79.彼女の事情②
日野さんが帰った後。俺はどうしたものかと悩んでいた。
眠気が訪れていた頃に人と話をしたせいでしっかりと目が覚めている。うっすらと日野さんの残り香があって微妙に落ち着かない。
布団に入れば問題なく眠れると思うが、せっかく目が冴えているのだから作業をするのも悪くない。
それでも、眠気がないと言っても寝なければ明日が辛い。布団に入ろうかとした俺は外で大きな魔力が動いていることに気付いた。
感じた覚えのある魔力。場所は中庭。
「……ちょっくら行ってくるか」
渡りに船とはこのことだ。寝ない理由が向こうから来てくれた。
差し入れでもしようかと思い、残り少なくなってきたチョコレートを持って中庭に出た。
―――
中庭にはいつか見たのと同じような光景が広がっていた。
色鮮やかな光球が無数に舞う。違うのは、その数がより多く、軌道がより複雑になっていることか。
中心にいるのは黒髪の少女。坂上だ。
なかなかに幻想的。変化に富んでいて見ていて飽きない。
邪魔にならないように気配を殺す。
しばらく眺めていると決めていたメニューが終わったのか、光球が消えた。坂上はひとつ深呼吸をした。
「や、おみごと」
ぺちぺちと拍手をしながら声をかける。
坂上はさほど驚いた様子もなくこちらを向いた。音を立てていないつもりだったがばれていたのか。
「先輩、こんな遅くにどうしたんですか?」
「それはこっちの台詞でもあると思う。女の子が出歩くような時間じゃないだろ?」
坂上がいたずらっぽく言ってきたので、こちらも冗談めかして返す。
幸いにも坂上はくだらない冗談にもくすりと笑ってくれた。
「見ての通り、わたしは訓練です。先輩は?」
「そうやって頑張る可愛い後輩に差し入れしようかと」
「ここにいるのがわたしだって分かってたんですか?」
「なんとなくな。ここで訓練してるのは坂上だと思った」
勇者級の巨大魔力は大きすぎて区別が難しいが、他の情報を合わせれば見当はついた。
四ノ宮は専用の訓練場があるらしいし、浅野はその四ノ宮について回る。日野さんが使う魔法はかなり大規模らしいので中庭で訓練するのは難しい。ていうかさっき会った時に眠そうな顔で部屋に引き上げていったし。となると、消去法で中庭にいるのは坂上だ。
「坂上こそよく俺が来たって気付いたな。魔力無いから感知できないはずなのに」
「範囲内にいる生物の生命力を捕捉する結界も張ってたんですよ。この結界なら昨日来たっていう魔族も捉えられるかなって」
「なるほど」
魔力と生命力は違うものだ。
この世界の人間は幻素を感知する能力を持っている。
だが、生命力を感知するのは幻素を感知するよりはるかに難しい。俺では直接相手に触れないと分からない。それでも触れれば分かるだけ上等らしい。
生命力は隠蔽も難しい。生きている限り必ず備わっているものだからだ。
とはいえほぼ全ての人は体に魔力を蓄えており、意図的に体から全ての魔力を抜くことは困難なため魔力感知の方が一般的なのだ。
通常、生命力だけを測る魔法は使いどころが限られるが、今回が使いどころもしれない。
そっか、と相槌を打ちポケットを探る。
「はいこれ、差し入れな」
坂上に小分けにされたチョコレートを渡す。板チョコの一部を袋に入れたような、小さいものだ。
ケチだと責めないでほしい。ケチらないとすぐになくなってしまう。
「ありがとうございます。せっかくですし、一緒に食べませんか?」
「一緒にって。そんなちっちゃいチョコだぞ?」
「でも、こうすれば。――はい、どうぞ」
坂上は小袋を破いてチョコレートを取り出した。そして長方形のチョコを割って、半分をこちらに差し出してきた。
渡したチョコは日本ならありふれている極めて一般的なもの。中身の形を知っていたらしい。
「ほら、早くとってくれないと溶けちゃいますよ」
「ん、ああ。じゃあ、いただく」
面食らって反応が遅れた俺を坂上がせかした。せっかくなので遠慮なくいただくことにした。
俺と坂上は木の根に腰を下ろして舌鼓を打つ。
