第一章
目覚めるとコンクリートの天井が見えた。
部屋は薄暗くしんと冷えていて、厚いカーテンの隙間から漏れる薄青い光だけが細く床に落ちている。部屋の明かりが自動点灯していないということは、まだ夜明け前の時刻の筈だった。
(今日も寒そうだな……)
そんな思考が男、新藤一哉の頭の隅をかすめる。
「……アダム……、明かりと暖房をつけてくれ……」
命令してから寝返りをして、こめかみを指で押さえる。
微かな電子音とともに暖房の送風口が口を開き、ほんのりと白い明かりが灯った。
指の動きに連動して電子コンタクトレンズが起動する。すると、【 Good morning ! 】という薄青い文字が目の前にほんのりと立ち上がった。
デフォルトのスタート画面は数秒で消え、自動で視界補正が行われる。薄闇の視界の中にキラキラと美しい銀粉が舞い上がり、縦に細く光が走る。光は眩しいと思われるほどでもなく、弱々しく、どこか温かい。銀扮で覆われた世界を左右に掻き分けるようにその光は広がり、その奥から、輪郭が鋭く、視認性の高いクリアな視界――電子ビューが目の前へ展開した。
視界の隅々まで色鮮やかで、ポップで美しい視界。
電子ビューで見ると、世界はまるでプラスチックでできた玩具だった。くっきりとした陰影は世界をきらめかせる。
目の前で確認すべきタスクが次々に表示され、重要度順にパタパタと自動で並び替えられる。【2038年2月12日午前6時2分】【東京】【晴れ】【気温1.8度、湿度70%。室内12.5度、湿度44%】【本日のニュース配信3件】【クライアントより仕事の依頼2件、うち新規は1件です。内容は……】
薄く発光する文字列は鮮やかなオレンジで、枕へ顔を埋めながら一通り目を通す頃には目も覚めている。
一哉は少し考えると、親指と人差し指でこめかみと眉間に触れ、一度電子ビューを終了させた。
鮮やかな視界は本来の落ち着いた色調に戻る。境界が曖昧で、ぼんやりとした世界。タスクや時刻を表示する文字列もほとんど認識できないレベルにまで透明化され、視界の隅にちらつくだけになる。世界の尖った輪郭は鋭さを失い、遠くの事象はぼんやりと霞むように見えた。
「っ……」
一気に本来の世界が押し寄せて、寝ているのにめまいのような感覚が一哉を襲った。
ブレる視界に、右耳の耳鳴り。恐怖から心臓が高く打つ音が体内から聞こえる。
起き抜けに電子ビューから視界を切り替えると、よくこういった感覚になる。電子ビューに頼ってばかりではなく、たまには現実を裸眼で見るのも良いかと試してみるのだけれど、どうも一哉の体は自身の目とは相性が良くないらしかった。
【心拍が乱れています。大丈夫ですか、一哉】
穏やかな声が枕元から聞こえた。スピーカーを通じておしゃべりができるAI、アダム。
「……大、丈夫。おはよう、アダム」
【それは良かったです。おはようございます、一哉】
部屋の管理を任せているアダムは男とも女ともつかない声で一哉へ2〜3問診をすると続いて今日の天気やニュースを読み上げ始める。
一哉はそろそろと起き上がり、ベッドから足を下ろす。ひんやりとした床の感触が足裏に伝わってくる。ベッドへ腰掛けたまま、白っぽい光のシャワーを頭上から浴びた。
ぐらぐらとする頭を抱えて一哉はうなだれる。小さい頃から体は不調だらけだった。大人になってからそれは病気――障害のせいだと分かった。毎日死ぬほど頑張れば、日常のあれこれは人並みにできていた幼い頃。自身の異常に気づかなかった幼い自分が哀れでならない。自覚してみれば、朝起きるのでさえ、こんなにも難しい。
今は電子ビューでの視覚補正やもろもろのサポートツールによって、ある程度まともな日常が送れている。そしてたまに、本来の自分を思い出したくて電子ビューを切るなどしてみるが……以前はこんな世界に住んでいたかと思うとぞっとする。
