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幕間

 いつのことだったか、昔読んだ物語に星空のことが書かれていたのを、ふと思い出すことがある。

 それは母親が外界の探索から持ち帰った旧文明の本で、彼女の部屋に大切に仕舞われていたものだった。

 挿絵もない二、三行の短い描写で、どんな場面だったかも、誰が主人公だったかももう覚えていない。しかしその一文だけは今になっても、文字の端にほんの少し滲んだインクの形すらも鮮明に思い出せるほど、記憶に焼き付いていた。


 幼い自分が読めたくらいの本だったのだから、きっと子供向けだったのだろう。なぜ母が限られた荷物の容量を圧迫させてまで、その本を持ち帰ってきたのかはわからない。だがそんなことはどうでもいいことだった。

 誰かに聞かせるような話でもない。口に出して語る必要が、書き記す機会が、今後訪れなくても困らない、その程度のくだらない思い出話。

 ただその星空を、世界でいちばんきれいだと思った。

 それだけの話。


〇〇〇


 なだらかな曲線を描くシェルターの天井は、半円球型の構造を感じさせないほど地上から遠くに位置し、そのまま視界の先で霞んでしまいそうではあった。

 点々と光を放つ星々。

 実際その星たちが時刻に合わせて日中は白々と明るみ、夜は仄かな光を湛えるよう、人の手によって光度が調整されているのだと知るまでは、彼女にとって人工の穹窿こそが星空であったことには違いない。

 そしてその事実を知ったからといって、なにか特別感慨を覚えることもなく、「そういうものなのだ」と単に常識の一つが置き換わっただけに過ぎなかった。


 どちらかといえば、シェルターから出れば本物の空が見えるだろうと、これまで頭の隅に抱いていた幻想が裏切られたことに対する落胆の方がより大きい。

 実際にシェルターの出入り口から外界を望んでみれば、霧に覆われた世界では地上も空も等しく翠色であり、ただ濃淡の変化があるのみだった。当然、太陽や雲と呼ばれるような、いわゆる「空」というものを構成する要素のひとつすら、見つけることは叶わなかった。


(別にいいんだけどね。大して期待してなかったし)


 運動場の真ん中で仰向けに寝転びながら、エフリエッタはひとり、言い訳がましくつぶやいた。

 一回目の野外訓練で罰として与えられた早朝の走り込みは、もはや日課になりつつある――すでにケラレクから指定された期間は過ぎていたが、そのあともこうして明け方に宿舎を抜け出し、自主的に体力づくりに励んでいた。

 

(シャワー浴びて、ご飯食べて、それから……今日はエーテル工学と人類史学。レポートは昨日頑張ったし、午後からは……ドクターの診察だっけ)


 シェルター内部を常に循環し続ける空気は、そよ風となり汗ばんだ額を撫でていく。シャツの裾でぱたぱたと体を仰いで呼吸を落ち着けると、多少周りに目を向ける余裕が戻ってくる。

 今の自分は誰の目からも、勤勉で真面目な探索者見習いとして映っていることだろう。もっとも、こんな明け方にわざわざ暑苦しいトレーニングを見学にくる暇人もいないのだろうが。


 少しくらい素肌が見えたところで、辺りはまだ薄暗く、エフリエッタ以外に人影はない。だらしない姿勢で休憩していても誰からも見咎められることもなく、無心で、あるいは考えごとに集中できるこの時間を、案外彼女は気に入っていた。

 が、


(サラは……まだ寝てるよね)


 相部屋の住人のことを考えれば、心は気鬱に沈んでいく。野外訓練の一件から二週間が経とうとしているが、未だにサラとは冷戦状態――彼女からの一方的な交流断絶状態だが――が続いており、口をきくにしても事務的で、必要最低限のやりとりで会話が終わる。


 謝罪した結果がこれだった。

 「あの時はごめん」という言葉に対して、サラは目を合わせることもなく「うん」とつぶやいただけだった。

 少しは前進したが、関係が大きく改善されたわけでもない。


 死に直面した恐怖がは必ずしも乗り越えられるものではないという。今はただ時間が解決してくれるのを待つしかないと、周りからはそう言われた。

 だが、それが却って心苦しさを加速させる。以前のように、美味しいお菓子のことや、訓練の愚痴といった他愛のない話ができるようになりたいのに、そこまで踏み込むことができないのは、エフリエッタにとってはもどかしい問題だった。


 自分の軽率さが彼女の命を危険に晒したのだから、それについて文句が言える立場ではないことはちゃんと理解している。だが、そんな状態の二人が同じ部屋で過ごすとあっては、そのうちエフリエッタの方が参ってしまうかもしれない。

 つまり、エフリエッタが自主訓練を続けているのは、朝の準備の時間をサラとずらし、彼女と顔を合わせる時間を少しでも減らそうという思惑もあった。


(朝まで、もうちょっと時間あるかな)


 時計がなくとも、照明の変化で時間の移ろいは知れる。明るくなってから戻れば、サラは支度を終え部屋を後にしているだろう。ともかく、体力づくりと時間つぶしの両方を兼ねて、エフリエッタはもう少しだけトレーニングを続けるつもりでいた。

 息を吸って、大きく吐く。


「よしっ、あと一周」


 そのままの勢いで、上体を起こした。

 と、


「うわっ、びっくりした!」

「えっ!?」


 突然背後で上がった悲鳴に、エフリエッタも素っ頓狂な声を上げて振り向いた。


 考えごとに没頭している間に、誰かが接近していたらしい。忍び寄ったわけではあるまい。相手もまさか、こんな時間に地面に寝転がっている者がいるとは思わなかったのだろう。

