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別視点.公開私刑前日

チファ・マール


 チファはマールと共に城内の掃除をしていた。

 絨毯は絨毯ごとに洗い方が違う。客間にある置物も手入れの仕方はさまざまだ。

 まだまだ覚えなければならないことは多いが、それでも頑張ることは苦ではない。

 いまだに先輩の多くは冷たい態度を取るけれど、仕事はマールが教えてくれるため問題ない。


 一緒に頑張ろう。そう言ってくれた人がいる。

 それだけで頑張る気力が湧く。

 みそっかすはもうおしまい。早く一人前にならなくちゃ。


「……なんだか最近、嫌な空気がありませんか?」


 ふと、傍らで床を掃いていたマールが呟いた。


「そうですか? いつもこんな感じだと思いますけど」


 チファは何気ない様子で返した。

 そのことにマールは愕然とする。


 最近、城の中の空気は明らかにおかしい。

 兵士たちも、侍従たちも。こちらを警戒しながら何かひそひそ話しているのだ。

 変な噂でも流れているのかと思って聞き耳をたてると、すぐに逃げる。

 ずっとこちらを伺うような視線にさらされ、近寄ると避けられる。

 チファはこんな状況をいつものことだと言ったのだ。

 いつもチファと一緒に行動しているわけではないが嫌がらせを受けていることは知っていた。

 チファが言う嫌がらせ。その実態はほとんど虐待だ。


 ……だが、不思議なことに。

 ハズレの勇者の専属になってからさまざまな嫌がらせを受けているようなのに、 それでも城で働き始めたばかりの頃よりは明るい表情を見せている。

 それどころか、彼女の幼なじみの少年たちが言うには村にいたころよりも。

 勇者の専属になる前の状況がよほどひどかったのか。それともハズレと言われる彼がチファの支えになったのか。

 本当のところは分からないけれど、どちらにせよ彼には感謝だ。

 何かできることはないか。マールは掃除の片手間に考えた。

 あまりできることは多くないが、少しでもできることがあればしておきたい。


 その時には、嫌な空気のことは頭の隅に消えていた。


◆◆◆


ウェズリー・シュラット


 夕方。いつも通り訓練場で木剣を振るう。他の兵士の多くは巡回などの任務についているが、兵士になったばかりで訓練兵扱いの二人はこの時間も訓練だ。魔法の授業を受けているはずの貴久も、ここにはいない。


