閑話。この世界の甘味事情
「というわけでジアさん、これと同じ、あるいはよく似た食べ物に覚えはないですか」
こちらに来てからさらに数日が経った。
問題はいろいろある。
この世界は弱肉強食だ。文字通り、物理的に。
なにせ、弱い人間が安全地帯から出れば、たちまち魔物や野生動物に捕食される。
現代日本と違い、弱い人間はただの肉にしかなれない。
俺には金も魔力も剣技の才能もないから自立は難しいし、この世界で使えそうな知識もあまりない。
異世界で役立つ知識の筆頭といったら産業革命、農地改革のような内政チート系だろう。
残念なことに俺はその手の知識に疎い。せいぜい日本史で習った農業知識がある程度。産業革命だのは大体の年代は覚えているが詳しい内容は覚えていない。蒸気機関の存在など、知ってはいるが詳しい仕組みは覚えていない。
知識を披露してちやほやされるルートは閉ざされた。ていうかそういう知識なら俺の完全上位互換・日野さんがいるから交渉のカードとして使うには弱い。
可及的速やかに自立できるだけの力がほしいが、チートできる要素がない。
むしろこの世界の基礎知識すらまだ足りない。幸い読み書きはできるので少しずつ学んでいくとしよう。
戦える力もほしいが、それも一朝一夕で身に付くものではなし。
焦っても仕方がない。
俺が真っ先に向き合わなければいけないのは、もっと緊急性の高い要件だ。
―――
たまたま廊下でジアさんに出くわした。
魔力感知を身に着けて初めて気付いた魔力の大きさにビビりながらも声をかけた。
戦闘メイドは実在するのかもしれない。さすが異世界。
ジアさんを捕まえて、とあるものを見せつける。
黒くて四角い謎物質を前に彼女は怪訝な顔をしている。
もっと言うと警戒している。毒ではないと言うに。
「……ムラヤマ様、これはなんですか?」
「チョコレートです」
そう、とあるものとは俺がこちらに持ち込んでいた十円チョコのひとつである。
もっともベーシックな、普通のミルクチョコだ。
「……ちょこれえととは、なんなのでしょうか」
「お菓子です。甘くてとろける、食べると幸せになるものです」
ジアさんは眉を寄せてチョコレートをいろいろな角度から眺めている。上から、右から、左から。食べ物だと聞いても半信半疑なようだ。
やっぱり黒い物を口にするのは抵抗があるのだろうか。醤油も海外の人には不気味に見える、みたいな話を聞いた覚えがある。
警戒心を丸出しにして指先でチョコを突っついている姿は微笑ましい。
だがチョコレート様に、偉大なる甘味様に向かってあんまり失礼な態度をとるべきではない。
「よかったら匂いを嗅いでみてください」
「……匂い、ですか」
促すとこわごわとではあるが素直に鼻を近づける。
「……甘い香りがします」
「甘いお菓子ですから」
「……本当に、食べられるんですか?」
「もちろんです」
ジアさんに見せているものと同じプレーンチョコの包装をささっとはがして口に入れる。
甘い。口の中でほどけ、カカオの香ばしい香りと共に幸せな味わいがいっぱいに広がる。
十円とはいえ立派な甘味。口の中が幸せだ。
「……そうですか、本当に食べ物なんですね? 信じましたからね? 嘘だったらひどいですよ? ……えいっ」
俺の表情を見て毒ではないと認識してくれたのか、いやに肩ひじ張った様子でチョコレートを口に入れた。
きつく目を閉じて口をもごもごさせる姿は、苦い薬を飲んだ子供を思わせる。
チョコレートが舌の上で溶けてきたのか、ジアさんは薄目を開ける。
ほんの少し口を開けて、口の周りを手で覆う。どうやら匂いを確かめたらしい。
こすっ、と噛み砕いた音がした。
同時にジアさんは目をまんまるにして、表情を幼げに輝かせた。
無言でチョコレートを口の中で転がしている。どうやらおいしかったようだ。
やはり、甘味の力は偉大だ。
「ほぅ……」
しばらく一心不乱に味わったのち、ジアさんは恍惚とした表情で息をついた。口の中に残った香りに反応して鼻がひくついてるのを見逃したりしない。
