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仇討ちの娘  作者: サクラ近衛将監
第四章 琉球

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4ー6 長崎にて その一

 それにもまして、大納言から半貫目の金塊二十本を土産にもらって藩侯以下が痛く恐縮しているほどである。

 そのためもあってか、奥女中が十名ほども別邸に押しかけて一行の世話をしてくれた。


 そのほかにも男手が十名ほどもやってきて世話を焼いた。

 一行が福岡・博多の町を散策する時には陰供がついていたが、決して近くには姿を現すようなことはしなかった。


 全ては家老蒲田の采配であった。

 十八日早朝に桟橋を離れた帆船「まつくら」は壱岐内海に仮泊、翌十九日は上五島の有川、二十日は松島に仮泊した。


 二十一日松島を出港した帆船「まつくら」は、およそ十里離れた長崎出島の沖に停泊した。

 和船では決して見られない優美な丸みを帯びたクルーザー型帆船の出現に出島の海岸には大勢の外国人が姿を見せて見物している。


 帆柱に陰十二菊の旗が掲げられると、すぐに二丁櫓の和船が数隻「まつくら」に近づいてきた。

 長崎奉行所差し回しの船である。


 正徳三年から長崎奉行は三名であり、内一名の駒木根(こまぎね)政方(まさかた)江戸詰(えどづめ)である。

 長崎には、久松(ひさまつ)定持(さだもち)大岡(おおおか)清相(きよすけ)が詰めていた。


 「まつくら」の一行は、小舟に分乗して長崎に上陸した。

 和船二隻は長崎の出島沖から桟橋へと向かい、賓客を桟橋に送り届けたのである。


 桟橋上には、長崎奉行久松が出迎えていた。

 長崎奉行は天領長崎を治めるが、実質的には寄り合い所帯の長崎会所の長崎商人である納屋衆が諸々を仕切っていた、


 交代制の奉行では長崎の機微(きび)がわからないのである。

 このため少し前までは、長崎の事情に詳しい長崎代官を地侍の家系から任命していたのであるが、「まつくら」が訪れた時点では、不祥事もあって長崎代官は廃役となっていた。


 今ひとり、長崎に赴任中の大岡は代官所で宗徳を待ち受けていた。

 偉人には慣れているはずの長崎者(ながさきもの)も、宗徳の公家装束と可奈と尚舎姉弟の琉球装束の取り合わせは珍しいようで、たちまち周囲に大勢の人々が群がった。


 ひとしきり奉行久松と路上での挨拶を交わした後、奉行とその手勢に守られながら、一行は長崎奉行所に入ったのである。

 奉行所書院の上座に座らされた宗徳夫婦であるが、付け人と見られた6名は別室で待機させられた。


 三千石の禄を()む大身旗本の奉行ではあるが、大納言は正しく雲の上の人である。

 ひたすら平身低頭して機嫌取りに走っていた。


 宗徳にそうした腰巾着のような武家には用事があるはずも無く、長崎滞在中の勝手気儘(かってきまま)言質(げんち)をとると、すぐに奉行所を出たのである。

 但し、ここでも土産として半貫目の金塊十本を奉行所においてきたのであるが、その代わりに言葉巧みに長崎出島への通交証も貰い受けていた。


 本来出島への出入りは限られた者だけにしか許されてはいない。

 許可を得た商人、女郎、奉行所役人更に長崎会所の町役人である乙名(おとな)だけが出島への出入りを許されている。


 当初許可を出すことには多少渋っていたのであるが、金塊の土産の誘惑には勝てなかったようである。

 奉行二人で少なくとも千両箱を貰ったに等しい土産であるからだ。


 通常、出島に入るには長崎奉行の許しを得なければならず、また、実質上長崎出島を仕切る清国使節とオランダ領事の了解を得ることが必要であった。

 オランダ領事と清国施設への通知は、長崎奉行からその日のうちに行われ、宿泊先の料亭松浦には夕刻になって双方の了解が得られた旨の知らせがもたらせられた。


 宗徳一行は、翌日に出島に(おもむ)くことになった。

 一行は奉行所を出るとすぐに長崎奉行所が手配した宿に向かった。


 宿は奉行所にもほど近い恵美須町にある桜亭である。

 本来は小料理屋であるのだが、客を泊める設備もあるので奉行所が選定したようだ。


 但し、部屋数に左程余裕があるわけではない。

 警護の武士達が二間を使う予定が、可奈と尚舎という予定外の供人が加わったために、彼らの部屋は一間になってしまっていた。


 緒方と三次が一間、成美と百合が一間、可奈と尚舎が一間、そして宗徳と彩華が庭に面した離れの一室をあてがわれた。

 この一行が滞在中は、桜亭の本来の小料理屋の機能は奉行所の手配で止められることになっている。


 無論、仲居や料理人たちはそのまま宿泊する客の接待に当てられている。

 その夜、茨戸衆の襲撃が敢行された。


 丑三つ時(うしみつどき)に間もなくなろうかという刻限、黒づくめの衣装に黒覆面の一団が塀を乗り越えて敷地に入ったのである。

 だが、誰にも気づかれていないはずの侵入が察知されていた。


 可奈と尚舎を除く一向6名が待ち受けていたのである。

 目当ての部屋の庭に音もなく入った一団の先頭二人の黒装束が(はり)と棒手裏剣の襲来を受けて倒れた。


 慌てた一団をあざ笑うかのごとく暗闇からさらに連続して鍼と棒手裏剣が襲い、さらに四人が倒れた。

 わずかの間に黒装束で残る者は八名となっていた。


 忍び狩りを自認する茨戸衆にとっては予想外の出来事であった。

