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81.魔王と勇者と獣と魔物

「ふおおおおお、すごい!」

「ふふ、村山くんのお気に召したかな?」


 目下、俺と日野さん、グイーダさんは空の旅としゃれ込んでいた。

 日野さんの魔法によって地上百メートルほどの場所を飛んでいるのだ。

 流れる風が心地よい。ひゅるひゅると風を切る音が鼓膜をささやかに揺らす。

 ……それはいいのだが。


「すごい怖い! 足場がなくて自分とは無関係の力で浮いてるって、すごく怖い!」

「そっち!?」

「日野さんは自分の魔力で飛んでるじゃん! それと違って俺たちは今、日野さんに生殺与奪権を握られてるんだ! 日野さんが信用できないとかじゃなくて、他人に命を握られてたら怖いと思うぞ、普通!」

「……怖いのはもちろんですが、僕はこの独特の浮遊感に酔いそうです。うぷっ」

「そっちも!?」


 日野さんは微妙に納得いかなそうにしているが、仕方ないだろう。怖いんだから。

 飛行機とは違う。全身が空の空気にさらされている。飛んでる感が半端ない。

 原理が全く分からず、自分の力が全く及ばない範囲で、落ちたら死ぬ場所に居るというのはとんでもなく恐ろしい。

 グイーダさんの馬もなんかバタバタしてる。怖がるのは生き物として当然だと思う。

 ついでにかなり速い。飛び始めてから加速を続け、今では錬気を使った俺の全力疾走くらいの速さで飛び続けている。風の音もひゅるひゅるを越えてごうごうになっている。怖い。

 その後も飛ぶことしばし。遠視の魔法で遥か先を見ていた日野さんが口を開いた。


「そろそろ、下ろした方がいいかな? もう少し高度を上げれば村山くんたちも魔族の軍勢が確認できると思う」

「なら下ろしてもらう頃だな。あんまり近づきすぎると日野さんが見つかりかねない」


 日野さんの防風魔法のおかげで会話ができる。

 魔王軍はまだ俺の感知範囲に入っていない。感知に集中してももう少し近付かないと分からないだろう。

 魔王軍にだって確実に感知担当がいる。そいつの感知範囲は俺より数段広いだろうから、膨大な魔力を持つ日野さんを魔王軍に近付けるのはうまくない。すぐに見つかり、警戒を強めてしまう。


「あと、高度も上げないで。遠視できる奴がいたら見つかっちゃう」

「そうだね。低空飛行の方が見つかりづらい」

「それに怖いし」

「……そっちが本音?」

「どっちも本音」


 なんて話しながら日野さんは速度と高度を落とす。

 木々の隙間を縫って、森に軟着陸。俺たちは地面に降りたった。


「おおう、素晴らしきかな地面……! 足場がしっかりしてるって安心するのな」

「ですねえ。ああ、これで吐かずにすみそうです」


 ビバ地面。自分の足で歩けるって安心感が違う。

 顔を青くしていたグイーダさんと共に、地面に這いつくばって地面のありがたみを噛みしめる。馬もどことなく安堵しているように見えた。


「……それじゃあ私はこのまま北回りで設置をしてくる。村山くんも合図をしてくれれば迎えに行くから、その発煙筒を使ってね」


 呆れ顔で冷たい視線を向けてくる日野さん。

 指し示したのは馬の横に提げられた筒。目立つ色の煙を出すためのものだ。魔法の世界でも魔力を使わない道具がないわけではない。

 俺たちは魔王軍の後ろに式を設置するので、目立つ煙を上げてもたぶん大丈夫だろう、とのことだ。


「うい、了解」

「それじゃあくれぐれも気を付けて」


 そう言い残して日野さんは飛び去った。

 俺とグイーダさんは日野さんを見送り、馬に載せていた荷物の中から地図を取り出す。

 授業で見たものよりはるかに縮尺が大きな地図だ。フォルト周辺の地理が詳らかに記されている。位置的に、魔王軍以外に需要はそうないだろうが、アストリアスを仮想敵国にしている国に売れば結構な額になりそうな気がする。


「……さて、これからどうしますか」

「ヒノ様の魔法でずいぶんと距離を稼げました。僕たちの現在地は、ここになります」


 グイーダさんが地図の一点を指さす。

 フォルトの東北東。東西に広い森林地帯。

 予定ではここから東に進み、進軍している魔王軍より東側に魔法陣の媒介を仕込むことになっている。


「そうですね。今日は森の中をゆっくり東に進むのがいいと思うんですけど、グイーダさんの意見は?」

「ムラヤマ様と同じですね。ヒノ様の遠視可能距離などから考えると、急がなければ森の中にいる最中に魔族が横を進軍するはずです。十分に距離は取っているので見つからないとは思いますが、念には念を。森の中にいた方が見つかりづらいでしょう」


