study days(4)
髪を束ね、何度か深呼吸を挟んでマスクを装着した。
視界が濁り、増幅された呼吸音が鼓動のように響く。キャニスターを接続していないだけ頭は軽いが、窮屈なことに変わりはない。
都市を循環する空気は、シェルター中央に聳え立つ巨大な浄化装置によって常に一定のエーテル濃度が保たれ、地上にいようと地下に潜ろうと通気口さえあれば人は新鮮な空気を吸っていられる。
それでも演習場に吹く風はどこか息苦しさを感じさせた。全身が分厚い防護服で覆われているせいもあるだろうが、それだけが原因ではあるまい。
エフリエッタはこっそり防護服の留め具を外すと、汗ばんだ胸元に外気を送り込んだ。
壁際に腰を下ろし、膝を抱える。同じように壁際で過ごす防護服姿の訓練生たちは、思い思いの姿勢で目の前の光景に向かって歓声を送っていた。
マスクまで装着している者は自分の他にいない。少し焦りすぎただろうか。変にやる気があると思われたかもしれないが、誰もこちらを気にした様子はなかった。顔を上げる。
歓声に混じって砂利を蹴る音がする。防護服姿の訓練生が何人も、小銃を抱えて悲鳴を上げながら、足場の悪い斜面を駆け上がっている。その先には小さな丘があり、反対側からは防護服の一部に赤い布を巻いた訓練生たちが、同じように頂上を目指して走っていた。
やがてお互いの姿がはっきりと視認できる距離に辿り着くと、玩具のような銃声が重なり、一斉に撃ち合いが始まった。
演習場では体を使った実践的な訓練が行われる。
足元は斜面やぬかるみ、岩肌といった悪路が再現され、障害物の位置も定期的に入れ替わる。野外訓練を経験した今だからこそ、外界の様子がしっかり再現されていることが理解できた。
演習場での訓練は銃のメンテナンスや防護服の取り扱い、テントの設営といった基本的なことから始まり、身を隠しながらの射撃、装備を身に着けたまま走り込みをしたり穴を掘ってみたりと、実際の外界探索を想定した技能を学ぶことができるよう設計されていた。
「足を止めるな! 結晶生物どもは木の的と違って反撃してくるぞ。命中させることだけに集中せず、視野を広く維持することを考えろ!」
ケラレクが声を張り上げる。訓練生たちから返事はなかったが、彼女の叱咤を受けて、銃撃戦は激しさを増していった。
十人の即席チーム同士での銃撃戦。ただし、模擬の。銃口から射出され、演習場に飛び交うのはエーテル結晶を材料とした光の塊などではなく、塗料をたっぷり内包した非殺傷の弾丸だった。
被弾した訓練生は防護服を塗料まみれにし、命中した箇所を押さえて退場していく。
当たれば痛い。防護服越しでも痣くらいは残る。
しかしそんなことは大した問題ではない。
(うわー最悪。ばかすか遠慮なく撃っちゃってさぁ)
退場する訓練生が増えていくたび、エフリエッタの表情は憐れみを増していった。同時に恐れも。
罰則がある。
負けたチームが、その日演習に参加した全員分の防護服を洗濯させられる決まりになっていた。
べったりついた塗料はなかなか落ちないうえに、汗の匂いと混じるととんでもない悪臭を撒き散らす。数日は鼻の奥に残り、夜は悪夢に苛まれるため、この模擬戦だけは全員が必死に取り組む。当然勝った側にペナルティは科されず、一発命中させた後も同じ相手に二発三発と続けるのが、訓練生同士での暗黙のルールとなっていた。
厳格なケラレクも、なぜかその行為だけは咎めない。度が過ぎてチームの負けに繋がるようであれば別であるが。
演習場に漂う熱気に、つんとした匂いが混じり始め、待機中の訓練生たちが次々にマスクを装着し始めた。吸気口を塞ぐものがないため、あまり意味はないのだが、そうしたくなる心理も理解できる。
洗濯にかかる手間を思い出しうめき声が漏れるが、かぶりを振って気持ちを切り替えた。
(ま、勝てばいいんだよ。うん)
模擬戦におけるエフリエッタの勝率は悪くない。射撃には自信がある。銃工の孫であり、幼い頃から銃の扱いには慣れているという自負もあった。
銃声の数が減り、声援の熱が増す。そろそろ決着が着くだろうか。
と、突然目の前に現れた人影に視界を遮られる。
「おい、もじゃもじゃ頭」
こちらを見下ろし浴びせられた悪口に、冷ややかな目線で応える。
マスクのせいで顔が隠れ、くぐもった声音であろうとも、その一言で正体は知れた。
「ごめん。ヤグ、今忙しい」
「どこがだよ!」
素っ気なく返すと、彼は前のめり気味に排気バルブから風切り音を鳴らした。
なにかとエフリエッタに突っかかってくる三馬鹿のなかでも、特にその頻度が高い馬鹿がヤグだった。年齢が同じということもあり対抗意識でも燃やしているのだろうが、顔を合わせるたびに癖毛をからかってくる相手に真面目に取り合う必要もない。
少し間を置いて、しっしと手を払う。
「わかんないかなぁ。わたし、キリアの応援してたの。あんたがそこに立ってたら見えない。ほら、どいてどいて」
