はじまりのとき1
心地よい空気が辺りを包む。それは、最近ではめっきり珍しくなった暖かさと、懐かしい香りを含んでいた。この香りは、何かの花の香だろうか。俺は鼻孔をくすぐられつつ、更に深い深い領域へと落ちて行った。
その世界で俺は、暗闇の荒れ地を自転車で走っていた。辺りに明かりはなく、ただビルの廃虚群があるだけ。それはヒトの墓標であり、新しい主人公たちのための道標でもあった。俺はふと、違和感を覚えた。この道、最近は使ってないはずだよな。ずっと前に、バイト先へ行くのに使っていた道なのに。俺が首を傾げながら自転車をこいでいると、道ばたの暗闇に何かが光るのを感じた。俺は気味が悪くなり、そのまま通過しようとしたが、その光を間近で見るとあることに気付いた。
眼だ。暗闇に光る眼だ。
その光りは、獣か何かの眼だったのだ。俺はそのまま、その場から立ち去ろうとしたが、突然身体が宙に吹き飛ばされた。奇妙な浮遊感が永遠と続くかと思われた。だが、それは永遠ではなく、しばらくしてから俺は地面に叩き付けられた。しかし、不思議なことに痛みは全く感じない。
俺は訳がわからなくなり、狼狽えながら自分の周囲を見回す。すると、遥か遠くに今まで乗っていた自転車が転がっており、自分の目の前に何かの廃棄物ポッドが転がっているのを発見した。そうか、光る眼に気を取られていてポッドに自転車ごとぶち当ったんだな。俺は光る眼の持ち主が襲ってこないかと、ふと強烈な不安を感じたので、慌てて自転車に駆け寄り乗って逃げようとする。だが、立ち上がった瞬間に鋭い激痛を側頭部に感じ、そのまま地面に転がり込んでしまった。激しい痛みと胃が裏返るような嘔吐感。頭部を強打したために、どうも脳震盪を起こしたらしい。
「だ、だいじょぶ、ですか???」ふと、頭上から女の子の声がした。その声は、俺を包む暗闇に柔和に響く。何となく頼りなさそうな声ではあるが、可愛らしい声だった。だが、同時に恐怖を感じているのか微かに震えている。
「あ、え、と・・・・・・」俺は良く見えない声の主に答えようと、頭を抑えながら見上げる。するとそこには、あの光る眼があった。
「・・・・・・!」俺は驚き、地を這うようにして逃げ出す。何だ、こいつは!人間のくせに眼が光っているぞ!
俺は懸命に逃げ出すが、思うように進めない。そして、首筋が極端に熱くなっているのに気付いた。俺は何事だろうと、首筋を手で触れてみた。すると、手に何かねっとりとした液体がつくのがわかる。それは、俺の側頭部から吹き出した血だった。
「待って!酷い怪我してます!」光る眼を持った女の子が素早く俺に近付き、警戒する俺を驚かさないようにゆっくりと、手を差し伸べて来た。俺は驚くほどの出血と切り裂くような痛みに打ち負け、その女の子のなすがままに従った。俺が力を抜くのを確認すると、女の子は手を優しく頭の傷に当てる。
「あ、あれ?痛みが消えて行く・・・・・」俺はあれほどの痛みが、段々と消えて行くのを感じ、驚いた。それと同時に、生まれてから今までに感じたこともないような安らぎを感じた。
「もう、傷は塞がりましたよ」女の子が俺から手を離し、こちらに顔を向ける。その瞬間、月光が彼女の姿を照らす。彼女は、普通の人間と外見が異なっていた。獣のような毛に包まれ大きく垂れ下がった耳と、大きな尻尾。それに、暗闇で深緑に光る眼を持っているのだ。
「君は・・・・・?」俺は初めて見る、その姿に息を飲んだ。全ての闇を吸い込んでしまいそうな蒼みを帯びた長い黒髪、そしてそれとは対照的なやや赤みがかった白い肌。だが、俺を魅了したのはそれらではない。俺は、光の加減によって深緑に光る彼女の黒い瞳に魅了され、しばらく動くことが出来なくなっていたのだ。