 手を抜いて体をかじられるような事態になっては目も当てられません。

 グイーダさんはそう締めくくった。

 彼なりのジョークなのかもしれないが、笑っていいものか。

 顔を引きつらせ返答に困っている俺を尻目にグイーダさんはさっさと地図をしまった。


「では、進みましょう。ムラヤマ様は森の中を歩くのに慣れておられないのでしょう? 速度の調整は森歩きに慣れてからでいいと思います。それとも僕の後ろに乗りますか?」

「いや、いいです。あんまり荷物を背負わせすぎたら馬が潰れますし、森の歩き方も覚えておきたいんで」


 魔法の準備はフォルトが負けた場合の保険だと言っているが、一番の保険はフォルトが陥落しても独力で生きていけるようになること。

 フォルトから逃げる場合、歩く道が舗装されたものとは限らない。ぬかるんだ道も問題なく踏破できなくては。


 グイーダさんは「そうですか」と端的に返して馬に跨った。片腕しかないにも関わらず、まったく動作に危なげがない。

 俺たちは馬が通れそうな比較的開けた部分を探して歩を進める。

 地面はぬかるんでいたり木の根があったり、ファンタジー的な踏んだら毒を吐く植物がいたりで、なかなか気が抜けない。

 だが、三時間も歩く頃には慣れてきた。不慣れな悪路と言えど、ゆっくり歩いているだけなのでさほどの疲労はない。錬気を体に巡らせている成果だろう。


「! ムラヤマ様、止まって」

「?」


 唐突にグイーダさんに制止させられた。

 疑問に思うことはあったが、ひとまず声を出さずに指示に従う。

 息を潜めてグイーダさんと同じ方向を凝視すると、大きな熊っぽい生き物が数十メートル先を闊歩していた。『っぽい』なのは、妙に前脚が大きいからである。鬣のような毛が生えている。

 つい、腰に手が伸びた。長短二本の剣と、背負った剣を確認する。

 熊はすぐに去っていったが、悟られないようにしばらくその場で待つ。

 一分ほどそうしたところでグイーダさんが息をついた。


「あれは鬼熊という魔物です。巨大な前脚の一撃は大木すら容易くなぎ倒す。その上足が速くて逃げるのも困難。なかなか強力な魔物です」


 魔物と出くわすと解説が始まる。

 歩きながら聞くにはちょうどいい。ためになる講釈だった。

 そこでふと、疑問に思ったことを質問する。


「ところでグイーダさん。魔物と獣の違いって何なんですか?」


 たとえば、魔法を使える生物が魔物とするなら、人族だって魔物になってしまう。

 思えばこの馬も魔法が使えるか、魔法がかかっているはずだ。巨体の割に速い。……そういう品種かもしれないが。


「そうですねえ、最大の違いは生きる上で幻素を必要とするかでしょうか」

「幻素を?」

「はい。我々人族は、魔力が尽きても生命力が尽きていなければ命に別状はありません。しかし、魔物は魔力を使い果たすとすぐに倒れてしまう。彼らにとって幻素は便利な道具ではなく、我らにとっての水や空気に当たるものなのではないかと言われていますね」

「なるほど。じゃあ、魔王が魔物を活性化させているというのは?」

「魔王の影響が強い地域では土地の魔力が異常を起こし、過剰に供給されます。魔王の影響を受けた幻素は毒になる。我々よりも幻素を取り込む力が強い魔物は影響を受けて活性化しているというのが通説ですね」


 人族や普通の動物は幻素がなくても生きていけるため、受け入れる量を調整しやすい。

 魔物は生きるために幻素が不可欠なため、体が幻素を取り込みやすくできている。

 幻素が魔物にとってエネルギーなのか食糧なのか分からないが、大量に供給されることで生態系のバランスが崩れているのかもしれない。


「……!」

「どうしましたか、ムラヤマ様」


 俺にも余裕が出てきて、辺りを警戒しながらゆっくり進んでいると、ほんのわずかな地響きを感じた。

 立ち止まった俺にグイーダさんが怪訝なまなざしを向ける。俺は口元に手を当てて静かにするよう伝えると、グイーダさんも何か感じたのか表情を引き締めてしゃべるのをやめた。