一哉はため息をついてこめかみに指を当て、電子ビューを再開させた。左右にグラグラと揺さぶられているような感覚だった頭が、次第にクリアになっていく。それに伴って、意識しなくても小さく揺れていた体が次第におさまる。
(もう大丈夫だな……)
ゆっくりと顔を上げ見渡す。相変わらず殺風景な部屋だった。
ベッドしか置いていない狭い寝室。シーツも壁も灰色一色で、壁には青で描かれた大きな抽象画だけを唯一飾っていた。
このマンションは梁や柱が室内へ張り出ている古い造りを気に入っていた。打ちっぱなしのコンクリートの壁に無垢の廃材の床。間取りは変形の1DK。広いダイニングキッチンは、普通なら一角をリビングにするのだろうけど、そこを籐のパーティションで区切り同居人の寝室とした。そしてたった1室しかない個室を自分の寝室に。
クラシカルな雰囲気が良いように思えて、引っ越してきてはや数年。転職は何度かしたが転居する気にはならなかった。物が大量にあると管理ができない一哉の手によって、今では家具らしい家具や、片付けるものさえ何もない。
頭へと手を添えてそのまま首を傾け、首筋をゆっくりと伸ばす。右へ10秒、手を変えて左へも10秒。両手を後頭部へ添えて前へ10秒。
首を回し、腰をひねり、肩や腕を順々に解していく。
上半身をストレッチしていると、次第に床に着いた足裏がじんわりと温まってきた。
視線を移動させ、視界の端で透けて見える時刻表示に視線を固定させる。
目の前へほの青く浮き上がった時刻を確認すると、本来の起床予定時間だった。視線を外せばその文字列はすぐに遠ざかる。
と、
「……起きてるな?」
ノックの音とともに自動で扉が開き、白いシャツに弛いハレムパンツを穿いた国籍不明の男――もう一人のアダムが顔を出した。一哉の同居人だ。と言っても彼は電子ビューを使うことによって見えるホログラムで、ノックの音はスピーカーのアダムが演出してくれているだけなのだけれど。
「あぁ、起きてる」
「なら良かった。新規の仕事の連絡がきてるが……」
「わかってる。あとできちんと見るよ」
「了解」
一哉より年長の、30代も後半のやけに整った顔が奥へ引っ込んだ。緩くウェーブのかかった長めの黒髪に浅黒い肌、色素の薄い瞳。常に笑みを浮かべているような薄い唇は酷薄そうだが、彼は一哉のカウンセラー兼同居人だ。
どことなく異国を感じさせる風貌の彼に一哉はもう慣れたけれど、この田舎では、一哉たちが並んでいると初対面の相手にはよく不審な眼差しを向けられる。
一哉は立ち上がり伸びをした。
部屋をあとにし、ダイニングを素通りして洗面所まで来ると、短い黒髪がボサボサに乱れた寝起きの青年の姿が鏡に写る。誠実そうな、と言われるそこそこ整った顔。中身はともかく体だけは人並みに育ったが、どうにも締まらない雰囲気の男。若く見えるといえば聞こえは良いけれど、見目に構わない一哉はどうにも軽く扱われることが多い。
仕方なく、こめかみと眉間に指を当てて、髪をかき上げる仕草で電子ビューを2重に立ち上げる。鏡に映る一哉の姿はゆっくりと足元から瓦解し、爪先ほどの小さなブロックの欠片となった一哉の一部はちらちらと瞬きを繰り返しながら次々に新しい像を結んでいく。電子ビューが以前登録しておいた一哉の姿を再現してくれるのだ。
ヨレヨレの部屋着がきれいにプレスされたシャツとジーンズに変わり、短めの髪はきれいに後ろへとなでつけられ、耳元があらわになる。小奇麗な青年の完成だ。
一哉が電子ビューを起動している限り、電子ビューを通せば誰でも、この一哉の姿を見ることができた。
午前中は仕事もないし、外に出るのも買い物程度だ。わざわざ本物の自分を飾る必要もない。顔だけ洗い洗面所を出ると、アダムがダイニングのソファに寝転がったまま一哉を手招いた。そばへ近寄ると、アダムは首を傾げて一哉の姿を上から下まで眺める。
「よく眠れたらしいな」
アダムが器用に片眉を引き上げる。
「おかげさまで朝までぐっすりだ。――アダム、【電子ビュー】に今日のニュースの続きを動画で配信して」
