2.魔物との遭遇
「お昼は食べたのかい?」
穀物店の女が聞いてきた。
「いや、昼は持っていないので、このまま家へ帰る」
途中で食えそうな果物でも見つけることができたら、それを食べて飢えと渇きを凌ごうと思っていた。
「これから荷物を積んだ荷車を押しながら坂を登らなくてはいけないのだろう? 昼も食べずにいたら、途中で倒れてしまうよ。まだ若いんだから、たっぷりと食べないとね」
女は小さなパンを六個持たせてくれた。
「初めてのお客さんだから、記念の品だよ。これからも贔屓にしておくれ」
そう言って女は笑った。
荷車に腰をかけて、貰ったパンを齧る。さすが売り物のパンだ。柔らかくてとても美味い。二個だけ食べて、四個を家に持って帰ることにする。年老いたニコライとヨハンナ夫妻に食べさせてやりたいと思った。
小さなパン二個だが、それなりに腹は膨れた。穀物店の女の気遣いが何より嬉しかった。
用も済んだので町を出て村へと帰ることにする。緩やかな登りの細い道を見上げながら、強い日差しの中荷車を押しながら歩く。
涼しかった朝方の下り道とは違って、額に汗が流れて地面に落ちていく。それでも、元々このような暮らしをしていたのだろう。体はそれほどきつくもなく荷車は軽やかに山道を登っていった。
道程の半分ほど来たところだろうか。一瞬眩いほどの金色の光が見えた。見たこともない色の光はすぐに消えたが、大きな獣のような唸り声が辺りに響く。狩りをして暮らして来た俺が聞いたこともない声質だった。
何が起こっているのか気になった。あれほどの大声を出す獣ならばかなりの大物だろう。
狩ることができるのならば、町へ戻って売ってもいいと思った。小麦は十分の量を手に入れたが、金に替えることができるのであれば、持ち帰って次回に使えば良い。
俺は声のする方へ急いだ。
円を描くように曲がった道を進むと、大きい見たこともない生き物が道を塞いでいた。溶けたような黒い肌。長過ぎる左右非対称の牙。不気味な膜のように広がる黒い翼。そして、蛇のようにうねる黒いたてがみ。四足で立っているが、俺の知っている獣のどれにも似ていない。
それは見たこともない生物だった。生理的に不快になるような姿、よだれが地に落ちると、土が溶けるように泡立ち煙が立った。
これが噂に聞く魔物なのか?
危険すぎるその生物の前に立つのは、聖女見習いというミレイユだった。
銀色の髪を風が揺らしている。手に持つのは白銀の杖。
いくらなんでもあんな杖で魔物の相手をしようというのか? 護衛らしい三人の男は魔物に放り投げられでもしたのか、全て地に転がっている。意識はないようだ。
俺は駆け寄り、護衛が落としたらしい剣を拾った。
「ここは危険です。従者だった貴方に魔物の相手ができるわけありません。今すぐ逃げなさい」
まだ十八歳だという少女に危険だから逃げろと言われて、はいそうですかと従うわけにはいかない。
俺はミレイユを無視して魔物に向かっていった。
噛まれてしまうと牙の傷だけでは済むはずがない。だが、俺は狩人だ。どんな獲物でも仕留めて見せる。恐怖に打ち勝つため俺は自分に言い聞かせた。
「邪魔だって言っているでしょう。そんな剣で傷付く相手ではないのよ。聖魔法をぶっ放すから離れていて。巻き込まれても知らないから」
ミレイユが怒鳴っている。
「そんなことができるのならば、早くしたらいいだろう」
「さっき魔力を使いすぎて、次の魔法を放つにはしばらく時間がかかるのよ」
それまで魔物は待ってくれそうにない。
魔物は大きく羽ばたいて、脚は地を蹴った。俺は迫ってくる大きな口を避け、魔物の腹に潜り込んだ。
心臓の辺りを目指して剣を差し込む。血が滴るが毒に違いない。俺は剣の柄から手を離して、転がるようして魔物の下から這い出した。
「嘘でしょう!」
ミレイユが叫んでいる。
「聖魔法とやらはまだか!」
「もう少し待って!」
俺は倒れている別の護衛から剣を奪いとった。
魔物はミレイユから俺に標的を変えたようだ。俺に向かって飛んできた。俺は木に登って迎え撃つ。
魔物が木に体当りしてきたところを狙って、木から飛び上がり魔物の眉間に剣を突き刺す。それと同時に金色の光が魔物を貫いた。これがミレイユが放った聖魔法なのだろう。
大きな咆哮が辺りに響く。黒い血を巻き散らしながら暴れる魔物。放り出された俺は、何とか地面に着地することができた。
肩で息をしている俺を驚愕しながら見ているミレイユ。何をそんなに驚いているのだろうか。
魔物が動かなくなったと思ったら、砂のように崩れ去り、後には宝石のような赤い石が残った。
「こんなに大きな魔石を持っている魔物が現れた。生き残りだとは思えない。新たに生み出されたのよ。魔王は滅んではいない」
不吉なことを口にするミレイユ。
「この護衛たちはしばらく気が付かないだろう。俺は村の近くまで行くから、一緒に行くか?」
「貴方に命令される覚えはないわ」
「嫌なら好きにするがいい。俺は先に行く。護衛が目覚めるのを待っていろ」
魔物に突き刺した二本の剣は魔物と同じく砂のように崩れていた。俺は3人目の護衛から剣を奪い、荷車に載せて歩き出した。
「ちょと待ちなさいよ。誰も嫌だとは言っていないでしょう」
ミレイユが文句を言いながら俺の後についてくる。
「あのような魔物は普通にいるのか?」
記憶の無い過去のことはわからない。しかし、あれほどの魔物がいたとしたら、小さな村などすぐに全滅してしまいそうだ。
「私は聖女見習いとして地方を回って魔物を浄化していたのだけれど、あれ程大きい魔物を見たことがなかった。魔王城の近くには大型の魔物が出没すると聞いていたけれど」
「魔王が近くにいるかもしれないと?」
「そうかもしれない」
「魔王が滅んで平和になったと聞いていたのだが」
俺は村の方向を見た。朝と変わらないのどかな風景が続いていた。