「あ、えっと、優恵って言います。あなたは・・・・・・?」女の子は恥ずかしそうに、そして儚気に微笑んだ。
「俺は、俺の名は・・・・・・・・・・・・・」
そこまで言いかけた途端、ふと訪れる濁った水の中のような世界。一瞬、息苦しさを感じると、そのまま俺は浮かび上がった。
*
ふたたび、頭が鈍く痛み出す。まだ傷が治っていないのか。俺はそう思いつつ、身体を動かす。だが、何故か鉛の海に溶け込んだかのように、身体が動かない。それでも、辛抱強く動かし続けると、ふとビクンと身体が大きく動いた。
「ひゃうっ!」横から奇妙な声が聞こえる。俺は何かに倒れ込んでいた上半身を起こし、そちらにゆっくりと顔を向けた。あたたたた、首にも痛みが走っているぞ。
「びっくりしたぁ~!いきなり、ケイレンするんだもん」ぼやける視界の向こうに、白いベレー帽をかぶった女の子らしき存在が見えて来た。ああ、優恵か。俺はどうやら自室で眠り込んでしまったらしい。さっきのは夢か?だとしたら、ずいぶんと昔の夢を見たもんだな・・・・・・
「何、しているんだ・・・・・?」俺は欠伸をしながら眼を擦った。
「何してるんだ、ではないですよ!拓人さんが、弥生さんから資料を受け取って来てくれって、言ったんでしょうが!」優恵が大きな両耳を激しく動かしながら、文句を言う。ここからは見えないが、きっと尻尾も盛大に動かしているんだろうな。そうか、確か昨日の夜、電話で図書館司書の弥生に頼んでいた資料を持って来るよう、優恵に頼んだっけ。おい、待てよ!もう、夜が明けたのか!
「おい、今何時だ!?」俺は一気に眼を覚まし、急に立ち上がった。案の定、立ちくらみがして座り込んでしまう。
「もう、正午ですよ~。拓人さん、昨日、記事を書きながら寝ちゃったんでしょう?」優恵は微笑みながら、俺が突っ伏していた机に乗っているタイプライターを示した。
「あー、またやっちまったか・・・・・」俺は大きく息を吐くと、また時間を無駄にしてしまったことに軽い苛立ちを感じた。
「お布団で寝ないと風邪ひきますよ~」優恵はそう言うと、手に抱えていたスケッチブックを机の上に置き、その代わりに俺の足下に落ちている上着を拾った。ああ、そうか。優恵が俺に掛けてくれていたんだな。
「で、目は覚めましたか?資料に目を通します?」優恵は鞄の中から安っぽい紙製のファイルを取り出し、そこから青焼きを何枚か取り出した。俺は何度も目を擦ってから、その青焼きを受け取った。以前は乾式コピーが気軽にとれたが、今では青焼きぐらいしか手に入らない。これも、文明の衰退の結果だ。
その青焼きには、一週間前に起きたある議員の収賄疑惑の記事と、その議員に賄賂を送ったとされる企業についての資料が書いてあった。とくに重要なのは、『崩壊の日』以前の企業の役員リストと特許一覧、それにある役員の暗殺事件に関する公式発表資料だった。最近は、情報のほとんどが情報省に管理されていて、こう言った古臭い情報や新聞発表の情報しか手に入らない。これらの裏側にリンクする情報を論理的に、ときには直感的に探し出し記事にするわけだ。
「ああ、ありがとう。ごくろうさん」俺は受け取ったファイルを書棚に移し、鍵を厳重に掛けた。
「お駄賃は、おイモでいいですよ~」優恵は期待を込めた目で、こちらを見つめた。俺は笑いながら、冷蔵庫から昨日買っておいたイモ羊羹を取り出した。すると、優恵は尻尾をピコピコと上下に動かしながら喜ぶ。
「うひゃぅ、イモようかんだぁ。お昼食べてから、デザートにしよう♪」
「ところで、優恵。そのスケッチブック何だ?」俺は、さきほど優恵が置いたスケッチブックが気になり、手に取ってみた。