「なあなあウェズ、このとこみんな変じゃねー?」

「……うん。様子がおかしい」


 ひとしきりメニューを消化して、いったん休憩しているとシュラットが口を開いた。ウェズリーもそれに答える。

 最近。周囲の様子がおかしい。

 普段なら気のいい先輩たちもどこか自分たちから距離を置いている。

 よほど嫌われるようなことをしてしまったのか、と心配になったがそれも違うらしい。

 遠巻きにされながらも視線を感じるのだ。

 決して嫌悪や悪意ではない。むしろ同情というか、憐れみのような視線。


 なんとなく息苦しい。胸にもやっとした何かがあって落ち着かない。

 ちょうどそんな話をしていると、訓練場のそばを顔見知りの兵士が通りかかった。


「あっ、レナードのおっちゃん! さあ吐け! なんでおれたちを遠巻きにするんだよっ!」


 シュラットは全力で駆け出して、行く手を遮るようにして問い詰めた。

 レナードと呼ばれた兵士は唐突に絡まれて困った顔をする。

 面倒見のいい彼は新しく兵士になったばかりのウェズリーとシュラットの世話を焼いているうちに懐かれていた。

 そのことに悪い気はしないのだが、こうまで気安くされるとそれはそれで面食らう。先輩を敬え、なんて言うつもりはさらさらないが。


「レナードさん、教えてください。僕らは何かしましたか? どうしてみんなが僕らを避けるんですか?」

「……すまん」


 レナードはそれだけ言って足早に立ち去った。二人には止めるすべはなかった。

 少なくとも二人が知っているレナードはゴルドルと気が合う人物だ。

 二人とも何かあったならズバズバ口に出して、必要なら拳を交えるタイプ。こんなふうに誰かを遠巻きにするばかりの状況を好ましいと思っていないのは彼も同じはず。

 それなのに何も言ってくれない。

 おそらく、言えないだけの理由があるのだろう。


 ……と、わかっててはいるのだが。


「あーーもう! イライラするっ!」

「なんだよなんだよなんなんだよっ! 男ならもっとはっきりしやがれってんだー!」


 頭で理解するのと感情で納得するのは別なわけで。

 二人の叫びが訓練場に響き渡った。


◆◆◆


レナード・ゴルドル・ジア


「……まだおっちゃんって歳じゃねえんだけどなあ。あいつらからしたらもうおっちゃんなのねえ」


 ウェズリーに絡まれた後。レナードはそうぼやいていた。

 今日は夜勤もないのでこのあとは家に帰るだけの予定だったのだが、ゴルドルに呼びつけられて彼の執務室に行くところであった。

 ゴルドルが執務室で書類仕事をしていることも、誰かを呼びつけることも、滅多にない。

 本来ゴルドルがすべき書類仕事なんてそう量はないし、誰かを呼びつけるよりも自分から出向いたほうが早い、と考える人物だからである。


 そのゴルドルが自分を呼びつけた理由なのだが、見当がつかない。

 結婚を機に生活が不安定な探索者を辞め、兵士になってからそろそろ五年ほど経つ。たまには同僚と一緒にハメを外したりもしたが、子供が産まれてからは自粛している。

 仲間とハメを外すのも楽しいが、帰る時間が遅くなると子供が寝てしまっていて構えないのだ。

 そんなわけで、ここ最近は特に真面目に勤務している。

 もしかしたら昇進話かもしれない。けれど上にはもっと年上で経験も多く、人をまとめる能力が高い人が何人もいる。戦う技能には自信があるが、彼らを押しのけて昇進できるほど自分が総合的に優秀だとは思わない。


