51.復調と接近遭遇
目が覚めるといつもと違った感覚があった。
身を起こし、左手を握ったり開いたりを繰り返す。
「……よし」
ベッドから下り、粛々と着替え、左腕に巻いていた包帯を外す。
部屋から出る。城から少し離れた訓練場に行き、他に人がいないことを確認。準備体操をして、大きく息を吸った。
そして。
「治ったぁーーーーーーーーー!」
叫んだ。
最近ではほとんど無視できるような疼きになっていたが、それすらない。
あの試合からはや十日。痛む状態に慣れていた。
だけどやっぱり痛みに慣れると痛みがなくなるは違う。すっげえ身が軽い。
坂上は治るまで時間がかかると言っていたけれど、普通に怪我を治すよりはよっぽど早い完治だ。
全身に錬気を巡らせる。気のせいかいつもより通りがいい。
そういえば、万全な体調で錬気を使うのは初めてだ。俄然テンションが上がってきた。
ストレッチをしながら全身に錬気を馴染ませる。じんわりと熱が伝わり、動く準備が整った。
手始めに軽く走ってみる。体が軽い。ひと蹴りでどんどん前に進んでいく。
面白い。ジョギングくらいのペースで走っているつもりなのに、普段の全力疾走くらいの速度が出ている。
では、この状態で思い切り走ってみたらどうなるだろうか。
そろそろ体も温まったころだ。試してみよう。
体を前に倒しながら地面を蹴った。
「のわっ!? ……あっぶな!」
結構な勢いで前に進んだが、同時に滑って転びかけた。なんとか体勢を立て直し、一息つく。
……そうだった。体力が上がっても摩擦力は上がらない。履いている靴はスパイクどころか通学用に買ったもの。錬気を使った全力で走ろうとしたら、地面を捕まえていられるはずがない。
そのところを念頭に入れて、錬気で靴全体を覆う。足首あたりに靴が脱げないよう固定具を、靴底には滑り止めをイメージして具現化させる。
まだ意識していないと具現化を続けるのは難しいが、逆を言えばきちんと意識をしていれば具現化は続けられる。これも練習のうち。
地面を蹴ってみると、今度はしっかり地面を捕まえている。靴が脱げることもなさそうだ。
「よし、今度は全力でいってみるか」
控えめに前傾姿勢をとる。スパイクが地面を捕まえていることを確認して、今度こそ全力で駆け出した。
ひと蹴りで大きく前に進む。歩数を重ねるごとにぐんぐん速度が増していく。
「おお……おお…………!」
スピードが乗る。自転車なんか目じゃないくらいの早さで景色が変わる。かなりの広さがある訓練場をすぐに抜けてしまった。
強い向かい風の時のように呼吸が苦しくなってきたところで足を緩める。気がつけば城のすぐそばにいた。
そこで、ちょっとした悪戯心が芽生えた。
このまま門を通らず城壁を越えたりできないだろうか。
フォルトは城塞都市と言うだけあって、街全体が巨大な円状の外壁に囲まれている。
高さ十メートルくらいの外壁を越えるのはさすがに無理そうだが、城を囲っている壁ならいけるのではないか。
基本的にフォルトは外敵と対するための街だ。都市内部の反乱よりも外への防備が優先される。万一城を占拠されても町から攻めやすくするためか、街を囲う壁に比べ城を囲う壁は低い。
まあ、低いと言っても四、五メートルはありそうだが。巨人の進撃に備えるような壁に比べたら低く見えるというだけの話。
周りには高い木が何本か立っている。それを伝っていけばいけるかもしれない。
ものは試し。助走をつけて捕まっても大丈夫そうな太い枝がある木をめがけてジャンプする。
高さ三メートルほどの枝に掴まることができた。握力と腕力を強化して懸垂の要領で体を枝の上に持ち上げる。
あとは跳んで捕まり持ち上げての繰り返しだ。
途中で見回りの兵士に見つかったが、笑顔で手を振ると変な顔をして手を振りかえしてくれた。いいやつなのかもしれない。
ハズレとしてでも顔が知られていてよかった。
やがて、城壁の上にたどり着いた。
「おお、結構いい眺め」
街を見下ろす。大きい方の城壁まで広がる町並みはなかなかに壮観だった。