 その場にしゃがんで地面に手を当て耳を澄ます。

 やはり、勘違いではない。小さな地響きが続いている。

 しばらくそのまま集中していると、地響きは徐々に近づいてきているようだった。

 ……おおむね、地響きの正体に見当がついた。


「魔王軍が近付いてきています」

「やはりそうでしたか。僕自身は何も感じないですが、この子が怯えています」


 グイーダさんは馬の首をポン、と優しく叩いてさすってやる。

 よく見ると馬は震えていた。


 より警戒を厳重にしながら森を進む。

 地響きはどんどん強くなり、今ではずずず、と巨大な何かが地面をはいずるような音がはっきりと聞こえる。

 相当近付いているようだ。


「……グイーダさん、しばらくここで待っててもらえますか?」

「? ムラヤマ様、何を」

「ちょっと魔王軍の様子を見てきます。森の中からちらっと見ただけでも、帰った時に情報を渡せた方がいいでしょう」

「……わかりました。ですが、決して無茶はなさらないよう」

「当たり前です」


 俺は南に向かって森を駆ける。

 まだ陽も出ているので辺りはしっかり見通せる。

 念のため、目印としてだいたい等間隔で木に傷を付けていく。

 しばらく走り、森の浅いところに出る。よく目を凝らすと魔王軍の端が見えた。

 数は相当に多い。少なくとも数えようという気にはならない。


「あれが魔王軍か……聞きしに勝る禍々しさだな。まるで悪役になるために生まれてきたようじゃないか」


 見える魔族の多くは黒い人形のような形をしていた。ひょろっちくて生気がない。そもそも生き物なのか、あれ。


「ん? そういやおかしいな。あの集団からは相当なノイズを感じるのに、あの黒いのからは感じないや。ノイズがかった魔力は魔族の特性じゃないのか?」


 日野さんが捕まえてきた魔族の魔力には強いノイズが混じっていた。フクロウ魔族も微細ながら魔力にノイズが入っていた。

 そのノイズが、黒い人形のような魔族からは感じられない。散見される黒人形以外の魔族からは感じられるのに、だ。


「ま、いいか。それより確認すべきは魔族の戦力だ」


 しばらく魔力感知に集中する。

 平均的な魔力量はフォルトの兵士たちよりちょっと上くらい。ところどころ大きめの魔力を持った連中がいる。ほとんどは日野さんたちどころかジアさんにも及ばないが。

 それから陣形や集団としての練度を見ようと目を凝らすが、


「……うん。見るべきところが分からん。歩兵の練度なんて分かるほど俺の練度が高くないのが問題だったな」


 魔王軍全体を脅威度センサーで測ってみるも、超ヤバいとしか分からなかった。ケンカを売ったら死ぬっぽいけど、あれだけの数が相手じゃ当たり前だ。もう少し近寄らないと個人の危険度は分からない。

 なんとなくとんでもなく嫌な気配を感じるので、数人は別格のやつがいると考えた方がよさそうだが。


「分かるのは、あれだな。やっぱり保険をかけておこうって考えは間違ってなかったってことだ」


 個人の危険度を詳しく測ろうなんて欲張らない。見つからないうちにさっさと踵を返した。

 魔王軍だけあって、相当に嫌な感じがした。

 ひとまず近寄らないのが賢明。欲張って死んだら元も子もない。

 さっさとグイーダさんのもとに戻り、魔族は通り過ぎたからちょっと急ごうと提案した。


―――


 夕刻。俺とグイーダさんは魔族が築いたという砦のすぐそばまで来ていた。

 存外砦付近の警戒が薄かったのだ。

 現状、フォルトの戦力は魔王軍とおっつかっつ。魔族の進軍を見た感想を加味すると、フォルトちょっとヤバいかな、くらい。

 そんな状況でフォルトの連中が攻撃に人員を割くとは考えづらかったのだろう。

 おかげで予定よりも魔族の砦に近付くことができた。

 近づいたと言っても肉眼でかろうじて見える程度の距離なのだが。今は岩場に隠れている。ここから先は遮蔽物のない平野。砦にも魔族はいそうなので、近付くのはここが限界だろう。

 媒介の魔力結晶をそっと埋める。

 道すがら中継の魔力結晶も設置してきた。これで保険の影響はこのあたりまで及ぶはず。


「そんじゃ、フォルトに帰りましょう」

「ええ。少し離れて、どこか都合の良さそうな場所で野営をしましょう」


 そろそろ陽が落ちる。

 森の中はもう暗いだろう。そして暗い森が危険だということは俺にも分かる。

 近づく獣や毒虫に気付きづらくなるし、足元もおぼつかない。

 どうせ夜に進んだところで大した距離は稼げない。ならば体力を温存した方が得策だ。

 魔族に気付かれる可能性は極力減らさなければならない。まだ暗くなりきらないうちに森を進み、野営できる場所を探す。

 幸いにも――というか道すがら見つけておいたのだが、森の中の適度に開けた場所にたどり着く。俺とグイーダさんは腰を下ろした。馬からも荷物を下ろす。


 教わりながら野営の準備を整える。

 折り畳み式のテントなんてなく、準備そのものはすぐに終わった。準備なんて言ってもグイーダさんが魔法で火を熾し、それぞれ寝袋を用意、荷物に詰めていた食料を取り出すだけだ。

 鍋に塩漬け肉と野菜を投入。軽く塩を振って煮込む。塩漬け肉に塩分がたっぷり含まれているので追加の塩は少しで十分。

 俺は鍋をかきまわし食事の準備。グイーダさんは俺が伝えた魔族の情報を報告書に書き込む。そんな静かな時間が過ぎ、やがていい具合に煮えた肉と野菜を器に盛り、食事を始める。