 いったい何の話なのか。想像もできない。

 とはいえあまり不安もなかったりする。

 ゴルドルは地位に対して年齢は若いが、理不尽なことを言うような人物ではない。

 あまり心配する必要もないだろう。


 そうこう考えている間にゴルドルの執務室に着いていた。

 深く考えずにノックをすると、名乗る前に、


「レナードか。入れ」


 と声がかかった。

 面食らいながらもレナードは扉を開けた。


―――


「すまんな、仕事が終わってんのに呼び出して」

「いえ、それより要件はなんすか。早く帰んないとガキが寝ちまうもんで」


 声の調子に厳しいものはなかった。厳めしい顔をしているが、それはいつも通りだ。

 少なくともレナードに対して険悪な口調ではなかった。

 そのことに安堵しながら軽い口調で答えた。


「ああ、ちょっと聞きたいことがあってな」

「聞きたいことっすか」

「このところ、兵士たちの様子がおかしいのはわかっているな。その理由を聞きたい」


 びくりと全身が震えた。

 心当たりがある。兵士の様子がおかしい理由も、その理由がゴルドルに伝わっていない理由も。


 このところ広がっている噂と、ひとつの命令がある。

 ハズレの勇者、村山貴久が自分の専属メイドを虐待しているという噂。数人を口車に乗せて味方につけているという噂。

 明日のお披露目で聖剣の勇者とハズレの勇者が剣術の試合を行うこと。その決定を一部の人間には決して漏らすなという、アルスティア姫様からの命令。

 兵士たちの雰囲気がおかしい理由はこの噂と命令のせいだ。

 数名の兵士が、そしてゴルドルが、騙されてハズレの味方になっている。だからゴルドルたちには一切情報を漏らすなと命令されている。


 ハズレの勇者がメイドを虐待している、という噂を信じている者は多い。

 彼がにやにやと笑いながら、粗末な食事をしているメイドを眺めているところを見た兵士が大勢いるからだ。

 反して、ゴルドルが洗脳されていると言われて信じる人は少数だ。とてもそんなふうには見えなかったから。


「……さあ、なんのことっすかねえ。おれにはちょっとわかんねえっす」


 だが、話すわけにはいかない。

 もしもゴルドルに話してしまえば、誰から伝わったか確実に調べられる。そうしたら確実にレナードは兵士でいられなくなる。最悪は家族にも累が及ぶだろう。

 それだけは避けなければならない。


「とぼけるな。言え」


 鋭い眼光に射すくめられる。

 正直なところを言えば、レナードだって言ってしまいたい。

 ゴルドルの放つ威圧感は半端なものではないし、理知的な眼光は洗脳されているようには見えない。言ってしまえば全てが好転するのではないかとすら思う。


 しかし、言ってしまうわけにはいかない。

 家族を守らなければならない。そのためには命令違反も、職を失うことも絶対に避けなければならない。


「……言えません」

「言え、と言っている。これは命令だ」

「…………言えませんッ!」


 命令を下し、拒否されたことからゴルドルは思考を巡らせる。

 自分からの命令を拒否した。ということは自分以上の権限を持つ者から秘密を厳守するよう命じられている可能性が高い。

 ……あのお姫様か。


「お前、家族がいるんだよなあ。娘がどうとか言ってたか」


 守るものがある。なら口を割るはずがないか。

 ゴルドルはそういう意図で言ったのだが、その巨体の無闇な威圧感と強面のせいで『家族に手を出されたくなければ口を割れ』と言っているようにしか聞こえない。

 レナードは顔を青くして脂汗をだらだらと流す。


 ゴルドルが知る限り、レナードは実直で面倒見がいい兵士だ。異変があるなら話してくれると思ったが、話すことで家族を守れなくなる可能性があるなら決して口を割るまい。

 人選を間違えたか、と思案するゴルドルはレナードの様子に気付かない。

 レナードの精神を蝕む沈黙を破ったのは、女性の声だった。


「ゴルドル。あまり部下を追い詰めるものではありませんよ」

「……ジアか。いつの間に部屋に入りやがった」


 音もなく扉を開き、ゴルドルにすら気配を悟らせず。

 アルスティア付きのメイドが。ジアが立っていた。


―――


 レナードはジアが「ご家族のことは心配ありません。早く帰ってあげなさい」と言うと、転げるように執務室を飛び出していった。


「まったく。あなたの外見で目を座らせているだけで周囲に与える圧力が甚大なこと。いい加減自覚したらどうなのでしょう」

「うるせえよ。自覚してるから普段はなるべく笑ってんだろうが」


 軽口に舌打ちでもしそうな様子で返すゴルドル。

 対するジアは余裕を感じさせる微笑を浮かべている。


「……で、こうして割り込んできたってこたぁアンタから事情を聞かせてもらえると思っていいんだな?」

「ええ。わたくしの口からお伝えいたします。レナードと言いましたか。彼には荷が重い役目ですので」


 ジアの微笑が凍りつく。

