#3
すっかり暗くなったグレーター・ロンドン内の通りには、もはや人の気配は無い。黙々とそこを歩くフィオレンツォ・バロテッリは、冬のロンドンを歩くには少々薄着の格好だ。
彼は周囲を気にしてから路地に入り、通りから少し外れた一軒の小さな家の前で足を止める。
その家は、他の民家と隣り合っていながらも周りを避けている様な雰囲気を出していたが、フィオレンツォは迷わずにその家のドアをノックする。
ドアスコープから来訪者を確認しているのだろう、少しの感覚を置いて、扉が開く。中から出てきたのは、銀髪で腰の低そうな初老の男性。
「お久しぶりです。マテオ先生」
片言の英語で話すフィオレンツォを見た闇医者のユアン・マテオは、他意のなさそうな温厚な笑みを作ってフィオレンツォの手を握った。
「ああ、フィオレンツォ。よく来たな、寒かったろう……手が冷えてるぞ。さあ、早く中へ入って」マテオは体を横にずらしてフィオレンツォを家の中へと招き入れた。
「ああ、暖かいです。先生」
促されて座ったソファで、フィオレンツォが溜息をついた。
テーブルを挟んだ向かい側のソファに座ったマテオは
「それは良かった。それにしても、もう少し厚着をしたらどうだ?フィオレンツォ。それでは風邪を引くぞ」
と笑った。
フィオレンツォは苦笑いを浮かべる。
「はい。でも、まだ……仕事も少し前にようやく見つけたばかりですから」
「ああ、そうか……大変だな。使ってないコートでよかったら分けてあげたいが……君には少し小さいだろうからなぁ」
マテオは長身だが細身である。フィオレンツォは長身に加え、並の男性よりも肩幅がやや広い、筋肉質の体型であった。
「いえいえ、大丈夫です。僕はこんな体つきですから……気を遣わせてしまってすみません」
「そうか」と微笑んだマテオは、ふと思い出した様に、真剣な顔になって、
「ところで、クレオはどうしてる?」と訊いた。
フィオレンツォは、少しだけ表情を曇らせた。
「……一緒に連れて来ました。この街の事が気に入ったみたいで、昼間は外に出ています……でもあいつは……」
フィオレンツォは俯き、それから静かに言い直した。
「先生。あいつはどうして外に出る時に顔を隠さなきゃならないんでしょうか……。せっかくこうしてロンドンに来たのに、あいつだったら、本当は友達だって作れるはずなんです。なのに……!」
体を震わせるフィオレンツォの肩にマテオが手を置いて、諭す様に言った。
「そうだな、フィオレンツォ……クレオはあんなにも優しくて、明るくて、兄思いなのに……」
マテオは唇を噛みながら語尾を震わせる。
「それなのに、1人の狂人の、一刻の感情に任せた無責任な行動で……」
マテオは親身であった。
「おこがましいかもしれないが、私は奴と同じイギリス人として、本当に申し訳ないと思ってる」
嗚咽しながら首を横に振るフィオレンツォにマテオは続けた。
「こうして君たちと出会えた以上、やはり何か力になりたい。私は医者だ。無実の罪で医師免許を剥奪され闇医者となったが、それでも何人もの患者を診てきた」
フィオレンツォが潤んだ瞳をマテオに向ける。
「さっき君が言った様に、あの子には清々とこのロンドンでの生活を楽しんで欲しいし、友達も沢山作って欲しい」
「はい……」
「イタリアで君はわざわざ私を探し出して、クレオの事を相談してくれたな。彼女の手術を引き受けさせてくれないか?」
「はい……お願いします……お願いします先生……!」
顔をくしゃくしゃにして懇願するフィオレンツォに、マテオは頷いてみせた。
「全力を尽くすよ。ただ……君にも少し手伝ってもらわなければならない事があって……」
「はい。何でもします……!」
目の辺りを腫らしたフィオレンツォが身を乗り出すと、マテオの眼光が鋭くなった。
「これは相当の覚悟が要る事なんだ。だから君に聞きたい……君は妹の為なら何を犠牲に出来るかね?」
雰囲気の変わったマテオに戸惑ったが、脳裏に浮かんだ妹がその戸惑いを打ち消した。
「僕の全てを捨てても構いません。それでクレオの顔が治るなら……」
ズボンの膝を握り締めて、フィオレンツォは宣言した。
ユアン・マテオはその瞳を真っ直ぐ見つめた。
「分かった。今から私が言う事を、怖れず、落ち着いてよく聞いてくれ……」
マテオがゆっくりと話し始める、「治療」の内容--。
フィオレンツォの潤んでいた瞳が一気に渇き、頭の中を迷いと困惑が駆け巡る。
「クレオの治療のためだ。手伝ってくれるなら、治療費は一切請求しない。……フィオレンツォ、私を見ろ」
「先生……」
「しっかりするんだ。私は、君の妹に対する愛を信じて話したんだぞ?」
しかし、フィオレンツォはとうとう即答できなくなった。
「あれは勢いに任せただけだったのか?」
マテオが問い詰める。
(そうだ。これはクレオの為だ。俺は、あいつの為だったら、どんな事でもしてやらなくちゃならないんだ・・・!)
言葉という刃に突き刺された心が叫んだのは悲鳴ではなく、愚直で強固たる決意。
この瞬間、フィオレンツォ・バロテッリは妹の為に自分の中の何かを犠牲にした。