1.記憶を失った男
目を覚ました時、自分が何者なのか、ここが何処なのか、何も思い出せない状態だった。ただ、硬い土の上に横たわっていることだけはわかった。
水の流れる音がする。それを聞いていると、我慢できないほどの渇きと飢えを覚えた。しかし、体を動かすことができない。
このまま死を待つだけなのか。そう覚悟するしかなかった。
「大丈夫かい?」
頬を軽く叩く感覚と、嗄れた声が聞こえてきた。重い瞼を無理やり開けてみると、目の前には絶世の美女がということはなく、老婆が俺を覗き込んでいた。
「川で洗濯をしようと思って来てみたら、おまえさんが倒れていたんだ。起き上がれるか?」
「頑張ってみる」
それにしても体が怠い。
何とか立ち上がろうとしたが、足に力が入らずに、座り込んでしまった。
「腹が減りすぎて、力が入らない」
「とりあえずこれを飲め。これより上に民家はないから、水は綺麗だ」
思った以上に親切な老婆は、川の水を竹の水筒に入れて俺に渡してくれた。
これほど水を美味いと思ったことはない。乾いた体に染み渡るようだった。
「私ではおまえさんを運ぶことはできない。少し待っていろ。食べるものを取ってくる。期待はするな。こんな山の貧しい暮らしだからな」
そう言い残し、老婆はゆっくりと立ち去った。
横になってしばらく待っていると、老婆が本当に戻ってきた。手には黒い色のパンを持っている。
「遠慮せんと食え」
そんな言葉に甘え、座りなおして差し出されたパンを受け取る。少し固いパンは、それでも美味かった。まるで魔法のように力が漲るのがわかる。
「感謝する。名を教えてほしい」
彼女は命の恩人だ。今の俺は、体中探しても礼にできるものなど何も持っていなかった。だから、後日礼をしようと名を訊いた。
「私はヨハンナ、爺さんとあの家に住んでいる。おまえさんは?」
「俺は……、何もわからない。名前も、生まれも、どこから来たのかも」
「記憶がないのかい。仕方がないね。しばらくうちにいるといいよ。爺さんは山へ薪拾いに行っているが、昼には帰ってくるだろうから」
老婆は本当に親切だった。身元もわからない俺を家に置いてくれるという。これ以上迷惑をかけるのは心苦しいが、行く当てもなくこの山を彷徨っていても、飢えで死んでしまうかもしれない。それに、老人二人だけで住んでいるのであれば、俺に手伝えることもあるだろう。そう考えて頷くことにした。
こうして、ようやく立ち上がれるようになった俺は、老婆に拾われて家に連れ帰ってもらうこととなった。
小さな家の主人はニコライと名乗った。気のいい人物で、記憶を持たない怪しい俺を家に住まわすことに反対しなかった。
「名がないのは不便だ。今日からジークと呼んでいいかい?」
ヨハンナ婆さんがそう問う。俺は彼女から新しい名を与えられた。それは老夫婦に息子ができたら名付けようと思っていたという大切な名前だという。
こうして老夫婦に家族のように迎えられた俺は、小さな家で力仕事を手伝いながら暮らしている。
記憶を失う前も森で暮らしていた経験があったのか、俺は狩の技術を持っていた。ニコライ爺さんが昔使っていたという弓と短剣を借りて、大型の獣さえ狩ることができるようになる。
大物を仕留めた時は、三人では食べきれないので、近くの村に持っていって、小麦や砂糖と交換しもらう。
ニコライ爺さんとヨハンナ婆さんは、息子ができたと喜んでくれた。今まで、子を持ったことがなく、山の中で二人だけで暮らしてきたという。
「ジークは年老いた私達への神様からの贈り物に違いない」
ヨハンナ婆さんは嬉しそうにそんなことを言ってくれる。
「それは、俺も同じだ。あの時、ヨハンナ婆さんに出会えなかったら、俺は確実に死んでいたから」
山での暮らしはささやかだが、とても幸せだった。平穏に日々が過ぎていく。
ある日、大型の猪を狩った俺は、解体して旨そうな大きい肉の塊を村まで持って行った。すると、いつもは静かな村が騒がしい。うわさ話に耳を傾けると、村長の娘が王都から帰ってくるらしいことがわかった。
猪肉と小麦とを交換してもらうため村長の大きな家に行き、裏口から中に入ると、見知った使用人がいたので、村長の娘のことを詳しく訊いてみた。
「ミレイユ様がこの村を出ていったのはまだ十二歳の時、それは可愛らしい娘だった。あれから六年、もう十八歳になるのか。どれほど綺麗になっているんだろうな」
「なぜ、そんなに小さい時に村を出ていったんだ?」
貧しい村民の娘なら出稼ぎに町へ行くこともあるだろうが、村長の娘なのでそんなことはないと疑問に思う。
「聖魔法が使えたので、聖女見習いとして王都の神殿に連れて行かれたんだ。村の若い男たちは嘆き悲しんだものだ。皆、ミレイユ様が結婚できる歳になれば求婚しようと待ち構えていたのに」