 エフリエッタにとっても不意打ちであったが、相手からしてみれば、地面から突然人間の上半身が生えてきたようなものであろうか。驚かれた、だけで済んだのは幸いだったかもしれない。


 目を凝らすほどの暗がりではない。そして、なんのこともない。振り向いた先にいたのはよく見知った顔だった。


「……なんだ、ヤグか。なにしてんの、こんな時間に」

「エフリエッタ? お前こそ、なんでそんなところで寝てるんだ。驚かすんじゃねーよ、バカ、アホ。もじゃもじゃ頭のくせに」

「トレーニングだよ、トレーニング。っていうかさぁ、そのもじゃもじゃって呼び方やめてよね。結構気にしてるんだから。あんただってこのあいだ、男のくせにエフリエッタより背が低いヤグ、なんて言われて傷ついてたじゃない」

「うるせーブス」

「ころす」


 ポンコツトリオ、三馬鹿。それぞれの家が近く、兄弟のように育ったヤグとジルラーとドィ。三人の中でリーダーを務めているのが――本人がそう言い張っているだけだが――目の前のヤグという少年である。

 彼とは同じ歳だが、向こうのほうがエフリエッタよりも二ヶ月誕生日が早いせいか、それを引き合いに昔から何かと突っかかってくる――要はまだ年齢に精神が追いついていない子供なのだと、エフリエッタはサラとよく話していた。


 短く切り揃えた柔らかそうな栗色の髪が風に揺れている。勝ち気な瞳でエフリエッタを見下ろしていたヤグは、不意に慌てた表情で明後日の方向へ視線を逸らした。

 

「つーかお前、それどうにしかしろよ!」

「それ?」

「シャツだよ! みっ、見え……じゃなくて、なんでそんな――はだけ方してるんだよ!」

「え? ああ、ごめんごめん。暑かったからさ……ってなにあんた、いつもエラそうにしてるくせに、女の子の裸を見て照れちゃってるんだ? ふぅん」

「てめぇの裸なんか見ても嬉しくねぇよ!」

「嬉しいかどうかなんて聞いてないけど。それにほら、ブラつけてるし」

「やめろ、バカ!」


 耳まで真っ赤にして、必死に両手で目を塞ぐ彼をひとしきりからかってから立ち上がり、走り出す前の準備運動を始める。手順や作法もない適当な動作であるが、それでも気持ちは引き締まる。

 ようやく顔色を戻したヤグが額を押さえ、半目になって告げた。

 

「……まだ走るつもりか。ペナルティの期間なんてとっくに終わっただろ。それにこう言っちゃアレだけど、監視されてるわけでもないのに、走り込みなんてサボってもバレやしねーって」

「まぁ、そうなんだけど。そうなんだけどさ。わたしくらいになると、これくらい罰のうちに入らないっていうか? 勤勉で真面目で努力家のエフリエッタさんはこうして、朝の貴重で堕落的な睡眠時間を削って、自主的に訓練に励んでいるわけですよ」

「……まだサラとギスってんのかよ」

「……うるさいな」


 妙なところで鋭い。うめくエフリエッタを見据えて、彼は嘆息した。


「こうなる時は大体お前に原因があるけど、あいつもあいつで意地っ張りだからなぁ。一回拗れると長引くって分かってるんだから、さっさと謝っちまえよ」

「謝ったもん」

「エフリエッタの謝罪はなんかこう、軽いんだよ。どうせ今回も気まずくなって逃げ出してきたんだろ」

「あんたさ、デリカシーとか……あるわけないか。ヤグだもんね」

「お前、そういうところだぞ」


 反論を封じられたエフリエッタは、呆れたように首を振るヤグから目を逸らし、ぼんやりとした光に照らされた運動場を眺めた。照明は少しずつ明るさを増している。

 あれだけ高い位置にある照明の光量をどういう仕組みで制御しているのかと、どうでもいいことに考えを巡らせて、そしていくら考えたところで分かりようもないと思考を中断した。

 難しいことは苦手だ。座学も人の感情も。

 走り込みを続けているのは、たしかにサラと対面することを避ける一面もある。ただそれがまったくの無駄になるわけではないとも思っていた。

 

「別に、サラのことだけじゃないよ。このあいだ初めて外界に出て、結晶生物に襲われて、色々足りてないなってわかったの。知識とか、体力とか、色々。途中からサラのこと気にする余裕なんてなくなってさ。結局ケラレク先生がいなかったら、サラもわたしも死んでたかもしれないし」

「そもそも襲われたのは、お前が写真なんか撮ろうとしたからだけどな」

「そうだけど! 今回はわたしのせいだけど……でも探索者になったら、もっと危険なことだっていっぱいあるんだよ。エリンナに足手まといなんて言われて、わたし言い返せなかった。悔しいけど、あいつに勝てなかったし。だからさ……うまく言えないけど、強くならなきゃって、そう思ったの。ヤグだって、そう思ったからここに来たんでしょ」

「……」


 ヤグは無言であったが、視界の隅で僅かに身じろいだ気配がした。それを頷いたのだろうと勝手に解釈して、エフリエッタは前を向いた。

 ヤグは何も言ってこなかった。

 ゆっくりと前に向かって走り出す。少し遅れて、足音がひとつ増えた。


 もうすぐ夜が明ける。誰かの手によって調律された夜が明けて、秩序立った朝が訪れる。

 徐々に速度を上げていく身体。乾いた地面を汗が濡らす。

 正体のはっきりしない恐怖や衝動に区切りなど存在せず、きっとこの先も末永く付きまとい続けて――そしてなんとか上手く付き合っていくことになるのだろう。

 ただ、この瞬間は心を空にして。

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