「あぁー、ダメです。まだ、描き終えてないんだから!」優恵が頬を膨らませながら飛びかかって来る。俺はそんな優恵をからかうために、ヒョイっとスケッチブックを頭上に掲げた。
「返して下さいよぉ~」俺よりもかなり背の低い優恵は、小刻みに跳びながら抗議の声を上げた。何だか、これじゃイジメそのまんまだな…
「じゃあ、少しぐらい見せてくれよ。な?」俺がスケッチブックを差し出すと、優恵は一気にそれを奪い取った。
「や」優恵は舌を出しながら、抗議の視線を向ける。
「いいじゃん、少しぐらい」俺がそう何度もお願いすると、渋々とスケッチブックを渡してくれた。だが、まだしっかりとその端を掴んでいる。
「拓人さんの絵を描いていたんです。私、絵を描くのが好きなんだけど、へたっぴで・・・・。見ても絶対に笑わないで下さいね!?」優恵はまだスケッチブックを掴んだまま、俺を見つめる。俺は、大丈夫約束するよ、と何度も繰返し言い、スケッチブックを受け取った。ゆっくりと、スケッチブックを開く。
「・・・・・・・・・・・・うーん・・・・・・・・・・・・・・」
俺はどう話を切り出して良いのか、完全にわからずにいた。な、なんだろうな、この抽象絵画のような、子供の描いた絵日記の絵のようなものは。最近は、こう言うのが流行っているのか?それに、明らかに俺以外の人物も描かれているぞ。
「どう?やっぱり、下手??」優恵が恥ずかしそうに人さし指同士をくっつけながら、俺を上目遣いで見つめる。
「あ、いや、まあ、その。うーん、デカダン的でよろしいかと。それに、色彩も独特で・・・・、まあ、あれだ。知らなかったなー、優恵が芸術的な絵が描けるとわ」俺、嘘は言ってないよな。現代美術だと思えば、ほら、そこはかとなく見れるし。
「でかだん、何それ?」優恵は眉をひそめながら、首を何度も捻る。
「まあまあ、誉めているんだよ。で、何で俺以外にも人が描かれているの?」俺は作り笑いを浮かべながら、俺の背後に描かれている人物を指差した。
「え?拓人さんには見えないんですか?」優恵は事も無げに、そんな恐ろしい発言をする。俺は全身の毛穴と言う毛穴が広がり、その間から冷汗が溢れ出るのを感じた。
「ゆ、ゆゆゆ、優恵たん?な、何が見えるって??」
「そんなの決まっているじゃないですか!」優恵が続けて何かを言おうとしたので、俺は慌てて優恵の口を手で塞いだ。
「はっはっはー、俺は非科学的なことは信じないぞぉ?エンジニアでもあるからな!」俺は額から脂汗を滝のように流しながら、気障っぽく笑ってみせる。
「ん?非科学的なこと??」優恵が不思議そうにスケッチブックと、俺の背後の空間を見比べる。俺は慌てて優恵の視界を遮るように立つと、何とか話題を変えようと更に笑顔を浮かべた。
「まあ、いいや。あ、そうそう、今日は『あの日』ですよ。昨日電話でも話しましたけど」優恵はそう言うと、ふと淋し気な表情を浮かべた。『あの日』―、そうか今年も、あの日がやって来たのか。だから、さっきあんな夢を見たんだな。
「ああ、今日だったよな。大丈夫、憶えているよ」六年前の今日、俺は優恵と出会った。そして同じ日に、優恵の人生を、いや多くの人の人生を決めたある大きな出来事が起きたのだ。俺たちはあの日以来、毎年決まってある場所に出向いている。
「じゃあ、今年もあの丘に行こう。全てが見渡せるあの丘に」俺がそう促すと、優恵は目を潤ませながら何度も力強く頷いた。俺は優恵の背中を軽く擦り、ドアから外へ出るように促す。そして俺は、愛用のブルースハープと今日のために用意した物を、そっとポケットにしまい込んだ。