#1
1899年 11月中旬のグレーター・ロンドン。スコットランドヤード庁舎内。
時計は午後5時20分を指している。捜査資料をまとめていた刑事のロバート・アベカシスは、降り始めた雪を窓から眺めて首を傾げる。
雪が降るにはまだ少し早い。
「また随分とせっかちな雪だな」
隣のデスクでそれを聞いていた同僚のアビエル・バシッチも、
「ん?ああ。ここんとこ冷え込んでたからな。出る幕を勘違いしたんじゃないか?」
「だとしたら、今は相当恥ずかしいんじゃないかな。それですぐに止むといいが。ヤケになって降り続けられても困る。俺はここで上がらせてもらうよ」
「おお?なんだ上手いこと抜け駆けしやがって」冗談混じりにバシッチが冷やかす。ロバートはまた笑って、
「こんな日はヴァルが心配するんだ。こんな日に限らずあいつには色々と気を遣わせてるが・・・とにかく早いうちに帰ってやらんとな」
ハッハッハッ!と、バシッチは品の無い笑い声を上げた。オフィス内の刑事や制服警官が一斉にバシッチを見る。
「お前の姪御さんは世話女房だもんな」
「ああ、全くだ」
「演劇学校に通ってるんだろ?最近どうだ」
「聞いとくよ、バシッチ」そう言ってロバートは席を立った。彼は厚手のコートを羽織り、中折れ帽を頭に乗せるとバシッチに背中を向けて、
「じゃあな、お先」と手を上げてオフィスを出た。
「雪に滑って転ぶなよ。案外マジでな。姪っ子が泣くぞ」と言うバシッチの大きな声が廊下まで響いた。
外へ出ても、やはり雪は静かに降り続けている。
通りを行き交う人々は、心なしか足早になっている。首筋を撫でる様に吹いた冷たい風にロバートは身を震わせると、姪の待つ自宅の方向へ歩き出した。
(ああ、そうだ。せっかく早く上がったんだし、ブライトマンの店に寄って行こう)
ふと脳裏に浮かぶ、雑貨屋を営む友人の顔−−。ロバートは家までの通り道にある店へ向かった。
◆
涼しげなベルの音が客の入店を知らせる。音に反応した雑貨店の店主、ジョン・T・ブライトマンは、顔の前から新聞を下げる。
訪問者は刑事のロバート・アベカシスだ。友人の顔を見たブライトマンは、普段からあまり動かさない表情を僅かに和らげた。
「よう、ロバート。また何かの捜査か?」
ブライトマンは新聞を静かに畳んで、カウンターの隅にそっと置いた。
「いやいや、とんでもない。今日は早めに上がったんだ」
暖炉の熱が行き届いた店内の暖かさに、ロバートはすっかり機嫌をよくして、カウンターの前におかれた紅いソファに腰掛ける。
「ああー、相変わらずいいソファだ。前々から気になってたんが、売り物か、これ?」
ロバートは体の空気を抜いていく様な声でブライトマンに聞く。
「いいや、残念ながらおもてなし用だ。好きに使え。寝そべってもいいんだぜ」
軽い口調で答えたブライトマンに、ロバートはまた軽く笑って返して、ちらとブライトマンの方を見た。
ブライトマンは、そのミドルネームを"トモカズ"と言った。彼は日系のイギリス人で、東洋人の面影のあるその顔立ちは、彼の母親から授かったものであった。
「あ、そうだ」ブライトマンが声を上げると、ロバートは慌てて視線を外した。
「どうかしたか?」我ながらわざとらしい口調に、咳払いをする。
「ここに置時計があったのを覚えているか、ロバート?紺色の洒落たやつだ」
ブライトマンがカウンターの上をポンポン叩く。
「ああ。覚えているよ。城を象ったあれだろ?今そこに無いってことは売れたのか?」
ロバートはソファから体を後ろに向けてカウンターを覗き込む。それを見たブライトマンは得意気な表情を見せながら、
「これと交換したのさ」とカウンターの下からパンパンになった白い布袋を引っ張り上げた。
「何だそれ?」
ロバートは目を細める。ブライトマンは袋の中に手を突っ込むと、中のものを鷲掴みにして出して見せた。コーヒー豆だ。
「実はこないだイタリア人の若者が来てさ・・・あの時計をいたく気に入ったみたいでな。でもそいつはまだロンドンに来たばかりで金も無いというから、このイタリアンコーヒーと物々交換したってわけだ」
「美味そうだ」
「だろ?香りもいい。よかったら飲んでかないか?」
「ああ、ごちそうさん」
ブライトマンは後ろの棚からコーヒーミルを出した。それを横目に見ながら、ロバートは深くソファに体を食い込ませた。
(結局、帰る時間はいつも通りか……)
ロバートはコーヒーの香りに包まれながら、そう思った。