32.きずあと
廊下を全力で走る。
体が思うように動かず、一歩一歩がもどかしい。全力で走ってもなかなか前に進まない。
厨房を覗く。姿はない。
部屋へ行こうと思うが場所を知らない。探知できるほど魔力が大きくない。
考えろ。今、どこにいるのか。
時間はそろそろ夕食だ。食堂か厨房にいるものだと思っていたが見当たらなかった。
では、どこにいる。
……俺の部屋か!
慌てて階段を駆け上がり、今日まで眠っていた部屋にたどり着く。
乱暴にドアを開くと、いた。
突然の騒音にびくりとしたが、こちらを見て頬を膨らませる。
「タカヒサ様、どこへ行っていたんですか!?」
探していた人物が。
俺の専属をしているメイドが。
食事が乗ったプレートをベッド横のテーブルに置き、腰に手を当て怒る少女が。
チファがいた。
―――
「もう夕食のお時間なのに部屋にいませんし、驚いたんですよ。体も完治はしていないのに。せめて完治するまでの間だけでもいいので、書置きとかしていただけると――」
「……チファ」
荒くなった呼吸を無理やり抑え込む。
チファが何事か言っているが、それどころじゃない。
「服、脱いでみろ」
「へっ!?」
俺は初めてチファに命令する。
そういえば、俺はチファの主人じゃないんだったか。
今はそんなことどうでもいいが。
「浅野に、聞いた」
チファは真っ赤になっていた顔をこわばらせる。
この反応で確信に変わった。
浅野は嘘を言っていない。
「チファが、お姫様の魔法から俺をかばったって」
表情だけでなく、チファの全身が固まった。見るからに慌てた表情をする。
浅野が俺に尋ねたこと。
それは予想もしていない内容だった。
『あの、あんたをかばって怪我した女の子。元気になった?』
意味が分からなかった。
いったい何のことを言っているんだと問い返すと、お姫様の魔法の追撃から俺を守った女の子がいたという。
小柄で、見た目小学生くらいの、エプロンが縫い込まれた服を着た女の子。
この世界で。俺の知っている中で。そんな背格好の人物は一人しかいない。
浅野は「ちっこい男の子たちがあんたたちを回収して」と言っていた。
回収されたのが俺一人なら、あんたたちにはならないはずだ。
「怪我、大丈夫なのか。ちゃんと治ったのか」
「だ、大丈夫ですよ。サカガミ様の魔法で治していただきましたから」
「信用できない。本当なら証拠を見せてくれ」
俺に伝わらないようにしていた時点でかなり黒に近いグレー。
余計な心配をかけないように、と考えたのかもしれないが、それならさっさと言ってしまえばよかったのだ。
怪我をしたこと自体を隠していたとなれば余計に怪しい。こうして怪しむことこそ余計な心配だ。
大丈夫だというチファの言葉を信じるか信じないか。それは簡単に決められる。
怪我が治ったというなら。怪我をした場所を見て治っていることを確認すればいい。
目に見える根拠がある。それほどわかりやすいことはない。
じっとチファの顔を見ていると、やがて観念したのか。チファが小さく溜め息をついた。
「……分かりました。でも、あんまりじっと見ないでくださいね。恥ずかしいですから」
するりと解かれる服。エプロンが、スカートが床に落ちて、チファは下着だけの姿になった。
胸をかばうように隠しているが、大して意味はない。腕が細いせいで大した面積を隠せていないのだ。
華奢な全身がさらされる。全身が羞恥にほんのり朱く染まっている。
強く握れば折れてしまいそうな手足。ほとんどふくらみもなく、うっすらと肋骨が浮かぶ胸。全体的に幼く未熟で貧相だが、どこか危うく脆い魅力がある。
しかし。たとえどれほどの魅力があっても見惚れることはない。
か細い四肢も、小さな背中も。余分な脂肪が見当たらない腰も。
痣と傷跡が痛々しく刻まれていた。
裂傷があったであろう部分には新しい肌が出来ていたが、肌の色が違う上にひきつっているので、傷があったとわかってしまう。
体のあちこちに斑点のような赤黒い痣が残っている。
確かに傷は治っているのかもしれないが。
ありありと、どこにどのような傷を負ったのか想像できる。
「見た目は痛そうにみえるかもしれませんが、痛くはないんです。ほんとです。幻痛が出ないように少しずつ治しているので、見た目が治るのはしばらく先だそうで。しばらくすれば傷跡も残りません」
