#2
暖炉がその温もりを満遍なく送る家の中。テーブルに突っ伏して居眠りをしていたヴァレリア・アベカシスは、壁に掛けられた時計が午後6時40分を指しているのを見て伯父の帰りが近い事を察した。
ヴァレリアは椅子に座ったまま両手の指を組みながら、その腕を天井に向けて伸ばしながら背伸びした。
窓の外に雪が舞っている。
(そうだ、さっきから雪が降ってたんだ。叔父さん、滑って怪我でもしなきゃいいけど)
ヴァレリアは先ほどの時計に目を移す。
(そういえばあの時計を掛ける時も、叔父さんは脚立でバランスを崩して、肩から床に激突したっけ……やっぱり心配になってきた。帰ってくるまでに最低でも2回は転ぶんじゃないかな。あの人……)
刑事であるにも関わらず、時折鈍重な動きを見せる叔父の身を案じた。
しかし、直後に聞こえて来たドアをノックする音に、ヴァレリアは安堵した。
「ヴァル、俺だ。開けてくれ」
ヴァレリアはクスクスと笑いながらドアに近づいて言った。
「その前にさ、私の好きな物は何?『ビリー兄さん』」
「コーニッシュパイだろ?それから俺はロバート。叔父さんだ……ご苦労さん」
この一連のやり取りは、全て小声でなされる。心配症のロバートは自分の刑事という職業が災いして、ヴァレリアが犯罪者の復讐の対象となるのを恐れていた。ヴァレリアが自分の好物を問いかけるのも、わざとロバートの名前を間違えるのも、それを避ける為にロバート自身が考案したものであった。
かくして、ヴァレリアはドアを開けて、叔父を迎え入れた。
「おかえり。叔父さん」
中折れ帽とコートの肩に雪を乗せているロバートの満足感に浸った顔を見て、ヴァレリアは思わず吹き出す。
「叔父さん、何でそんな顔してるの?何かいい事でもあった?」
ロバートは、
「ああ。あった。というか、もらった」
と手に持っていた紙袋の中から紐で縛られた布袋を取り出した。
「え。もらったってそれ?……何?」
「イタリアンコーヒーだ。さっきブライトマンに分けてもらったんだ」
袋をヴァレリアに渡すと、ロバートは中折れ帽を取って雪を払う。ヴァレリアは布袋の紐を解いた。
「トモのお店に寄って来たの……へぇー、いい香り」
「だろ?今度挽いてくれ」
「うん。分かった、また今度……。とりあえず夕食作るね……あ、もしかしてもう食べてきた?」
ヴァレリアが長いブロンドの髪を束ねながら聞いた。
「いや、まだだ」
ロバートはまだコートを着たままで、雪を払った中折れ帽を被り直す。
「たまにはカフェで夕食ってのはどうだ?」
「あー、なるほどね。いいよ。支度するからちょっと待ってて」
ヴァレリアは町歩きの服を取りに、二階にある自分の部屋に向かった。
◆
ディナータイムに訪れたカフェは客の数も程良く、騒々しくもなければ静か過ぎると言うわけでもない。夕食を済ませたロバートとヴァレリアの前には、食後の紅茶が一杯ずつ置かれている。
「演劇学校はどんな感じだ?」
ロバートが口を開いた。
「今日は先生に褒められたのよ。歌も踊りもアクセントがきっちりしていて、よく出来てたって」
ヴァレリアが弾んだ様子で言った。
「ほお、上達してるんだな。今度の発表会はいつだ?」
「さあ……。まだ分からないけど、来年になると思うわ」
「ふぅん……楽しみだ!」
「あら、そう?」
「もちろん。素人の俺から見てもお前は中々いい演技をしてるよ。欲目なしでさ」
ヴァレリアは照れ臭そうに笑って紅茶を一口飲んでから、
「叔父さんはどうだった?仕事」
と訊いた。
ロバートは髪を後ろへ掻き上げる。
「ああ、今日は何事もなくってな。資料まとめばっかりだったよ。平和で何より」
「そっか……」
ヴァレリアは紅茶のカップを軽く回した。
それからしばらくの間、二人は他の客の話し声を聞いているかの様に沈黙していた。
「来年といえば……」その沈黙を破り、そう投げかけたロバートはヴァレリアに目を向けた。
「ヴァルももうすぐ20歳か……」
「え?どうしたの急に」
「いや、早いもんだなと思ってさ。だってもう10年だぞ?10年前ってばまだ……」
ここまで言って、ロバートははっとして思わず口を噤んだ。
「……悪い」
「いいわよ、気にしないで。……うん、私はまだお母さんと暮らしてたっけ」
ヴァレリアは何とも無いと言った風だった。
「叔父さん」
「どうした?」
「美味しかったね。ローストビーフ」
「……ああ」
静かに、しかし懸命に話題を変えた姪に居た堪れないくなったロバートは、目の前に置いた自分の中折れ帽を、ヴァレリアの頭の上に乗せた。
突拍子もないその行動に、ヴァレリアは軽く驚いてから、彼女には大きめのその帽子のつばを上目に見た。
「ちょっと大きいわ、これ」
「そうは言っても、似合うかなと思ってさ」
ヴァレリアは、「叔父さん、変なの」と胸に手を当てて笑う。
二人が座るカウンター席の後ろでは、ダーツ大会が開かれていた。その中の一人の男性客が、
「やあ!お嬢さん、素敵な帽子だね。こっちで一緒にどうだい?」とヴァレリアを誘う。
「……行ってきたらどうだ?見たところ悪い奴らじゃない」
ヴァレリアは僅かに躊躇したものの、穏やかな伯父の表情を見て、その誘いに乗った。
ついでに誘われたロバートはやんわりと断り、カウンターに頬杖をついて平穏な時間に浸った。
ダーツが命中した音が響く。カフェに歓声が溢れた。ヴァレリアが見事にダーツボードの真ん中に矢を当てたのだった。
中折れ帽を頭に乗せたヴァレリアは、自分に送られる歓声の中、ロバートの方に顔を向けると、丸まった背中が蒼い瞳に映る。
その背中に、ヴァレリアは少しだけ寂しさを感じた。