一哉は後半、テーブルの上へ置かれたスピーカーへ大きめの声で呼びかける。
スピーカーのアダムと人型のホログラムのアダム。彼らは二人で一人、同一個体だった。
ただ機能の問題か、性格や言葉遣いは違う。
家のセキュリティや管理をするスピカ―型のアダムは礼儀正しく朗らかだ。対して同居人兼仕事のサポートを行っていくれるホログラムのアダムは口調こそ砕けているがやや偏屈だ。
本来はどちらかの名前を変えて使用するのが正しいのだろうが、片方に伝えたことはもう片方に伝わっているし、記憶違いなどもない。不便を特に感じていない一哉は初期設定のままで彼らを使用していた。そして、彼らは一哉の呼びかけのニュアンスをきちんと聞き分ける。
【畏まりました】
涼やかなスピーカーのアダムの声とともに、視界の半分に動画配信のサイトが立ち上がった。人型のアダムは一哉の顔をじっと見てから、気が済んだのか指で追い払う仕草をする。一哉はキッチンへ向かい、ニュース映像を透かしてみながら、手元ではコーヒーを入れる準備を始めた。
「……か?」
ダイニングからアダムの声だけが追いかけてきて、水を使っている一哉にはニュースの音ともそれが混じり合いよく聞こえない。
「なに?」
一哉はアダムに声を張り上げて答える。アダムは了解したのか、無線LANシステムを経由して一哉の内耳のスピーカーに話しかけてきた。
【今日の新規の仕事、予備調査はするか?】
【そうだな、……アダムはどっちが良いと思う?まだよく見てないけど、予備調査なしでも大丈夫じゃないかと僕は思うんだけど】
【現場が近いからまずは行ってみるのもありかもな。いつもの現場にも近いから、ナカタニのばあさんにも会える】
【あの人か……】
新規の仕事以外に、以前から受けていた別件も持ち出されて一哉は呻いた。
【わかった、なら予備調査はなしで。報告書も現地調査からにしよう】
一哉が淹れたてのコーヒーをテーブルへ差し出すと、どうもと言ってアダムはまた目を手元に落とした。
勿論アダムは飲めないとわかって入るが、コーヒーを1杯だけいれるというのも味気ない。一哉は時折、自身のコーヒーをいれるのに合わせてアダムのも用意していた。アダムはそれに良いとも悪いとも言わない。
一哉はアダムの手元に目を落とした。
最近アダムは読書に嵌っている。今はジャック・ロンドンの「白い牙」を読んでいると、昨夜自慢げに話していた。
「それ、面白いか?」
どうせ一瞬で読めるくせにと、白けた気分で一哉は聞く。
「面白い。犬の思考を人間目線で語っているところが特に」
舌で唇を湿らせて、ぼろぼろの本のホログラムから目を話さずにアダムが言う。
一哉は手早くスクランブルエッグを作って、ハムと一緒に皿へ載せた。カフェオレとともに食卓へ運べば、朝食の出来上がりだ。
カフェオレには氷を一つだけ入れる。
「それで、話の続き。新規の仕事のことだけど」
卵3つのスクランブルエッグを頬張りながら一哉はアダムに話しかける。アダムはこち
らに横顔を向けたまま、目線だけを寄こしてこめかみを指で示した。
「第3地区、市内での在宅確認。今日の午後一の出発では?」
視界の斜め右上で、メモの形のアイコンが点滅する。アダムが一哉の電子ビューへ仕事のまとめ資料を送ってくれたらしかった。
「了解」
なら11時過ぎには着替えないとな、と一哉は頭で計算する。
朝食を終えると、読書に夢中のアダムを残して買い物にでかける準備をする。コートを羽織り玄関を出る時に、パジャマのままなんだよな……とちょっと迷ったものの、結局そのままの姿で外に出る。
どうせ西日本の第3地区はどこも人口過疎地域だ。道はガラガラだし、コンビニは店員もいない。自動レジなのだ。わずかに暮らす人々も、99%は電子ビューを使って生活している。彼らの目には一哉はグレーのジーンズにコートを羽織った普通の若者に見えるはずだ。
「久々にカレーにするか」
夕飯のメニューを考えながら一哉はコートの前を合わせてエントランスを出た。