「……そういう問題じゃあ、ないんだよ」
治るかどうかはもちろん大事だ。
けれど今、俺が問題にしたいのはそこじゃない。
「どうして、盾になるようなことをしたんだよ。どうしてそんな目に遭っても俺のところにいるんだよ。なんで、信じられないとか言った俺の世話を焼くんだよ……!」
本当に意味が分からない。
チファは身を挺して俺を守ってくれた。
なのに俺は信用できないとその善意に唾を吐いた。
見捨てられても文句は言えない。
俺なら唾を吐かれた瞬間から敵に寝返っていたかもしれない。
それなのにチファは。こうして今日も食事を届け、世話を焼いてくれる。
邪推しようと思えばいくらでもできる。
唾を吐かれて、寝返って、それでも優しく世話をすることで俺を依存させようとしているのかもしれない。
お姫様ならさほど使いみちがなくても懐柔しようとするかもしれない。暴言を吐き計画を台無しにしようとした俺を誰かに依存させ、操り、裏切らせることで絶望させようとするかもしれない。
困惑する俺に、チファは脱いだ服を着ながら何気ない口調で言う。
「なんででしょう。わたしにもわかりません。ただ、あんなの見ていられなくて、気が付いたら走っていました。難しいことは何にも考えていませんでした。……あ、でもシノミヤ様にひとこと言ってやろうと思いました。結局言えませんでしたけど」
あはは、と小さく笑う。
言えなかった。それはそうだろう。お姫様の氷の弾丸はものすごく痛かった。我を忘れてアドレナリンも大量放出されていたであろう俺だって結構なダメージを負ったのだ。
防御魔法も使えず、鎧もない。それどころか脂肪という天然の緩衝剤すら持たないチファがあれを食らってまともに話せたとは思えない。あの傷跡を見れば無事で済まなかったことはわかる。
チファにだって割り込むことが危険だと分からなかったはずがない。どの場面からだろうが、あの公開私刑を見たのなら分かって当然だ。
なのにさしたる理由もなく。自分の身を危険にさらしてまで飛び込むなんて。
「理由をつけるなら……そうですね。タカヒサ様は言ってくれたじゃないですか」
困惑する俺に、チファは微笑みかけた。
「一緒に頑張ってみようって」
――やっぱり俺は、間違えた。
あの時、あんな言葉を言うべきではなかった。
「そんな言葉のために……!」
チファは傷つき、痛み、苦しんだだろう。
なのに笑うのだ。
俺のために。
俺のせいで。
「そんな、じゃないです」
はっとなって見返すと、チファが毅然としてこちらに向き直っていた。
「わたしは、みそっかすです。今もまだみそっかすのまま。だけどタカヒサ様は一緒に頑張ろうって言ってくれました。嬉しかった。心の底から嬉しかった」
目を逸らさず。まっすぐに。
穏やかな調子で、懸命に。
「タカヒサ様は自分がハズレの勇者だって言いましたけど、わたしには違います。ハズレだって言われて、それでもがんばるタカヒサ様と一緒に頑張れる。わたしは『そんな言葉』が何より欲しくて、どんな言葉より嬉しかったんです。だから、タカヒサ様でもそんなだなんて言わないでください」
強い言葉だった。
打ちのめすような強さじゃない。
こちらの胸に灯りを点すような強さ。
どくん、と心臓が脈打つ音が聞こえる。
どくんどくん。全身を回る熱を感じる。
どくん、どくん、どくん。胸に点された熱が血液に溶けて全身に伝わる。
俺は何も言えなくなって、黙ってチファの横を通り過ぎる。
「タカヒサ様……?」
チファが持ってきてくれた夕食を見る。
いつものパンに、琥珀色のスープ。ドレッシングがかけられたサラダと綺麗にカットされた果物。
パンに食いつきスープで流し、野菜と果物を一気に食べる。
幸い、スープ以外に熱いものはなかった。火傷することもなく、数分で食べ終えた。
我ながら申し訳ない食べ方だ。せっかく丹精込めて作ってくれたのに、まるで飲み下すように食べてしまった。
「悪い、チファ」
一気に食べたせいで胃が重い。
けれど。さっきまでに比べればよほど体が軽かった。
「あと一晩で整理を付ける。もうちょい待ってて」
そう言って空になったプレートを渡す。
「はい。わかりました。また明日も朝食をお持ちしますね」
「頼む」
チファはプレートを受け取り、微笑みながら退室した。