「おいしいですねえ」
「ホントにな。最近は禁断症状が出ないか怖くて仕方ない」
「なんですかそれ」
くすりと坂上が笑う。
笑いごとじゃないのに。正直なところを言うと坂上が破いたパッケージすらも回収したい。匂いがあるだけでも違うのだ。
我ながら匂いを嗅ぐ姿はかなり危ない絵面だと思う。絶対誰にも見せられない。
坂上に差し入れたチョコレートは小さい。それを半分に分けたのだからなおさら。ほんのひとかけのチョコレートはすぐに溶けてなくなった。
「……先輩は」
「ん?」
チョコの余韻に浸っていると坂上がぽつりと呟いた。
それきり坂上は続きを言わない。
隣を見ると、坂上は膝を抱えていた。
「どうした、坂上」
半分膝に隠れた表情は優れない。ものすごく暗いと言うほどではないが、浮かない顔とはこんな表情のことかもしれない。
坂上の悩みを解決してやるなんてきっとできない。
でも、愚痴るだけでもストレス発散にはなるだろう。
少しは先輩らしいことをしてみたくて聞いてみる。
すると坂上は膝を抱えたまま問いを投げかけてきた。
「これから戦争が始まるらしいです。先輩はどうするんですか?」
「んー、ちょっと確かめたいことがあるからそれを確かめて、負けた場合に備えて保険をかけておく。保険もかけ終わったら……特別やることもないし、後方支援の手伝いとかしてもいいかもしれない。安全な作業限定で」
「保険、ですか」
「街まで攻め込まれた時に街を潰してでも人を守る方向でな。式までは用意できたけど、俺は魔法を使えないからさ。使うような時には力を貸してもらえると助かる」
「わかりました。……そんな時、来ない方が嬉しいですけど」
そりゃそうだ。戦場が街まで押し込まれたら後方支援の坂上だって危険だ。
なんにせよ助力をゲット。日野さんが作り直してくれた式と合わせて準備の準備は整った。
あとはダイム先生に最終チェックをしてもらって、いつでも発動できるように仕込みをするだけ。
「ところで先輩。保険をかけるってことは、先輩はフォルトが負けるって思ってるんですか?」
「いや、師匠もいるからそうそう負けないと思ってる。保険をかけてるのはむしろ、負けないためのゲン担ぎみたいな」
「……ゲン担ぎ?」
「そう。ほら、坂上は覚えがないか? 天気予報で降水確率50%だった時とか。降った場合に備えて傘を持ったら雨が降らなくて、どうせ降らないだろうとタカをくくった時に限って土砂降りだったり」
「あ、ちょっとわかります。下ろしたてのカーペットにトーストを落とすとジャムを塗った面から落ちる法則、でしたっけ」
「そんな感じそんな感じ」
人生、起きてほしくないことほど起きるもの。
起きてほしくない万が一に備えて時間や金を投入すると取り越し苦労に終わるもの。
保険はフォルト無事フラグを建てるための準備だ。
ゲームやマンガだと備えた事態は必ずと言っていいほど発生するので、フォルト壊滅フラグも建ってるかもしれないが。
まあ、フォルトまで攻め込まれたら無駄にはならないし。現実ではフラグを建てたらその通りになるってわけでもないし。
とりあえず備えておくに越したことはない。
「……先輩は、怖くないんですか?」
雑談で少しは気が紛れたのか。ふっと息をついた坂上がこちらを向いた。
「怖いって何が、なんて聞くまでもないか。戦争が始まることだよな」
「はい。これからフォルトが戦争の最前線になるみたいじゃないですか。対処を誤れば街の人もみんな死んでしまう。わたしたちが無事でいられる保証もありません」
坂上はいびつな笑顔を浮かべて言った。
楽しくも可笑しくもないのに無理して笑っているようにしか見えなかった。
きっと、虚勢の笑みだ。
弱音を吐いて泣いてしまったら心が折れる。
時に、吐き出せない弱音は支えになる。
いずれ崩れる脆い柱だが、短期間なら有効な場合もある。ソースは実体験。
坂上は今、崩れる手前にいるのかもしれない。
だから付き合いが短い俺にも弱音を吐いてしまう。