背の低い建物ばかりだが、それがいっそうファンタジー感を引き立てている。目をこらすとところどころ動いている人が見受けられた。異世界の人は早起きだ。
城壁は厚みがあるので上を歩けた。城を見てみるが、距離が近いぶんあまり迫力がなかった。
俺がボコボコにされた広場に面した城壁に焦げ跡があった。おそらく日野さんがやったという威嚇の痕跡だろう。いったいどれだけの火力を出したんだか。
ひとしきり見て回り、壁より低い部分を見繕って城の屋根へ跳び移った。
忍者よろしく屋根の上を跳んだり跳ねたり走り回っているうちに気付いた。
「なにこれ、超たのしい」
二階ほどの高さのところから徐々に高くなっているところを伝って高い屋根に上る。そこから少し低い場所に飛び降り、駆ける。
訓練場を走った時より速度は控えめだが、高低差があるのでコースに変化が富んでいる。
「やばい、これは楽しい!」
だんだんテンションが上がって速度にも自重がなくなっていく。
テレビでパルクールとかフリーランニングをしているのを見て、なんでわざわざ危険な真似をするのかとバカにしていた。
だが、今なら彼らの気持ちが分かる。
自分の身ひとつで高低差のあるステージを高速で縦横無尽に駆け巡る。身体能力を余すところなく全開で発揮できる。
その先には新しい景色がある。
これが、楽しくないはずがない!
今なら中庭を越えて別棟に跳び移るくらいできそうだ。
……五分後に気付いたことだが、この時の俺は変なテンションになっていた。
久しぶりに体調が万全だったからか。それとも錬気で引き上げられた身体能力にはしゃいでいたのか。あるいは両方か。
どれでもいい。
どんな理由をつけても結果は変わらない。
俺は、別棟めがけて、本当に中庭を跳び越えようとしてしまったのだ。
足に錬気を集中し、脚力を思い切り上げる。
狭い屋根の上で助走をつけて、思い切り踏み切った。
束の間の浮遊感。やがて放物線の頂点にたどり着き、落下が始まる。
それでも、届く。
指先が隣の棟の屋根の端に触れる。すかさず両手で掴んだ。
そして俺の全身(手除く)は振り子のような軌跡を描いて壁に叩きつけられた。
どべっと鈍い音がした。
当然である。指先だけたどり着いて何になるというのか。
横のベクトルを消しきれなければ待っているのは壁への激突だ。
飛び移るならちゃんと足から屋根の上に着地できるようにすべきだった。
振り子の原理で速度を増しての衝突はものすごい衝撃だった。とっさに錬気で身を守らなければ何本か骨が折れていたかもしれない。
壁にぶつかった反作用に耐えきれず指が屋根の縁から離れた。
頭から落下する。中庭にあった木の枝を掴んで速度を殺し、今度こそ足からの着地を試みる。
が、運悪くズボンのすそが太めの枝に引っかかって再び頭から落下した。
ばさばさばさ、と枝が折れる音。もう掴まれそうな太い枝はない。腹をくくって頭や首に錬気を集中。強化する。
「~~~~~~っ!?」
「きゃあっ!?」
頭から地面に突っ込んだ。受け身の要領で顎を引いていたが、後頭部や肩をしっかり地面に打ち付けた。悲鳴をあげることすらできない。
俺はそんな状態なのにしっかり可愛らしい悲鳴が聞こえた。
とはいえ気にしていられる状態じゃない。おうおう、と悶絶するのが関の山だ。我ながら絶叫しないだけよく我慢していると思う。
「いったいなにごと!? 侵入者? ……って、あれ?」
しばらく痛みをこらえながら悶えていると、おそらく先ほどの悲鳴の主が寄ってきた。
壁にぶつかった時と落ちながら木を折った時、そして地面と激突した時。計三回も大きな音を立てたのだから人が寄ってきて当然か。
歯を食いしばりながら視線だけ向けると、
「……村山? あんた、なにやってんの?」
槍を構えた浅野がいた。不審者を警戒していたのだろう。俺だと分かると槍を引いた。
そっちこそこんな朝っぱらから中庭で何を、と思ったが、痛みがひどくて言葉を発することすらできなかった。