 ……うん。ポトフっぽくはなったけど胡椒がないからなんか物足りない。それから野菜の味が直で分かるため、品種改良の偉大さを痛感した。


「ムラヤマ様、一日とはいえ旅はどうでしたか?」


 もくもくと食べているとグイーダさんに声をかけられた。

 報告書を書いていた時と違い、表情に厳しいところはない。ただの雑談らしい。


「あんまり旅って感じじゃないですね。途中まで日野さんに送ってもらいましたし、泊まりありの遠足ってところです」

「そうですか。あまり辛くなかったようで何よりです」

「まあ、そうですね。さすがに始めてフォルトの外に出て、いきなり過酷な強行軍は嫌ですし」

「……ああ、そういう意味ではないのですが」

「はい?」


 笑って控えめな調子ながらも否定したグイーダさん。

 彼の言った言葉の意味こそ分からずに首をかしげる俺に、グイーダさんは柔和に笑いながら告げた。


「ムラヤマ様はこの保険を使うような事態になればフォルトを捨てるつもりなのでしょう? ならば、旅に向かない場合は大変かと思いまして」


 言われてスープを口に運ぶ手が止まった。

 図星だった。

 この保険はフォルトを犠牲にしてでも魔族の侵攻を食い止めるためのもの。

 本当にどうしようもなくなった場合に、俺がフォルトから逃げ出して、元の世界に帰るまでの時間稼ぎをするための魔法だ。それさえ果たせれば侵攻が再開してもまあいいかと思っている。

 とはいえ、アストリアスを守ることはチファたちを守ることにも繋がるので、設置に手を抜くつもりは毛頭ない。魔法の構成も俺なりに真剣に行った。専門家から見ると論外だったみたいだが。


「当たりです。よく分かりましたね。保険をかける理由は今のところ誰にも話していないのに」

「ダイム師はお見通しでしたよ。あなたは目的を果たすことを最優先に考えるから、フォルトが生活基盤としての機能を失ったら簡単に捨てるだろうと」

「あー、否定はできません」


 ぶっちゃけ、フォルトの街には何の思い入れもない。楽しい思い出よりも嫌な思い出の方が多いし。好きか嫌いかで言ったら嫌いだ。嫌いか大嫌いかなら大嫌い。

 フォルトが陥落した時に虐殺される人々を見て笑えるほどではないが。そこまで人格は破綻していない。はず。


「やっぱりグイーダさんからすれば不愉快ですか?」


 自分が住み、命をかけて守る街を生活基盤としての価値しかないと断じられたら不愉快だろう。

 答えを半ば確信しながらも尋ねると、グイーダさんは苦笑した。


「そんなことはありませんよ。僕にとってはそれなりに大事な場所ですが、ムラヤマ様からすれば勝手に連れてこられただけの場所。加えて虐げられたとあれば、守りたいと思う方が不自然です」

「悪いですね、あなたが守りたいものを嫌っている俺のお守りなんてさせちゃって」

「構いませんよ。お守りというほど大変でもありませんし、あなたの保険は間接的にアストリアスを守ることにも繋がりますから」

「フォルトは守りませんけどね」

「そもそもフォルトが陥落した時に使う保険なのですから当然です。僕としてはフォルト陥落よりも家族が住む村が蹂躙されない方が大事です」

「へえ、どこかの村から徴兵されたんですか?」

「いいえ、僕は自分で志願しました。魔法の勉強をしたいと思っていまして。兵士になれば役職に応じた魔法を習えますから。短期間ですがダイム師に支持して、一通りの魔法を使えるようになって、偵察兵になって――その矢先にこれです」


 グイーダさんは根元近くからなくなった自分の左腕を指し示した。


「大して気にしていないんですけどね。不便ではありますが、真剣に魔法を学んでいたおかげでダイム師に目をかけていただいていますし。魔法研究の手伝いをさせていただけているので、かえって充実しているかもしれません」