余韻に浸る姿が妙に色っぽくてガン見していたら意識が戻ったジアさんに睨まれた。
美人さんのひと睨みは迫力が三倍増しになるけれど、頬を染めながらではまったく怖くない。
にっこりわざとらしく笑ってみせるとジアさんはバツが悪そうにそっぽを向いた。
「ええと、答えを承知で聞きますが、こんな食べ物知ってます? 話に聞いたことがあるってくらいでもいいんですけど」
「……見たことも、聞いたこともありません。口の中で甘みが広がっていく菓子なら飴がありますが、こんな、口の中でとろける甘露、今まで知りもしませんでした……! これは、どのようにして作られたものなのですか?」
「カカオって木の実から作られるものなんですけれど、カカオって名前に覚えは?」
「ありません……!」
なにやらえらく悔しそうな顔をするジアさん。量産しようと思ったのだろうか。
できるものなら俺も協力は惜しまないが。むしろ俺が主導で行う勢いだが。
そう、今もっとも緊急性の高い要件。それは地球産の甘味の確保である。
体は砂糖でできている。血潮はチョコで、心はアンコ。
そんな俺にとって糖分の有無は死活問題だ。
ただ甘ければいいというものでもない。おいしい糖分でなければ精神的な栄養になってくれない。
もちろんこちらの甘味を悪く言うつもりはない。まだほとんど食べていないのだから文句のつけようがないのだが。
それとは別問題として食べなれた甘味を確保したいと思うのは自然なことだろう。
いくら持ち込みがそれなりにあるとは言っても制服のあちこちに隠しておける程度の量。そう長くは保たない。消費期限的な意味でも。開封済みのやつは特に。チョコレートなんかは知らぬ間に溶けてしまう可能性だってある。
もしもこちらにチョコレートなどがあれば憂いはなかった。
日々の疲れを癒すためにためらうことなく消費できた。
だが、駄菓子菓子。こちらにはチョコレートはないという!
なんという悲劇。これではいつ貧血になってしまうか知れない!
飴はあるらしいから、果物と合わせて糖分を補充できなくなるわけではない。
とはいえ無ければ食べたくなるのが人情。限られたチョコレートを、どうにか日本に帰るまで保たせたいところだ。
「……そうですか。お時間をとらせました。すみません…………」
気が重いが、チョコレートが貴重ということが分かっただけでよしとしよう。二粒余計に消費してしまったと考えてはいけない。
「今のは、異世界のお菓子なのですよね」
立ち去ろうと踵を返した俺の背中に声がかけられる。
振り返るとジアさんの表情はさっきまでの緩みきったものではなくなっていた。
深遠な命題に思いを馳せる賢者のそれだ。
「どうにか、こちらで作れないものでしょうか」
「作れますかね?」
「おそらく相当に難しいでしょう。原料や製法がわかっていても、素材がこの世界にあるかわかりませんし、代用品があったとしてもあなたの世界の製法がそのまま使えるとも限りません」
やはり、無理なのか。
仕方ないことだ。そもそもこちらと地球では生態系が全く異なっている可能性が高い。『世界の甘味大全~チョコレート編~』には製法も載っているので、カカオさえどうにかなれば不可能ではないかとも思ったんだが……
そう諦めかけた俺に、力強い声がかけられた。
「ですが、気弱になってはいけません。大事なのは作れるかどうかではありません。作ると心に決めることです。……作りましょう、わたくしたちで。必ず」
食べたいという欲望は時に不可能を可能にする。
うなだれる俺にジアさんの手が差し伸べられる。
俺は、その手を――
「……というわけで、研究の資料をもすこしください」
取ろうとして、その手が握手ではなくおねだりだということに気付いた。
ジアさんは赤い顔で、視線を逸らしている。
「食いたかったら自分で作ってください!」
「ああっ!」
差し出された手にチョコレートの包み紙を押し付けて、俺は城の廊下を駆け抜けた。