「十八歳の綺麗な娘が帰ってくるとなれば、それは大変な騒ぎになるな」
「本当だ。無事ミレイユ様が帰ることができてよかった。これも、勇者と聖女が魔王を倒してくれたおかげだ。ありがたい」
「そんなことがあったのか?」
この世に勇者と聖女なんていたのか。全く知らなかった。
「そうか、ジークは記憶がないので何も知らないんだな。この間までこのあたりにも魔物が出没していて、この村でも被害が出たんだ。しかし、勇者一行が魔王を倒し、この世界に平和が訪れた」
「それは大変だったんだな。聖女とは村長の娘か?」
若い娘が魔王討伐の旅に同行するなど、かなり恐ろしい体験だったのではないかと同情してしまう。
「いや、ミレイユ様は見習いだった。魔王討伐の旅には同行していない。地方を回って魔物を浄化する仕事をしていたらしい。聖女様は王女様で、勇者様は王都の騎士だった。ただ、勇者様は魔王と共に姿を消し、未だに居場所がわからない」
聖女とは王女様なのか。それは村娘が魔王討伐に行くよりも大変だっただろうなと感じる。まあ、魔物浄化の旅というのも楽ではないだろうが。
「おーい。歓迎の宴の用意をしなければならないんだ。油を売っているんじゃない」
奥から叱責する声が聞こえた。
「やばい。それじゃ、ジーク、これがお礼だ。今日は助かったよ。この猪があれば豪華な宴になる」
俺は小麦や野菜を受け取り、村長の屋敷の裏門から外に出た。
用は済んだがすぐに帰る気になれずにいた。美女だという聖女見習いを一目見てみたかった。
俺は山へ帰るのとは違う方の村の入口に行ってみた。
人垣ができている。皆ミレイユという女を待っているのだろう。
俺を不審そうに見る男もいたが、村の皆は顔見知りなので、咎められることもなく人垣に混じっていた。
村にはないであろう豪華な馬車が見えてきた。そして、馬車が村の入口に止まると、銀色の長い髪の女性が降りてきた。彼女は想像以上の美しさだった。
その美しい娘が俺を真っ直ぐに見据えている。
「なぜ、貴方がここに」
俺は、この娘を知らない。記憶を失う以前に何かあったのか。しかし、何も思い出せない。
しばらくの間、俺たちは見つめ合っていた。
「勇者のジョルディ様はどうなったの?」
はぁ? 俺が勇者かなとちょっと期待したけれど、違ったみたいだ。世の中そんなに甘くないよな。
「勇者なんて知らない」
ジョルディと聞いても、全く記憶にない。
「嘘を言わないで! 貴方とジョルディ様は聖女様の目の前で姿を消したと聞いたわ。ジョルディ様はどこにいるのよ。なぜ、貴方だけが無事に生きているの」
俺は勇者と共に姿を消した? 俺はいったい何者なんだ?
「ジョルディ様はどこにいるの? 早く教えてよ!」
ミレイユという娘は本当に美しい。だが、今はその顔を歪ませるようにして悲痛に叫んでいる。
できることならば、答えてやりたい。ジョルディという奴の所在を知っているのならば、今すぐに教えてやる。
そう思っても、俺には叶えてやることができない。
「俺は何者だ」
そう問うしかできなかった。
ミレイユは目を見開いて驚いたように俺を見上げてきた。
村人たちがざわめいている。
ミレイユを取り乱させた俺は村人から敵認定されつつあるようだ。手近にある棒を握ったり、拳を握りしめたりしている。
「何を言っているのよ。貴方はジョルディ様の従者で、魔王討伐に参加していたフロランでしょう? 間違うわけないわ。誤魔化しても無駄よ。ジョルディ様はどこ?」
「俺には記憶がない。過去のことは何もわからない。記憶にあるのは村外れにある川のくに倒れていた時以降のことだけだ。森の入口に住む老夫妻に拾われて今まで過ごした。俺の名はジーク。その名しか知らない」
「そんな馬鹿な。本当に何もわからないの? ジョルディ様のことも、魔王のことも」
「本当の何もわからない」
「倒れていた時、側には誰もいなかった?」
ミレイユはかなり俺を疑っているようだった。
「俺一人だった。辺りには誰もいなかった」
考え込むミレイユ。
「わかった。何か思い出したら、私に伝えて」
ミレイユは俺に興味を失ったようだ。長旅で疲れていたのもあるだろう。小さく礼をして村長の家に向かって歩き出した。騎乗していた騎士が二人馬を降りて後に続く。その騎士の一人が、俺を睨み付けながら近くに来た。
「本当に何も覚えていないのか」
騎士の一人が問う。ミレイユと一緒に浄化の旅をしていたという騎士はクラークと名乗った。目は剣呑な色を湛えていて、俺を憎んでいることがよくわかる。
「本当に記憶が無いんだ」