 言って笑うグイーダさんの顔に陰はない。

 不便さや喪失感があっただろうに、それはとっくに乗り越えているらしい。

 その切り替えの早さと心の強さは見習いたい。転んでもタダでは起きず、自らの目標に邁進する姿勢はなかなかに格好いい。


「グイーダさん、俺のことはヒサでいいです。敬語もいりません。年上の方に様付けの敬語で話されるっていうのは落ち着かなくて」

「そうですか。では、僕のこともグイーダと呼んでくださいな。僕にも敬語はいりませんよ」

「……あなたはめっちゃ敬語ですが」

「僕のこれはクセなんですよ、ヒサ」

「さいですか、グイーダ」


 呆れて笑う俺と、くつくつ笑うグイーダ。


 食事を終えた俺たちはさっさと食器を片づけて、明日に備えて眠りについた。


―――


 翌日は朝から高速で移動する。魔族の進軍から少々離れた方向に最速で駆ける。

 人数が少ない分俺たちの方が速い。今のペースなら魔族たちが目的地の真南を通るころにたどり着くことになるだろう。

 魔族に感知されない場所で日野さんに拾ってもらう手はずになっているので、戦闘が始まるよりずっと早く俺たちはフォルトに戻れるはずだ。

 俺たちが目的地にたどり着くのは夕方手前くらいの予定。日野さんの飛行は午前中だけで設置を終えられるほどの速度なので、そろそろ城で俺たちを待っている頃だろう。


「この調子だと今日中に帰れそうですね。ヒサ、その速度で走り続けるのはきつくありませんか?」

「余裕余裕。このペースなら当分走れる」


 グイーダが馬上から併走する俺に声をかけてきた。

 予定していた合流地点はそう遠くない。そこで発煙筒を使えば日野さんが迎えに来てくれることになっている。

 俺はグイーダが乗る馬の横を普通に走っている。

 この馬は遠駆けに向いた品種。速度はさほどでもないので無理しなければついて行ける。

 グイーダは呆れ顔だが、俺は錬気と強化魔法の併用で爆発的な力を生み出せない代わりに強化の持続力が高いのだ。

 ちょいちょい休憩をはさみつつ数時間。日野さんとの約束の場所にたどり着いた。発煙筒を使って休憩に入る。

 約束の場所は森の北側。森から少々外れたところにある岩場だ。

 俺たちがどれだけ深く入り込むか確定していなかったため、ここでしばらく待つことになる。手頃な岩に腰掛ける。


「……本当に大丈夫なのかね。今の煙に魔王軍が気付いてたら結構危なくね?」

「ですねえ。まあ、大丈夫でしょう。気付かれてもこの距離なら魔王軍よりヒノ様の方が速い……はず」

「仮にそうだとしても自分がどうにもできないところに自分の命が置かれるってのは精神的にしんどい」


 いちおうここにも魔力結晶を埋め込み、魔法陣の影響を及ぼせるようにしたら他にすることはない。

 ヒマである。

 適当に駄弁って日野さんを待つ。


「……そういえばグイーダ、勇者ってこの世界だとメジャーな存在なのか?」

「国によって有名な勇者は違いますが、最初の勇者の物語は世界中で知られていますよ。アストリアスで有名なのは、最初の勇者と五人の勇者の物語ですね」

「国によって違うんだ。その国が召喚した勇者が有名になるって感じ?」

「やはり国が大々的に勇者を扱いますから。ヒサたちも中央で召喚されていれば歓迎漬けだったでしょうね」

「そんなもんか。ていうかとっくにアストリアスの中央にも俺たちが召喚されたって話は伝わったはずだろうに、ノータッチなんだよな」

「次の戦場はフォルト。中央に呼び寄せるよりもこのまま戦わせたいのでしょう。挨拶などは……そろそろフォルトに到着する予定の対魔族軍がするのでしょう」

「そうか。そうなるよな。フォルトの戦力だけで魔王軍とやりあうなんてありえないもんな」


 お姫様はフォルトが陥落すればアストリアスそのものが危ないと言っていた。

 嘘を言っている様子はなかった。それはつまり、アストリアスという国家が瀬戸際に立たされていることに他ならない。

 まして相手は魔族。アストリアスからさんざん土地を奪っているらしい連中。今さら油断のしようがない。

 フォルトに集まっているのがアストリアスの全兵力でなければ、増援があってしかるべきだ。なんならフォルト以西にある国々から支援があっても不思議はない。


「中央だけでなく、無事な地方からも兵士を徴用しているようなので、数はそれなりになるでしょう。……と、話が逸れていました。勇者の話でしたね」

「あ、ごめん。脇道に逸らしちゃってた。とりあえず勇者について聞きたいことが二つあるんだ。ひとつが、他の国の勇者ってのについて。俺たちみたいに地球から拉致られた人なのか?」

「勇者召喚自体がその国の機密事項ですので、僕もあまり詳しいことは知りませんが」


 そう前置きし、ふむ、とグイーダは腕を組んだ。


「まず、勇者召喚を行ったことがある国が四カ国と言われています。ひとつは言うまでもなくアストリアス。それからアストリアスの南にある大国、レンディオル。西の小国、ビスタール。遥か南西にあると言われるイオニアという国です。それぞれが異なった召喚法を持つとか」

「異なった召喚法?」

「はい。アストリアスでは今回も前回も召喚した勇者は五人。生きた人間をそのまま召喚しています。ビスタールでは転生召喚と呼ばれる方法で、勇者の魂を生贄の体に宿すそうです。イオニアでは異世界で死んだ人間を死ぬ直前の状態で召喚するとか」

「ふうん……召喚も一通りテンプレが揃った感じなのな」


 普通に異世界召喚も、異世界転生も、死んだらそのまま異世界送りというのも、全てごくありふれた話だ。

 当然、フィクションの中の話だが。


「じゃあレンディオルって国の召喚魔法はどんなのなんだ?」

「それが、まったく分からないのですよ。千年前に最初の勇者を召喚したのがレンディオルだと言われていますが、それ以降勇者を召喚した痕跡が見られないのです。今も彼の国には聖剣の勇者がいるのですが」