けれどまだ崩れていないから、無理やり笑顔で取り繕えている。
「……わたしは、不安です。この世界に来て、腕をなくした人を見てから、不安で不安で仕方ない。先輩みたいに立ち向かおうって気概はないんです」
坂上はふっと脱力。夜空を見上げる。
空は曇天。月も星も見えない。ただの暗い空だ。
坂上の目にも同じように映っているのだろうか。
俺には分からない。
「立ち向かう気概なんて俺にもないよ」
「嘘。先輩は征也くんに立ち向かいました。戦争にも備えをしてるって言ったじゃないですか。全部、立ち向かうためですよね?」
「ちょっと違うな、それ。そんな高尚な感じじゃない」
確かに四ノ宮に立ち向かった。
戦争でも最悪の状況に陥らないために知恵と策を巡らせている。役に立つかは知らないが。
けれどそれは、不安に負けずに立ち向かうなんて勇者っぽい理由からじゃない。
「四ノ宮に喧嘩を売ったのはボコボコにされて腹が立ったから。やり返してやろうと思っただけ。戦争にも立ち向かってない。現実感なんてないけど危険だって理屈は分かってるから、不安から逃れるために準備してるだけだ」
戦争に立ち向かう気概はない。
そもそも『戦争』がどういうものなのか、想像しかできない。その想像だって実感が伴わない空虚なもの。
知識はある。
戦争は人と人が殺し合うこと。昔なら弓矢と剣、槍で。現代なら機械兵器で。ファンタジーなら剣と魔法で。
世界大戦で引き起こされた惨事も授業で習った程度に知っている。
逆を言えば、その程度にしか知らない。
戦争で生じた被害も自分の目で見たことはなく、教科書や資料で読んだだけ。実感なんて欠片もない。
ファンタジー世界で「戦争です」と言われても漠然と危険だとしか分からない。
危険だと分かっているから備えているだけで、真っ向立ち向かうなんて気概はない。
「俺にあるのはささやかな想像力と、十全とは言えない知識だけ。詰めの甘い打算を巡らせて、準備に集中することで恐怖から目を逸らしているのさ、と」
不安も恐怖も些少ある。漠然とした危機感でも命の危機は普通に怖い。
だから生き残るために努力することでその恐怖から逃げている。
目の前に目標を作って打ち込んでいれば、それ以外のことはしばらく無視できるから。
情けない本音は誤魔化すように口にする。
冗談めかして言うと坂上は一瞬ぽかんと口を開けて、それから小さく吹き出した。
「ああ、そっか。そうなんですか。あはっ、ふふふっ」
「? そうなんだけど。どうした坂上。なんかツボにはまるようなこと言ったか、俺」
楽しそうに笑う坂上を見てちょっと不安になった。
俺は何かおかしいことやとんでもないことを言っただろうか。これほど後輩に笑われるようなことを。
「いいえ、先輩は何も変なことなんて言ってないですよ。変だったのはわたしです」
「坂上が変?」
「はい。わたしがどうしてフォルトを守る手伝いをしようと思ったのか、今になってようやく気付いたんですから。自分の行動原理も分からないなんておかしいですよね?」
「……自己理解のきっかけになれたようで何よりだ?」
坂上は何か吹っ切ったように笑っていた。
その笑顔はどこか危うくも見えた。
具体的にどこがどう危ういか説明するのは難しい。傍から見れば可愛い女の子の華やかな笑顔なのだから。
けれど、どうしてか。
自分を嫌いになる事実を見つけてしまったような。そんな危うさを感じた。
「参考までに聞くが、その行動原理ってのは何なんだ?」
このまま放っておくのはよくない。
勝手な思い込みかもしれないが、万が一手遅れになった時に悔やむよりよほどいい。
先輩風を吹かせてみると、
「ふふふ、秘密です」
「……そうか」
坂上は思わず見とれてしまうような笑顔を浮かべ、指を唇に当てて見せた。
人懐っこい表情なのに、俺が感じたのは明確な拒絶。
これ以上聞いても無意味だと悟ってしまった俺は、殊更話を続けることができなかった。
ちょっと現実で一山あったので投稿さぼってました。ごめんなさい。