「そうだろうな。記憶があれば、ミレイユ様に会ってあれほど平静に対応することはできないだろう。お前にも恥という概念があればだがな。ジョルディ様が庇わなければ、お前は罪人として処刑されていた」
「俺はミレイユに何をした?」
「ミレイユ様を呼び捨てにするんじゃない! おまえのしたことは口にするのも汚らわしい。とにかく、ミレイユ様には近付くな。私たちは王都へ帰るが、村長には護衛を雇うように進言しよう。聖女見習いとして務めてきた報奨金は高額だから、それくらい容易いだろう」
俺は自分のことを詳しく訊くこともできず、村長の家に消える騎士をただ見送ることしかできなかった。
ミレイユの護衛についてきた騎士が、俺の倒れていた場所周辺を捜索している。村人も手伝って大掛かりに行われたが、勇者は見つかることはなかった。
俺は勇者の従者で、勇者と共に姿を消した男。そして、かつてミレイユに何かしたらしい。小さな村の住民がそのことを知るのに時間はかからなかった。
俺は村へ立入禁止となった。ミレイユに近付かせないためだと説明された。
俺が狩る動物の肉と森で採取する木の実や野草で飢えることはないが、パンを焼く小麦粉にも不自由するようになった。
老いたニコライとヨハンナには楽をさせたい。せめて、柔らかいパンを食べさせてやりたかった。
仕方がないので、川沿いに半日ほど歩けば着くと教えられた隣町へ行くことにした。
大型の猪を二頭狩り、荷車に載せて出発する。木の実や茸も試しに持っていくことにした。町で売れると嬉しいのだが。大型獣の生息数は限られているので、あまり狩りすぎるといなくなってしまうのではと心配になる。その点、木の実や茸はそこら辺中で採れるから安心だ。
朝早く、日の出と共に家を出る。森には朝靄がかかり、川の向こう岸さえ見えないくらいだった。
順調ならば昼には町に着くだろう。それから肉を売り、小麦を手に入れて、余裕があれば勇者たちのことを聞いてみようと思った。
俺とミレイユの間に何があったのか? 俺が処刑されるほどのことをミレイユにしたのであれば、なぜ勇者とともに魔王討伐に行くことができたのか?
俺は知りたかった。
予定通り昼前に町に着いた。村に比べて人が多い。石造りの堅牢な家々が続く。
町の入口で肉を売りに来たと言えば、門番は中に通してくれ、肉屋の場所を教えてくれた。
教えられた通りに道を歩いていると、肉屋はすぐに見つかった。俺は字が読めないが、看板に描かれていたのは動物の絵だった。
店内に入ると、大きな包丁を持った大柄な男が肉を捌いていた。その男に大きな猪を買い取ってもらえないかと訊くと、すぐに店を出て荷車に縛り付けている猪を確認してくれた。
「立派な猪だ。いいだろう。買い取らせてもらう。二頭ならば五百ゴールドでどうだ? かなりの金額だぞ」
村では獣を直接小麦粉や砂糖に替えていた。町の肉屋がくれた金属片の価値はわからない。
「小麦粉が欲しいんだが」
戸惑う俺に肉屋は笑いかけた。
「村から来たので金を見たことがないのか? この先に食品店があるから行って、その金で小麦粉を買ってみろ。たぶん満足いく量が買えるはずだ。木の実や茸も引き取ってもらえるはずだから、訊いてみろ」
肉屋に教えてもらった食品店に行くと、年配の女が店番をしていた。
「木の実と茸を買い取ってほしい。それらを売った金とこれを合わせて、買えるだけの小麦粉と砂糖と塩が欲しい」
木の実と茸、それから肉屋に貰った金を見せる。
「立派な木の実と茸だね。いいだろう引き取るよ。合わせて三十ゴールドだね」
俺が渡した金を受け取ると、店主は大きな袋の入った小麦粉を三袋と、中ほどの袋入りの砂糖、そして、小さな袋に入った塩を持っていくように言った。思った以上の量だ。これならば、しばらく食うに困らないだろう。
荷車にそれらを積む。
「勇者の噂を知っているか?」
俺はさりげなく聞こえるように気を付けながら女に訊いてみた。
「ああ、知っているよ。王都の騎士様でとても強いんだってね。勇者様は聖女様と騎士百人ほどを連れて魔王城に攻め入ったけど、中に入れたのは勇者様と聖女様、そして勇者の従者だけだった。勇者が聖剣を魔王の胸に突き立てた時、勇者と従者が消えてしまった。残されたのは聖女様のみだったらしい」
話し好きで物知りの女らしい。かなり詳しく教えてくれた。
「勇者の従者に付いて何か知っているか?」
「どこかの辺境の村から勇者が連れてきたらしい。勇者がかなり気に入っていて、魔王討伐にも連れて行ったと聞いたよ」
俺はやはり村人だったらしい。村の暮らしで戸惑うことがなかった。元々あのような暮らしをしていたのだろう。
ミレイユと俺の間に何があった?
そして、魔王城で何が起こったのだろうか?
それは不明のままだった。