「四ノ宮も持ってたけど、聖剣ってそんなに何本もあるものなのか?」

「いえ。本来聖剣と言えば最初の勇者が神より授かった剣のこと。アストリアスかレンディオルにある剣のどちらかが偽物なのでしょう」


 今も勇者がいるとなるとレンディオルって国の聖剣が本物っぽい。

 最初の勇者が召喚されたのが千年前とすると、今の勇者は何なのか。子孫あたりと考えるのが妥当か。

 まあ、レンディオルの勇者の素性はどうでもいいや。最初の勇者の子孫でこの世界の人間だとしたらさほど会う必要性も感じない。

 続けて話を聞くと、アストリアスとイオニアの間にはレンディオルなどがまたがるため、イオニアの情報はあまり入ってこないらしい。最近勇者を召喚したと話題になっているのはビスタールだとか。

 ビスタールの勇者には会ってみたい気もするが、それは脇に置いて、本題に入る。


「じゃあ、その勇者たちのうちで、元の世界に帰った人は何人いるんだ?」


 お姫様はアストリアスの五人の勇者以外で元の世界に帰った勇者はいないと言った。

 それが嘘だとは思っていない。少なくとも、こうして兵士に聞けばバレるような嘘はつかないだろう。

 けれどもグイーダはかなり博識だ。何か知っているか、独自の解釈を持っているかもしれない。


「……少なくとも、僕が知る限り元の世界に帰った勇者は先代の五人の勇者だけです。さらに言うと、五人の勇者の中でも帰ったのは四人だけで、一人はアストリアスに残ったらしいのですが」

「残ったっていうのは、あの手記を書いた人か」


 ざっと読んだ雰囲気から察するに、誰かがこちらに残らないと送還魔法が使えない、みたいなオチはないようだった。

 その人個人がこの世界を気に入ったか、あるいは他に何か事情があって残ったのだろう。


「となると、他の勇者は戦死とか、戦いの後に寿命や病気で死んだとか?」

「はい。最初の勇者は原初の魔王と相打ちになって亡くなったと伝わっています。他の勇者については物語程度にしか読んだことがないもので、魔王を倒したところまでしか知りません」

