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study days(3)

「君たちの知っての通り、通常、大気中のエーテルは呼吸によって体内へ流入し、血液とともに全身を循環します。脾臓、肝臓、副腎といった臓器で代謝され、生命維持のために欠かせない働きをする物質へと変換されますが」


 抑揚の乏しい口調とともに黒板に描かれる図を、ぼんやりと眺めている――

 それよりもエフリエッタの意識は、空腹の悲鳴を上げる胃袋に向いていた。少し早めに摂った朝食が物足りなかっただろうか。頭の中はすでに昼食のことでいっぱいだった。


「それらの反応を上回る量のエーテルを含んだ空気に晒され続ければ、血液中のエーテル濃度は上昇し、血管内で硬化と沈殿が起きます。そして激しい炎症と嘔吐、呼吸不全など、様々な症状と並行して、次に始まるのが侵食ですね。徐々に身体が結晶化し、やがて脳に至る。ここまでいくと治療は不可能になり……あとは結晶生物に成れ果てるか、運が良ければその前に生命活動が停止するでしょう。結晶生物とはつまり、脳、あるいは元々生物を生物たらしめていた組織のおおよそ六割以上が結晶化したもの、と先駆者たちは定義しました」


 チョークが板を叩く規則的な音に合わせて白衣の裾が揺れる。

 半円状に教壇を囲うよう配置された長机に頬をつきながら、エフリエッタは欠伸を噛み殺した。


 シェルター中央の研究区画から週替わりに招かれる学者は、そういう決まりでもあるのか、誰もが分厚い眼鏡をかけた痩せぎすの風貌をしており、淡々と専門分野について語る以外、雑談のひとつすら挟まない。

 そのせいだろうか。先週、先々週どころか、今こうして壇上に立つ男の名前すら思い出すことができなかった。

 講義の内容も、いまいち頭に入ってこない。それは決してエフリエッタが不真面目だからという理由だけではないだろう。


 頬杖をついたままちらりと隣を盗み見る。

 キリアと、その横にイングリッドが座っている。二人はこちらの視線に気づいていない様子で講義に耳を傾けていた。

 たまたま洗面所で会ってから行動を共にしていたため、その流れで隣の席に着くことになったが、彼女たちの真剣な表情を目にすると、どこか居心地の悪さを感じてしまう。


(…………)

 

 内心で嘆息する。

 いつもなら隣にはサラがいた。

 朝はサラの方が早く目を覚まして、エフリエッタを起こしてくれる。彼女に髪を整えてもらってから一緒に食堂に向かい、そのまま午前の講義を受ける。お互い、気の置けないルームメイトだからこそ、必然的にセットで動くことが多かった。

 ただ今は。

 声をかけようにも、わざわざ彼女の姿を探す必要がある。


 講義中にきょろきょろと教室中を見渡すのは不自然だろう。探索者訓練生なぞに興味のなさそうな学者であろうと、あまりに講義を受ける態度が悪ければ学校側に報告されるかもしれない。もしもケラレクにでも伝われば、待っているのは早朝走り込みの罰だ。

 目立たないよう視線だけで教室を見渡す。

 何やらこそこそと下品な笑みを浮かべる三馬鹿を通り過ぎ、次につまらなさそうに腕を組んだエリンナの姿が目に入って、朝の記憶が蘇った。

 声に出さないよう舌打ちして、すぐさま視線を移すと、いくつか列を挟んだ斜め前方にサラの後ろ姿を見つけた。真面目な彼女は、しっかりと学者の話をノートに書き留めているようだった。


(この講義が終わったら謝りに行こう。大丈夫、大丈夫……エフリエッタは謝れる子)


 自分を鼓舞し、どうやって彼女に切り出すか考えている間にも、講義は進む。


「結晶生物は身体機能を維持するための食事を必要としません。栄養は大気中のエーテルによって補われますので。我々とは反対に、エーテル濃度の低い場所に長期間留まることによって結晶が劣化していくこともご存じでしょう。その性質のお陰で、人類が素肌を晒していても問題ない程度にエーテル濃度が調整されているシェルターには、彼らは近寄ってきません」