 口角はわずかに上がったままなのだが、顔の動きは口が最小限に動くだけ。

 どの口がおれの表情を非難したよ、と思わずにはいられない。ジアの無表情な笑顔の方がよほど心臓に悪い。


 ジアの口から語られた事実は予想をはるかに超えるものだった。

 五人の勇者の中にハズレが混じっていたことが民衆にも広く知られてしまったこと。

 そのことから生じた小さな不満を煽り、生活苦などの不満をまとめ上げる。

 お披露目の時に、ハズレの勇者とシノミヤユキヤを戦わせ、シノミヤユキヤの勇者としての威光を高めると同時に不満を解消しようとしていること。

 自国の勇者を「勇者すら容易く倒す勇者」に祭り上げることで他国を牽制しようと考えている。

 兵士や侍従たちには、ハズレの勇者が専属の侍従を虐待しているという噂を流すことで味方にならないよう促していること。

 一部の人間はハズレの勇者に洗脳されているため、決して計画のことを伝えてはならないという命令のこと。

 これらの計画を企て、実行しているのがアルスティアであること。


「ぶっ」


 ジアの話を聞き終えたゴルドルは、思わず吹き出した。


「はっ、ははははは! なんだそれ! バっカじゃねえの! 穴だらけにも程があるだろう、そんな計画!」


 そして笑い出す。

 笑うしかない。あのお姫様は、そんな穴だらけの計画とも言えないような計画を、きっと自慢げに振りかざしているのだ。頭悪いにも程がある。


 アルスティアが言うところのハズレ、つまり貴久と四ノ宮征也が戦うことを知らせているということはお触れでも出ているのだろう。

 もしもゴルドルでも誰でも、貴久に味方しうる人物が街に下りてそれを見た瞬間に頓挫しかねない計画だ。

 比較的貴久に好意的な勇者である坂上詩穂が、城下の治療所で回復魔法の実践を行っているというのに。

 笑うなという方が無茶だ。


 そもそも、上手くいったとしても他の勇者たちに不信感を植え付けることは簡単に予想できる。

 アルスティアにとって勇者は最強の手札のはずだ。それを自ら捨てるような真似を堂々とするなんて。


「ああ、おかしい……まさか、そんなザマでユーフォリア様を真似たつもりなのか? あの中弛みは」

「そうなのでしょうね。……恐ろしいことに」


 腹を抱えて笑うゴルドルの前で、ジアは別な意味で腹を抱えたくなる。


「姫様は、勇者を使うための鍵は握っている、と仰っていましたが」

「アテにゃならんな。ジアよう、お前止めてやらなかったのか?」

「止めましたとも。けれどわたくしが止めるより早く、侍従長たちを使って行動しておりました。忠告にも聞く耳を持っていただけませんでした」

「処置ナシだな、あのお姫様は。ったく、タヌキ爺がトンズラした理由もよくわかる」


 もともとフォルト周辺の領主をしていた爺なら。不満をどこかに押し付けるにしてもこんな無様な計画を練ったりしない。

 好きなタイプの人間ではなかったが、その能力については信用できた。

 あの爺がいてくれればきっとすぐに企みを潰しただろう。だが彼はアルスティアが来ると分かるや否や年齢を理由に引退し、遠くの地で悠々自適な生活を送っている。

 子供がいなかったことも相続などを考えずにフォルトと手を切れた要因だろう。

 正直、今では少しうらやましい。


「そんで、ジアはどうするつもりなんだ? その話、タカヒサに伝えるつもりなのか?」

「……はい。そのつもりです。もしも城から逃げるというなら、信頼できる護衛を付けて、いくらかの路銀を渡そうかと」

「まあそれが妥当だろうがなあ」


 わざわざ危険な場所にいる理由がない。

 ずっと冷遇されてきた貴久ならば何のためらいもなくこの城を、街を捨てることだろう。

 だが、その場合。


「あいつは、どうやって元の世界に帰してやるつもりだ?」

「っ、それは……」


 どうやらジアも気が気じゃないらしい。いつもの彼女ならば気が付かないはずがないことだ。

 いくら勇者がいるとはいえ、魔王を倒すまでどれだけ時間がかかるか分からない。

 呼びつけた側としては即座に送還するのが筋というものだろうが、現状ではそれもできない。

 魔王を倒した後に送還のために呼び戻せばいいのかもしれないが、貴久がそう言われても信じるかどうか。

 何より、それまでの期間、貴久の身の安全をどう確保するか。


「城の中に居れば、少なくとも盗賊や魔物に殺される可能性は低い。他の勇者の庇護下に入れば今よりは待遇も改善されるだろう」

「では、まずはヒノ様とサカガミ様に話をすべきだと?」

「そのへんが適当かね。……いや、待てよ。そもそも何かする必要があるのか?」

「ゴルドル、何を?」


 自分が前提を間違えているかもしれないと気付いた。

 そもそも、お姫様の計画は四ノ宮征也が圧倒的な勝利を収めることが前提だ。

 だが、その前提は――


「……ジア。姫さんはタカヒサとシノミヤに、剣術の試合をさせるつもりなんだな?」

「ええ、そう仰っていましたが」

「魔法は使わないんだな?」

