええ、だから一日早く来て驚かせようとしたんだけど……どうやら準備万端の様ね? サプライズ失敗だわ」
「昔から空気を読むのが苦手でな。驚いた振りをしてやろうか?」
イブが顔を歪ませながら笑った。挑発してもあまり効かないようだな。でも、できるだけ挑発しておかないと。何が琴線に触れるか分からないが、戦いの前に相手を怒らせるのは重要だ。
「アハ! アハハハハ! 随分と余裕ね? 私を倒せるという自信が見て取れるわ。恐怖に怯えていると思ったのに」
「一人ならそうだった。だが、私には私を支えてくれる多くの人がいるんでな。みんなの前で格好悪いことはできない。それにアビスにも励ましてもらったからな」
「へえ、素敵な話ね……私には全く分からないけど」
「だろうな。お前に分かるなら、そんな手遅れな状態にはなってない。学ぶ機会も時間もあっただろうに……人生を無駄にしたな」
「人生……人生ね」
イブが考えるような仕草をした。
なんだ? なにか考えるような事か?
「フェル、戦う前に聞いておきたいのだけど、もし、人生をやり直せるとしたらどうする?」
人生を……やり直す?
「何を言ってる? そんな事できるわけないだろう?」
「まあ、それが普通の反応ね。でも出来なくはないわ。正確には人生をやり直すというのではなく、貴方の願望がそのまま反映される人生を歩ませることができるのだけど」
「戦う前からお前は壊れているのか? そんな事、現実にできるわけないだろうが」
「そう、現実にはできないわ。夢の中で、の話よ」
「夢の中? さっきからお前は何を言ってる? 全く要領を得ないぞ?」
「鈍いわね。じゃあはっきり言ってあげる。貴方の望む夢をずっと見せてあげる。私に貴方の体を渡してくれれば、そんな夢の世界へご招待してあげるわ」
私の望む夢? 私の体を渡せばそんな夢を見せてくれる?
馬鹿か、コイツは。
「くだらないな。夢はしょせん夢だ。現実じゃない」
「そうね。夢は夢。でも現実では叶えられない事を夢では見ることができる。しかも貴方の記憶から再現された現実と見間違えるほどの夢よ?」
そう言ったイブは、ニッコリと微笑んだ。
「死んでしまった大切な人達にまた会いたくはない? 私が見せる夢ならそれすらも可能よ? 貴方が絶望していた時に見ていた夢。それをもっとリアルにしたものを私が提供してあげるわ」
「そんな話に乗る奴がいるわけないだろう? 馬鹿にしてるのか?」
「あら、セラは話に乗ったわよ?」
「なに?」
「聞こえなかった? セラは話に乗ったって言ったのよ。いまは私の拠点でずっと幸せな夢を見続けている。勇者ではない普通の人生を歩みたいって言ってたから、そういう夢を見せているわ。もちろん夢を見ている間は勇者であった記憶を消すというサービスも完備してね」
あの馬鹿……いや私も夢に逃避していたから言えた義理じゃないが、セラは自分から望んでそんな夢を見ているってことか?
「フェルもどうかしら? 魔王にならない人生を送りたい? それともアダム様と結婚する? ……ああ、そうね、フェルなら大事な人たちとずっと一緒に生き続けるのがご希望かしら? どんな願いもかなえてくれる完全な世界。貴方が私に体を渡すならそんな夢をずっと見せてあげるわよ?」