 彼らにとって障害となり得る者は公家侍の緒方一人と思っており、緒方にしてもたかが公家侍と(あなど)っていたからである。


 さらなる衝撃が一団を襲った。

 武芸には縁のないはずの公家とその嫁が抜身(ぬきみ)の大刀を(たずさ)えて狙いの居室から現れたからである。


 さらに茨戸衆の背後に棒を構えた中間と大刀を携えた公家侍が現れ、退路を断たれた。

 八人のうち六名は標的である公家に向かい、二人は背後の抑えとして中間と公家侍に備えた。


 だが、鍼と棒手裏剣の襲撃はさらに二人の仲間を襲い、僅かに四人が標的に向かった。

 彼らも手裏剣を発したが、いずれも鮮やかにかわされあるいは弾かれていた。


 驚くべきことには公家とその嫁が大刀を手に進み出てきた。

 四人での車掛り(くるまがかり)を図っていた黒装束にとっては予想外の動きであった。


 少なくとも標的を四方から囲むはずの連携が乱れたのである。

 二人が公家を、さらに二人が嫁を狙うことになった。


 右斜め上から斬撃は、若干の遅速はあったものの確実に相手を仕留める筈であった。

 必殺であるはずの白刃の斬撃は、一つはかわされ、今一つはキンと乾いた音を立てて弾かれ、その瞬間に自らの首筋に冷たい刃が走ったのを感じ取ったのが襲撃者の最後であった。


 茨戸衆を差配する唐木幹次郎は、何故と思いつつ意識が消えていた。

 時間の差は多少あったものの、公家とその嫁に襲いかかった四人は瞬時に討ち倒されていたのである。


 同じ頃、中間と公家侍に立ち向かった二人もあっけなく打倒されていた。

 一人は顔面に棒の突きをもろに受けて、後方に地響きを立てて倒れ伏し、今ひとりも無蓋流の斬撃を受けてもろくも切り倒されていた。


 これらすべての殺戮(さつりく)は声を発することなく終わり、料亭松浦の家人に知られることなく済んでいた。

 翌朝、家人は中間三次から狼藉者の侵入とそれらの者がすべて討ち果たされたことを知らされ驚いたものである。


 主賓の宗徳夫婦の前庭は十四人もの黒装束の遺骸とその血で(けが)されていた。

 早朝にもかかわらず、通報を受けた長崎奉行所から与力とその手勢がただちに派遣されたのである。


 そうした騒ぎを余所(よそ)に一行の予定は変更されることなく、居室を移して朝餉(あさげ)が食され、辰の上刻には後始末を仰せつかった緒方を残して、七人の一行が桜亭を出たのである。

 長崎の街を暫く散策してから、一旦宿に戻り、宗徳と彩華は緒方と成美それに琉球の姉弟を連れて、長崎会所に出向いた。


 三次と百合は、緒方とともに宿で留守番である。

 会所には、六代目高島(たかしま)四郎兵衛(しろべえ)庄左エ門(しょうざえもん)、七代目高木(たかぎ)作右衛門(さくえもん)忠栄(ただえ)が町年寄として君臨していた。


 この二人は総町乙名として長崎奉行の配下にあるが、事実上の長崎会所の実権を握っていた。

 他に後藤家、町田家の二家も相応の格式を持っていたが、合議制とは言いながら実質的に高島家、高木家の意向で長崎の物事は決められていたのである。


 会所に(おもむ)くと、宗徳の来訪を予想していたのか、これら町年寄が待っていた。

 その彼らにしても料亭桜亭での変事については何も知らされていなかった。


 にこやかな笑顔で迎えた高島庄左エ門ではあるが、琉球装束で現れた可奈と尚舎には一瞬顔を強張らせたものの、すぐにその気配を絶った。

 庄左エ門は、琉球国王の娘と息子の二人が薩摩島津藩に拉致されていることを長崎にもたらされる種々の情報から知っていたのである。


 少なくとも薩摩に立ち寄った一行に二人の琉球の者が加わったとすれば、或いはその二人ではないのかと察したのである。

 だがそのことを口にすることは控えた。


 雲上人(うんじょうびと)から何事か話をされるまでは、一介の商人が口出しすべきことではないと察したからである。

 一行は、会所の広間に案内された。


 広間は洋式であり大きな卓に椅子が並べられていた。

 宗徳と彩華が中央に、他の四人が端にそれぞれ腰を降ろした。


 宗徳の正面に立った鬢に白髪の混じった小太りの男が丁重に頭を下げながら言った。


「お初におめもじいたしまするが、大納言松倉卿にあられましては、ようこそ長崎へお越し下されました。

 私は、長崎の乙名(おとな)の一人、高島四朗兵衛庄左エ門と申します。」


 その隣に立つ痩身(そうしん)の男が続いて言った。


「私も乙名の一人、高木作右衛門忠栄にござりまする。」


 他にも数人の年寄がいたが、それらの者は無言で頭を下げるだけで名乗ろうとはしなかった。

 宗徳からすぐに話があった。


「ご紹介申し上げよう。

 こちらにいるのは琉球国王の息女可奈殿、それに同じく子息の尚舎殿じゃ。

 いずれも島津藩の客分であったのだが、此度、薩摩よりお連れした。

 長崎奉行殿には既に挨拶を済ませておる。」


「それで、何か私どもに御用がござりましょうか。

 大納言様のご用向きがどのようなものであるかにより、我らのお話も変わって参ります。

 此度の九州の旅にてわざわざ長崎へ立ち寄られたは、何ぞ朝廷の御意向と関わりがございましょうか。」


「はて此度の旅は、飽くまで麻呂と彩華の婚姻の後の余禄のような旅にござる。

 帝はあずかり知らぬことのはず。

 従って、朝廷の意向とは関わりなしとお考えなさるが宜しきかな。」



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