「それは、当然。ムラヤマ様がハズレだと知れた時に、魔力がないということも伝わっていますので」


 絶大な魔力を持つ勇者が魔力を持たない勇者を魔法でいたぶったら。それでは観客も納得しないだろう、ということらしい。

 何の能力も持たないハズレを痛めつけることで不満を晴らそうとしているくせに何を、と思わないでもないが、好都合だ。


 貴久に試合の話をしたら、おそらく即座に逃げる算段を立てるだろう。

 城から脱走してしまってはかえって危険だ。万が一にでも一人で飛び出してしまったら行き倒れるか、魔物や盗賊に襲われて殺されるか。

 説得したとしても変に考え込んで、考えがまとまらず試合に支障をきたすおそれがある。

 それは少々もったいない。

 貴久は自分の実力を正確に認識していない。驕るよりはよほどいいが、少しくらい自信を付けたって構わないだろう。


「ならいい。おれたちが止める必要も、タカヒサに話す必要もない。あの姫さんが勝手に自爆してくれるからな」


 そう、ゴルドルは兵士よりも野盗の首領が似合う顔で笑った。


◆◆◆


坂上詩穂・フォルトの住民たち


 獣の爪に切り裂かれた腕を洗い、患部を直視する。

 ここ一週間ほどでたくさん見た傷口だ。いまだに慣れないが、もう体調を崩すほどの動揺はない。

 魔法で作り出した不純物のない水で傷口に入り込んだ土などを除去し、消毒の魔法をかける。

 日本では下手に消毒もしない方がいいと言われていたが、予防接種もない世界。まして獣に付けられた傷だ。消毒をしておかないと破傷風や感染症にかかってしまう恐れがある。

 続けて止血と痛み止め、回復力強化の魔法をかける。

 その後、患部に包帯を巻いて、


「……はいっ、おしまいです」

「あー、やっぱ効くなあ、シホちゃんの魔法は。ありがとな、助かるよ」


 治療を受けていた狩人の青年が笑う。無理をして笑っているようには見えない。


「はい、お大事にどうぞ。明日にはきれいに治っているはずなので、起きた時に包帯を取ってしまって大丈夫ですよ」


 青年の笑顔に応えるように詩穂もまた微笑んだ。

 青年の顔がほんのり赤く染まる。

 詩穂はそのことに気付かず次の怪我人に向かう。

 青年はがっかりしながらも邪魔をしないようそれ以上話しかけたりはしない。


「……見事に相手にされてねえな?」

「うっせ、そんなのみんな一緒だろ。あんただって怪我してないくせに治療所までついて来てさ。土産に果物まで渡してるし」


 からかうように声をかける男性。青年はムキになって言い返すが、その反応を面白がられていることに気付いていない。


「まあそうだな。めちゃくちゃ可愛いし、眼福だ。それと、おれだって治してもらったことはあるんだ。お礼に土産を渡すくらい自由だろ」


 あっさりと返されて青年がぎょっとする。

 本人に聞こえかねない距離で『可愛い』なんて口にする度胸、彼にはない。返事に困って目をそらした。

そんな青年を見て、男性はからかうように笑った。


「そんなに気になるなら遊びにでも誘ってみたらどうだ」

「……そうしたいけど、やめとくよ」

「なんだ、断られるのが怖いのか」

「…………それもないとは言わないけど、誘っちゃいけない気がするんだよ」

「ん? 誘っちゃいけない?」


からかったつもりが思いのほか真剣な顔で応えた青年に、男性の表情が怪訝なものになる。


「うまく言えないけど、今いるここが近付いていい限度って思うんだ」

「……そうか」


判然としない答えだが、男性は追及しなかった。なんとなく青年の言っていることの意味が分かったからだ。

詩穂は優しく、仕事も丁寧。話しかければ笑って答えてくれる。

だが、一線を引いている気がする。その先に踏み込むことを躊躇させるような一線を。

二人は何とはなしに詩穂の方を見た。

 その先には次の怪我人の治療をする詩穂がいる。

 手当を受けているのは、開店もしないうちに横暴な冒険者に絡まれ怪我をしたという酒場の主人のせがれだ。その頬はさきほどまでの青年と同じようにだらしなく緩んでいる。


 治療はすぐに終わったようだが、せがれは何事か話しかけ、詩穂を引き留めている。

 青年はイラッとしながらも自制する。

 イカン。ここで騒いだらシホちゃんに迷惑をかける。殴るなら治療所を出てからだ、と。

 青年が暴走するより前に、いつも通り治療所のおばちゃんがせがれの頭を小突いた。


「コラ、治療が終わったらさっさと帰んな。仕事しろ、仕事」

「えー、ちょっとくらいサボったっていいじゃん! 毎日働きづめなんだからさあ」

「そういう台詞は一人前になってから言え。毎日働いてんのはみんな一緒だよ」

「うぐぅ。シホちゃんはどう思う? 少しくらい休んで誰かと話したいよね?」


 おばちゃんの言葉にも懲りた様子を見せず、調子のいい笑顔を詩穂に向ける。

 彼の言う『誰か』が自分であることを隠そうとする様子もない。

 話を聞いていた青年の額に青筋が浮く。その横で男性が「あのガキ、シバくぞ」と呟いた。青年も迷うことなく頷いた。