「一番の盛り上がりどころは魔王との決戦だろうからなあ。勇者が死ぬまでのことまでいちいち書いた本なんてそうそうないか」

「一般にはあまり出回っていませんね。始まりの勇者の話は神話のような扱いで知れ渡っているのですが」


 読み物として出回るのは娯楽性が高いものだろう。勇者の活躍も脚色されている可能性が高い。話半分で聞いておいた方がいい。

 欲しい情報はなかった。けれど、暇つぶしには十分だった。しばらく勇者について話を聞いていた。


「? あれは……」


 そこに闖入者が現れた。

 ざしゅ、ざしゅ、と地面を踏みしめる音。

 振り向くと、大きな熊っぽい生き物がいた。

 やけに大きな前脚。首回りの毛は角のように逆立ち、正面から見ると炎をまとった角のよう。


「鬼熊がなぜ森の外に……!? 彼らは自分の縄張りからそうそう出ないはず。こんなエサのない岩場になんて、来るはずがないのに!」

「縄張りから出ないってのは普通の話だろ。多分あれ、縄張りを追われたヤツだ」


 唐突に現れた魔物――鬼熊は、よく見ればあちこち血まみれだった。角のように尖った毛は赤っぽいが、もしかしたら自分が流した血で染まっているのかもしれない。

 ぐるる、と威嚇する声にも心なし力がこもっていない。血で染まった牙もむき出しになっているので恐ろしいことは間違いないのだが。


「なるほど、他のオスに縄張りを奪われたのですか」

「多分だけど。ていうか、そんなこと気にしてる場合じゃなくね?」

「ですね。一手誤れば私たちが殺される。逃げますか、戦いますか」


 戦いに負けて縄張りを追い出されたということは、それだけ傷付き腹を減らしているということ。気が立っていて腹を減らしている手負いの獣が危険というのは想像がつく。

 俺たちの選択肢は三つ。

 ひとつは戦うこと。ひとつは逃げること。最後のひとつはおとなしく食い殺されること。

 三つ目は論外。逃げようとしても森に生きる野生動物から逃げ切れるかどうか。


「……戦う。俺がやるから、グイーダは逃げといて」

「ヒサ?」

「馬の足なら俺が戦ってるうちに遠くまで逃げ切れるだろ。最悪、日野さんが来るまでもてば襲われても平気なはずだ」

「何を言っているんですか? 強い魔物と言ってもここは彼の縄張りではない。僕とヒサで協力すれば問題なく勝てる相手です。僕だけ逃げる理由がない」

「あ、いや、自己犠牲的なアレじゃなくて。俺ひとりで鬼熊をやるって話」

「……はあ?」


 深刻な口調でまくしたててきたグイーダに説明すると、バカを見る目で見られた。ものすごく低温の眼差しだった。

 ひどい。万が一の時、片腕のグイーダだけじゃ危ないと思って逃げるように言ったのに。


「なぜわざわざ一人で?」

「これから戦争が始まるってのに、俺は自分で生き物を殺したことがほとんどないんだよ。だから、ここらで魔物の一匹くらい仕留めておきたいと思って」


 現代日本で生活してきた人はあまり大きな生き物を殺した経験がないだろう。

 少なくとも俺はそうだ。せいぜいが魚である。

 積極的に戦場に立つつもりはないし、戦場に出たとしても調べもののためだ。必要がなければ魔族を殺すつもりもない。

 けれど、いざという時にすくんで動けないのでは話にならない。

 生き物を殺すことに慣れたくなんてないけれども、必要にかられて殺した時に気が動転してしまったら危険だ。

 一度、大きな生き物を殺して自分がどれほど動揺するのか。知らなければならない。


「……わかりました。少々離れた場所に退避しておきましょう。ですが、危険と判断したら乱入しますので、そのつもりで」

「おう。その時はよろしく」


 ひずめが地面を蹴る音と共に去っていくグイーダを振り返りはしない。

 自分を殺そうとしている相手から目を逸らすなんて怖いこと、できない。


 この鬼熊は森の中で見た個体よりもずいぶん小さくやつれた印象。おそらく、放っておいても飢えて死ぬ。


「どうせ死ぬなら殺してもいい、なんてデタラメが正しいとは思わないけど」


 ゆっくり鬼熊に近付き、長短二本の剣を抜く。

 この前師匠にもらった太刀もあるが、今は抜かない。

 何度か試合をして試してみて分かったのは、二刀流の方が防御しやすいということだった。

 他の人は知らない。ただ、俺は手数が多い方が攻撃を防ぎやすかった。

 負ければ本当に死ぬ戦いはこれが初めて。守りを固めることが優先。


「お前だって生きるために俺たちを食いに来たんだろ」


 鬼熊もおもむろに立ち上がり、威嚇してくる。

 いくら傷だらけでやつれていると言っても体高は二メートルを確実に超えている。俺より一メートルほど大きいので二・五メートルほどか。

そんな生き物が妙に大きな前脚を上げているのだから相当な威圧感だ。

 ぶっちゃけ怖い。異世界なんて非常識が極まった場所にいるのに、常識が『熊に喧嘩を売るバカがいるか』と叫んでいる。

 あ、目が合った。熊の目をまじまじと見るのは初めてだ。血走っていて超コワい。

 きっとここで目を逸らしたら野生的に負けなんだろう。その瞬間に襲われる気がしてならない。気合いを入れて睨み返す。


 今回こいつの縄張りに踏み込んだのは俺たち。俺がこいつを殺すなんて押し込み強盗みたいなものだろう。

 大義名分もないのに生き物を殺すなんて-、とかちらっと考えたけど結論は一秒で出た。


「悪いとは思うけど、殺されるくらいなら殺すよね」


 それだけの話。死にたくないし。倫理や道徳なんて命があるから考えること。こっちに非があったとしても殺されてやろうなんて思わない。


 鬼熊が動いた。

 その巨体からは想像できないほどの速さ。五メートルはあった距離が一瞬で詰められる。

 その程度の速さには慣れている。ぶっちゃけ師匠なら一瞬で後ろに回って首を斬りつけるくらいしてくる。

 振り上げられた巨大な前脚が振り下ろされるのを見切り、斜め前に一歩踏み込む。

 前脚の一撃は空振り。鬼熊のがら空きの胴がさらされる。

 すれ違いざまに剣を振るうが、


「っ、硬いな」


 鬼熊の毛は硬く、密度が高かった。あまり力の乗らない一撃では肉に至らない。

 背後に回った俺を狙って鬼熊が前脚を振るう。

 それを右手の剣で受け止める。


「あ、これヤバいな。ミスった」


 俺は踏ん張らず、打撃の勢いに乗って吹っ飛ぶことにした。

 相当な勢いで飛ばされる。サッカーボールにでもなったような気分だ。


 前脚にぶつかった瞬間に悟った。

 こいつの攻撃は受け止めちゃいけない。

 体重が違い過ぎるのだ。速度も鋭さも師匠に遠く及ばないが、巨体の重量と一撃の重さは師匠を上回る。ぶっちゃけこの馬鹿力と重量相手に真っ向勝負すること自体ナンセンス極まりない。受け止めたら体重差のせいで確実に押し負ける。

 勢いに逆らわず転がるように受け身をとり、着地。二本の剣を鞘に納め、太刀を抜く。

 防御することに意味がなく、毛皮を貫くためには威力が必要。ならば一撃の威力を重視すべき。


「……さあ、来い」


 構えは大上段。太刀に錬気を通し、四足歩行で駆けてくる鬼熊を待ち受ける。

 やはり速い。ぐんぐん距離が詰まっていく。

 残り三十メートル。

 二十メートル。

 十メートル。

 ……五メートル!