「えっ、あ、あぁ、わりぃ」
剣呑に告げると、彼は素直にその場から引いた。そのままエフリエッタの隣に腰を下ろす。
「……ドィとジルラーは? 一緒じゃないの」
「あいつらはさっき試合が終わったとこだ。無事、洗濯当番に任命だとよ」
ヤグはマスクの奥でにやりと目を細めてみせた。そのまま続ける。
「お前こそ、最近サラとつるんでねぇじゃん」
「別にぃ。あんたに関係ないでしょ」
声を低くして返す。大して興味もなかったのか、彼は「ふぅん」と呟くと、これから本題に入ると言わんばかりに顔を寄せてきた。
「お前、俺と同じチームらしいぞ」
「あっそ。足引っ張んないでよ」
「そっちこそ。俺は洗濯当番なんて二度とごめんだからな。だから、つまり、作戦を立てるぞ」
「作戦?」
いよいよ生き残りの少なくなった模擬戦から視線を外し、得意げに鼻を鳴らしたヤグに向き直る。案外近くにあった彼の顔にぎょっとして、エフリエッタは体ひとつ分だけ横にずれた。
なぜか一瞬眉を歪ませたヤグは数呼吸の間を置いて、わざとらしく咳払いを挟む。
気を取り直すようにまた顔を寄せてくると、周りに聞こえない程度の声で囁いた。
「即席チームである以上、相手も連携なんて取れやしない。だから俺たち二人で裏をかくんだ」
「……なにそれ。どうやるつもり」
「俺がお前を狙ってきた奴を撃って、お前は俺を狙ってきた奴を撃つんだ。お互いが囮になれば、俺たちの視野は倍になって、相手は意識してなかった場所から撃たれることになるだろ。これなら挟み撃ちにもできるし、最悪どっちかが生き残ればチームは勝つ。どうだ、いい考えだろ」
すでに成功を確信しているかのような口調だが、エフリエッタには別の懸念があった。
「どさくさに紛れて、あんたがわたしの防護服に絵を描きたいだけ、とか」
「信用ないな!? それに誤射なんて、そんなのお互い様だろ! そりゃあ、まぁ……お前のほうが射撃が上手いのは認めるけど……」
「…………」
皮肉を重ねようとして、口の中で丸めて呑み込んだ。
これまで散々意味のない絡まれ方をしてきたが、果たして自身まで犠牲にして嫌がらせをするほど愚か者ではないだろうと考えて。
それを否定的な態度と受け取ったのか、ヤグは神妙に目を細めて付け加えた。
「それに、向こうのチームにはあいつがいるんだよ」
「あいつって?」
「エリンナだよ! 田舎者のくせにめちゃくちゃ強いって、お前も知ってるだろ。今まであいつのいたチームは負けなしなんだよ! 頼むぜー、エフリエッタぁ。もうペイント弾の匂いは嗅ぎたくねぇんだよぉ。最近なんて飯の味がわからな」
「ヤグ」
「くなって――ん?」
「やるよ。囮作戦」
「……マジ?」
「マジ」
頷くと同時に、演習場に鋭い笛の音が鳴り響いた。ヤグの提案に耳を傾けている間に模擬戦の決着が着いたらしい。
マスクを外したキリアが――鼻をつまみながら、堂々とした歩調で戻ってくる。額に汗をかいているが、表情は涼しい。同じチームの訓練生たちが歓声とともに彼女を迎える。
対して、腕に巻いた布をてらてらと蛍光色に染めた訓練生は、マスク越しにも分かるほど悲痛な表情を浮かべており、ケラレクがそれを苦笑とともに見送っていた。
「お前たち、先に丘の頂上を押さえたまでは上出来だったが、それから先があまりにも拙劣だったな。体を全部晒したうえに立ち止まって撃つやつがあるか。その点、キリアは流石だった。お前のように全体を指揮できる者がひとりいれば、それだけで負傷者が減る。相手が人間だろうが、結晶生物だろうがそれは変わらん」
この瞬間はいつも、ケラレクの雰囲気が少し柔らかいものに変わる。事前に敗者への罰を言い渡してあるからなのか、あるいは彼女自身も洗濯を経験したことがあるのかもしれない。
ケラレクが悪態をつきながら防護服を洗っている空想に耽っていると、いつの間にか彼女の表情が普段の冷徹さを取り戻していた。
「次の組!」
エフリエッタは立ち上がり、防護服の留め具と嵌め直す。何度も経験した訓練のはずだが、マスクのベルトが皮膚に食い込む感覚は野外訓練に似た緊張を覚えさせた。
ヤグが目配せしてきたが、エフリエッタは無視して先を急ぐ。相手に勘ぐられるような行動をする意味はないだろう。
事実、視線を向けてくる者がいる。
一呼吸分の逡巡のあと、その相手に向かって大股で接近していく。
正面から向き合う。
お互いの目の色すらわかる位置。この辺りでは珍しい、真っ黒な目。
「もう降参するのか? 落ちこぼれ」
腕に巻いた布を締めながら、エリンナが鼻を鳴らす。
今すぐにでも組み伏せて殴りつけてやりたい衝動を抑えながら、エフリエッタは彼女を睨んだ。
「わたしの防護服、あんたに洗わせてあげる」
短く挑発の言葉を伝えて、踵を返す。
周囲の歓声と野次を浴びながら、エフリエッタは今までにない高揚が湧き上がってくるのを感じていた。