「えと、お仕事がんばるひとは素敵だと思います」

「しゃあ! やる気出た! 超出た! バリバリ働くよ! 良かったらウチに遊びに来てね! サービスするから!」


 先ほどまでの気だるげな様子を微塵も見せず、せがれは治療所から走り去った。

 怠けたがりのお調子者ではあるが、口にしたことはちゃんとこなすやつだ。きっとこれから全力で働くのだろう。張りきりが空回りして大失敗する様が目に浮かぶ。

 そんなことを考えるうちに青年の額の青筋は消えていた。

 ……まあ、悪いやつじゃないからな。話しかけたのだって自分が最後の怪我人だったからだろうし。調子に乗っているように見えて最悪の一線は越えなかったし。


「あんたたちも! いつまでもジロジロ見てんじゃないよ」


 なんて偉そうなことを考えていたら青年の頭にもゲンコツが落ちた。


「……ひでぇよおばちゃん、これでも怪我人だぜ?」

「ならさっさと帰って養生してな」

「はいはい、おとなしく帰りますよー」


 などと言いながらも視線は手土産に渡された果物をかじる詩穂に向けられている。


「ねえおばちゃん。シホちゃんていい子ですよね」

「なんだい急に。……ま、働き者だし、あんたらみたいなのにも優しくできるし、いい子だよ」

「騙されてなんて、いませんよね」

「あったりまえだよ。あんなくだらない噂を信じてるのかい。バカだね」

「だって、みんな言ってるし」


 ここ最近、流れている噂がある。

 アルスティア姫が勇者召喚に成功したが、そのうち一人が魔力も持たないハズレであったこと。

 そのハズレが女給たちを虐待し、一部の人々を騙して好き勝手している、と。

 詩穂の名前も、騙されているという人々の中にあった。

 それを聞いて「ハズレの勇者許すまじ」と気炎を上げる連中までいる始末だ。


「みんなが言ってればなんでも正しいのかい? 怪我人の治療法ってのは怪我人ごとに変わるんだ。シホは自分でそれを考えて、正しい道筋を選べてる。頭のいい子だよ。簡単に騙されたりなんかするもんか」

「おばちゃんの言うとおりだな。ほれ行くぞ、頑張って働いてケガしねえと、また会いに来れねえぞ」

「いってえ! 背中叩くな! 言われなくても明日になったらまた働くよ! 見てろ、次はおれの方が立派な果物採ってくるからな!」

「いや、狩りをしろよ」


 会話の内容は聞こえてないはずだが、言い合う三人を横目に見た詩穂は小さく笑っていた。


◆◆◆


日野祀子・ダイム


 祀子は机に向かって本を読んでいた。

 部屋には無数の本が山と積まれており、微妙なバランスを保っている。

 ページをめくる音と、ときたまペンを走らせる音しかしない。静寂の世界。

 そんな部屋に、ノックの音が響いた。


「どうぞ、ダイム先生」


 振り向きもせず祀子が言うと、部屋の片隅にあった椅子が浮いて机のそばに置かれた。

 初めはもっと丁寧な対応をされていたが、ダイムは意欲溢れる教え子の学習時間を削ることはしない。最低限な対応でいいと言うとこのような形になった。

 無計画な魔力の使用にも、もはや慣れたものだ。


 腰を落ち着けて祀子が疑問点をまとめたメモに目を通す。同時に前回のメモにあった疑問点についての回答を記したノートを渡す。

 メモにあった疑問点のうち、回答に時間がかからないものについてはその場で答えていった。


 ダイムにとって、祀子は非常にやりやすく、やりがいのある生徒であった。

 ほとんど一日中自発的な学習を行い、理解も早い。課題を出せばその先に進んだ質問を投げかけてくる。

 回答すればその回答に対する疑問を見つけ、投げかけてくる。ダイム自身が今まで考えたこともない切り口での解釈が帰ってくることも何度かあった。


 教えることで自らが新たなことを学習していく充足感。

 数日に一度の討論の時間も待ち遠しいと感じるほど。

 メモを使って時間を節約するのも、ダイム自身が学習する時間を確保するためでもある。


 一通り解説を終えてダイムが席を立つ。

 ありがとうございました、と一礼する祀子に、忘れかけていた伝言を伝える。


「ああ、ヒノ君。姫様より伝言です。明日の朝食の時間、話があるので出てきてほしい、とのことです」

「ええー……」


 知性と意欲に満ちていた目が気だるげに細められる。凛と伸びていた背筋も曲がり、だらしなく机に突っ伏した。


「やだなあ、面倒くさい。明日の朝、起きれるかな……」

「頑張って起きてください。行かないとあの姫様はうるさいですよ。専属の女給だっているでしょうし、起こしてもらってはいかがでしょう」

「……そうする」


 普段、部屋に食事を持ってくるだけの専属女給だが、たまには他の仕事もしてもらおう。

 そう思って、この部屋じゃあ無理かと思い直して、入口からベッドまでの道を作った。


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