「錬気の太刀、衝撃!」


 彼我の距離が五メートルというところで思い切り太刀を振り下ろした。

 太刀に流していた錬気を圧縮。太刀を振り抜く力と遠心力が合わさり、錬気の塊が鬼熊目がけて飛んで行く。

 ちなみに技名を叫ぶ必要は全くない。気合いを入れただけである。


「グガッ!?」


 衝撃は過たず鬼熊の鼻先に命中した。自ら付けた速度も相まって鬼熊はのけぞった。

 衝撃にぶつかったことで勢いは相殺され、動きも止まった。

 狙うなら今、ここ以外にない。

 上体が起きたせいで無防備な喉が露わになっている。

 振り下ろした太刀をそのまま下に構える。

 狙うのは頭ではなく喉。脈を掻っ切れば失血死するのだから、首を落とす必要もない。毛皮を抜けて、喉に剣を突きこめば終わりだ。

 錬気を足に集め、全速力で鬼熊に向かって突撃。


「……ッ、ァ…………ッ!」


 その喉に、深々と太刀が刺さった。

 手ごたえは十分。脈か気管を確実に貫いた。剣はおそらく首の裏の延髄まで到達した。

 とはいえまだ死亡を確認したわけじゃない。ひとまず離れようと剣を抜くと、鬼熊の首から血が溢れだした。


「……そうだよな、そりゃそうだよな。生きてたんだもんな。血圧だってあるよな……」


 徐々に弱まる心臓の脈動に合わせてぴゅっぴゅと噴き出る血にまみれ、何とも言い難い気分で崩れ落ちる鬼熊を見た。


―――


「……!? ちょ、大丈夫なの村山くん!」


 さすがに放置はあんまりだろうと思いグイーダに手伝ってもらって鬼熊を森に埋め、着替えようとしているところに日野さんがやってきた。

 上半身血まみれの俺を見るやいなや、目を向いて飛んできた。


「怪我はないよ。ちょっと魔物に襲われて返り討ちにしただけだから」

「へ? ……確かに服も破れていないけれど。顔も傷はないね。ならどうして血まみれのままなんだい?」

「さっきまで仕留めた魔物を森に埋めてたんだよ。どうせ汚れるし、なら着替えは後でいいかって」


 俺の周りを一周して傷の有無を確認した日野さんは首をかしげていた。

 正直臭いし気が滅入るので俺もさっさと着替えたい。


「そっか。大丈夫?」

「自分でも確認しただろ。見ての通り俺には怪我ひとつない」

「そうじゃなくて。体、震えているよ」

「……へ?」


 言われて気付いた。

 俺の手は小刻みに震えていた。

 いや、手だけじゃない。膝も笑っている。そのことを自覚すると、呼吸が少し荒くなってきた。

 戦っている最中は感じなかったが、命のやり取りは怖かった。

 ……いや、それだけじゃない。


「俺さ、魔物を殺したよ」

「うん。そうみたいだね」

「結構大きいやつだったんだ。熊みたいな魔物でさ。立ち上がると二メートル以上あった」

「そうなんだ。私もそれほど大きな魔物と出くわしたことはないよ」

「……ニジマスより大きい生き物を始めて殺した。まだあいつの喉を抉った感触が手に残ってる」


 気分を落ち着かせようと深呼吸すると、生臭い空気が肺いっぱいに流れ込んだ。

 鬼熊は巨体に見合った量の血液を流した。それを間近で浴び、着替えも体を洗いもしていないのだから、体が生臭くて当然だ。


「……そうか。村山くんは剣で倒したんだものね。私と違って感触があるんだ」


 日野さんは気遣わしげにこちらを見ている。

 日野さんは魔法で戦う。剣と違って手に感触が残らないのだろう。

 グイーダもまた、少し離れた場所でこちらの様子を伺っている。

 いつまでもこうしてはいられない。ぐだぐだしていても殺した事実は消えたりしない。


「……あ、わりと平気かも」

「村山くん?」


 自分で自分の両頬を叩くと、日野さんが怪訝な顔をした。

 俺はもう一度だけ深呼吸して鬼熊の血のにおいを肺に送り、殺したことを実感する。


「もう大丈夫だ。日野さん、体洗いたいからお湯出してもらえる?」

「……ん、分かった。ちょっと待ってて。たらいも一緒に作るから」

「ありがと。グイーダ、着替えもらっていいか?」

「ええ。替えは何着か用意してありますから」


 生き物を殺したことは実感した。ちょっとはショックも受けた。

 けれど、襲ってきた相手を仕留めたからか。それとも相手が放っておいても遠からず死ぬ獣だったからか。

 ショックは大したものではない。きちんと理解し、受け入れることができる範囲内。

 これなら魔族を殺した時にも気が動転することはなさそうだ。


 着替えを取り出す間に日野さんが湯船のように大きな石のたらいを作ってくれていた。なみなみとお湯が注がれており、傍らには手で持てる大きさのたらいがあった。

 お湯に触れるとちょうどいい温度だった。

 けれど、俺はまだ着替える気にならなかった。


「……日野さん、お湯はありがたいけど、いつまで見てんの? 俺の全裸見たいの?」

「……はっ!? あ、そうだね、着替えるんだものね!」


 後ろでも向いていてくれればよかったのだが、日野さんはペットボトルロケットのように飛んで行った。


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