 息継ぎがあって。


「要はわざわざシェルターから出なければ、結晶生物に襲われることもないのです」


 教室内の雰囲気が少し冷たさを帯びた気がした。

 学者にとってみれば、何気ない一言だったのかもしれないが、仮にも探索者の卵である訓練生にそれを告げるのはどうなのだろう。エフリエッタもまた、学者に少し反感を覚えた。

 彼らの研究対象である結晶生物も、旧文明の遺物も、探索者が危険に身を挺して外界から運び込むというのに。

 同じく、彼の物言いに不満気な気配を見せた訓練生がちらほらといるようだった。その中の一人が威勢よく挙手し、学者の返事を待たず立ち上がる。


「ではなぜ結晶生物は人を襲うのですか」


 学者は一瞬だけ目線を訓練生にやり、やはり淡々とした口調で述べる。


「結晶生物が非結晶生物を襲うはっきりとした動機はわかっていませんが、血中からの効率の良いエーテル摂取、縄張り意識、あるいは味覚の残存による嗜好、の三点であると考えられています」 

「……嗜好、ですか」

「変態する以前に肉食であった動物はこの傾向が強い。逆に鹿や兎といった元々草食の結晶生物は必要以上の食事をしません。とはいえ、結晶化した四肢を動かすには筋や関節の作用よりも魔法によるところが大きいですから、やはり消費したエーテルを補うには経口摂取が最も効率的ではあるのでしょうね」


 学者の鼻を明かすつもりで質問を投げかけたであろう訓練生は、理屈の通った答えがあっさりと返ってきたことに渋面を作りながら座り直した。教室のどこかからくすくすと笑い声が上がる。

 エフリエッタといえば、学者の言葉に感心していた。

 そういえば自分とサラを襲った結晶鳥は、通常では考えられない軌道と、視覚では捉えきれない速度で移動してみせた。あれが魔法によって起こる現象であれば納得もできる。


「先生、なぜ人間には魔法が使えないのだろうか。世界には過剰なほどのエーテルが存在し、魔法を扱うための理論も残っているのにも関わらず」


 と、今度はイングリッドが立ち上がった。

 彼女の性格を考えれば、学者に対する反抗心からくる質問ではあるまい。口調からは、単純に疑問を解消したいという欲求が滲んでいる。


「残存する資料を信じるのであれば、文明崩壊以前……四百年ほど前は人類にも魔法は使えましたよ」

「それは知っています。日常に魔法が溢れ、生活の中で自然にエーテルを消費していたからこそ、供給とのバランスがとれていたと文献にはあった。それなのになぜ、今を生きる我々にそれができないのです」


 学者は頭を掻き、少し考えるような素振りをみせた。

 意外に思う。考えてみれば当たり前のことだが、彼にも人間らしい一面があったのだと。


「……さぁ、そこまでは。君の言う通り、エーテルは枯渇するどころか供給過多と言ってもいい。ただ水や酸素と同じく、生命維持に不可欠な物資でも、過剰になれば毒となります。何らかの理由で大気中のエーテル濃度が上昇し、それに適応できなかった人類はシェルターに避難せざるを得なかった。そして、人体に無害な程度までエーテル濃度が調整されたシェルターの中で世代交代が行われる内に、魔法を扱うための機構が退化……いえ、変化した、と考える説が有力ですが……これ以上は専門外なのでなんとも」

「ありがとうございます」

「他に、質問は」


 挙手する者はいなかったが、教室中で今の質疑に対する議論が交わされる。

 学者が壁にかかった時計をちらりと見て。

 ちょうどそこで予鈴が鳴り、講義終了の時刻を告げた。


 続々と訓練生たちが席を立つなか、教室を出ようとするサラと目が合った。

 が、視線は触れたかと思えばすぐに逸れ、呼び止めるよりも早くサラはノートを閉じ、肩にかけた鞄を細い腕で持ち直して人の波に紛れていく。

 エフリエッタは喉奥にひっかかった名前を吐き出せずに、立ち上がりかけた姿勢のまま固まる。

 イングリッドの手が肩に置かれた。


「キリアはああ言ったが、私は気長に待ってもいいと思う。時間が全てを解決してくれるとは思わないが、お互いに気持ちの整理が必要なこともあるんじゃないかな」

「うん……そうだね。ありがと、イングリッド」

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