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仇討ちの娘  作者: サクラ近衛将監
第四章 琉球

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4ー5 救出強行と船出

「そのまま、そのまま。

 麻呂は松倉宗徳と申す者じゃが、病人の様子は如何じゃ。」


 宗徳に言われて、女は身体を起こし病人に向き直って少し暗い顔をした。


「このままではいけませぬ。

 熱が下がらないのでございます。」


 宗徳は、薄い布団に寝せられている子供に近づいた。

 可奈と同じく浅黒い肌の男の子であり、十二才前後と思われる。


 呼吸は早く、額はかなり熱い。

 胸に左手を当てて右手の指で軽く手の甲を叩いた。


「いかぬな。

 肺腑に炎症を起こしている。

 このままでは身体が持たぬ。」


 宗徳は子供を抱きかかえるとそのまま立ち上がった。

 女が慌てて訊ねた。


「如何されますのか?」


「このまま放置するわけには行かぬだろう。

 麻呂(まろ)が連れて行って治療をいたす。」


「なれど、このお子はこの館から出てはならぬお人。

 無理に連れて行けば貴方様がお(とが)めを受けまする。」


「誰が咎めるかは知らぬ。

 だが咎めより人の命の方が大事じゃ。

 じゃが、そなたに難儀が掛かっても困るのぉ。

 止めたが無理に連れて行ったと申しなされ。」

 

 女は驚いた顔をみせたが、やがてゆっくりと微笑んだ。


「わかりました。

 どうかよろしくお願い申します。」


 宗徳は、三次に子供を背負わせ、可奈を同道して屋敷の入り口を出た。

 そこには十人ほどの武家がおり、同行する可奈と三次が背負う男の子を見るや顔色を変えた。


「あいや、待ちなっせ。

 そん二人を連れていずこへ参るかね。

 そん二人はこの屋敷から出てはならぬ者じゃ。」


「どなたが決められたことかは知らず。

 放置すれば死ぬかも知れぬとわかっていながら何もしようとしないのは、誰の指図じゃ。

 罪人とて病にかかれば医師の手当てを受けよう。

 それとも薩摩とはそのように薄情なお国柄か。」

 

 居合わせた武家たちは流石に言い返せない。

 一つは斯様(かよう)な暴挙をなしているのが薩摩の賓客(ひんきゃく)であることを知っているからであり、また、人の子として道に外れた行いではないかと言う密かな懺悔(ざんげ)の気持ちもあったからである。


「先にも申したが、今一度言う。

 藩侯吉貴殿より城下にては自由になされよと言われて居る。

 如何に自由と言えど、人の道に外れた行いはせぬつもりじゃが。

 お手前方に迷惑をかける仕儀になるやも知れず。

 一応お断り申しておく。

 これよりなすことは正三位大納言松倉宗徳が勝手に成したること。

 無理を承知で押し通す。

 御免。」


 そう言うと、宗徳は可奈の手を引いて前へ進んだ。

 その迫力に押されて取り囲んだ武家たちは道を開けた。


 一行は、足早に浜町の桟橋に向かった。

 浜町には多数の小舟がついている。


 その内の一(そう)の側に船頭がいた。


「船頭殿、沖の船まで我らを運んでくれぬか。」


 船頭は顔を見て、更にその背後を見て青くなった。

 城からやってきたと思われる多数の武家が走ってくるのを見たからである。


「おりゃぁ、行けんぞ。

 あんたがた何をしたかね。

 お城の人を怒らせてはこの先商売ができねえ。」

 

 そうこうしているうちに、土埃(つちぼこり)を揚げて周囲を武家が取り巻いた。

 いずれも刀を抜いてはいないが柄に手を掛けている。

 

 息せき切って駆け付けたのは、船手奉行坂木主水であった。


「大納言殿、その二人は大事な人質じゃぁ。

 連れ出しては困りもっす。」


「坂木殿であったかな。

 大事な人質と言われたが、大事なればもそっと扱いが違うのではないかな。

 屋敷に押し込めて罪人のごとく扱い、病にかかっても医師にも見せぬと言う扱いが薩摩にとって大事な人物か。

 仮に島津公の御子息が他藩で斯様(かよう)な扱いを受ければすぐさま戦になるのではないのか?」

 

 坂木もぐっと詰まってしまった。


「けんど、じゃからっちゅうて勝手に連れ出してよか事にはできもはん。」


「できないとあれば仕方がない。

 ここは大納言の位階にかけて儂が無理を押し通す。

 我が行く手を遮るは朝敵とみなす故左様心得よ。」


 宗徳は、船頭に向かって言った。


「船頭、(しば)し船を借りる。

 そなたは無理やり船を奪われたと言え。

 よいな。」


 船頭は、どうしてよいかわからずあたふたとしていたが、結局は宗徳の気迫に押されて小さく(うなず)いた。

 すぐさま一行は小舟に乗り込んだ。


 小さな船であるが八人はやっと乗れた。

 船に乗り移る際に三次が緒方に尚舎を委ね、最後に(もや)いを放し、三次が飛び乗った。


 櫓を漕ぐのも三次である。

 船は速やかに桟橋を離れた。


 武士たちは上からの明確な指示が無ければ動くに動けなかった。

 仮にも大納言を与えられた公卿であり、しかも親王でもあるお人に刃を向けるには相応の覚悟が必要だった。


 命を受ければ彼らは非情にも動いたであろう。

 だが、その命を下す者が現場には居なかったのである。


 船は器用な三次の()さばきで間もなく「まつくら」に辿り着いた。

 宗徳は、船に着くと直ちに秋蔵に命じて出港の準備をさせた。


 秋蔵ほか三名の水夫たちは、すぐに錨を揚げ始めたのである。

 錨を揚げ終えるとすぐに船は走り出した。

 

 南風であったが、「まつくら」は帆も上げずに風上に向かって進んで行く。

 本来は、翌日早朝に出立予定であり、半日早い出立であったが、船旅では天気の模様を見て動くものであり、早くも遅くも日程が変わることはあり得ることではあった。

 

 上からの命が無くば動くに動けず、薩摩藩士はなす術もなく見守るだけであった。

 乗り捨てられた小舟は、川の流れと風が拮抗(きっこう)し、自然に元の桟橋近くに漂着し、船を奪われた格好の船頭は胸を撫で下ろしていた。


 一刻後、鶴丸城の奥御殿では、家老から経緯を聞いていた吉貴は渋い顔をしていた。


「まさか、我が膝元から人質を(さら)われるとは思うてもみなんだわ。

 それにしても、城下の南に向かっていた者が、何故あの屋敷に・・・。

 まさか最初からそのつもりであったのか?」


「いえ、それはないものかと。

 陰供(かげとも)をしていた見張りの者からの報告によれば、昼前には南の散策を終えていたとのこと。

 慈眼寺まで参り、和尚とも半時ほど話をされたとか。

 少なくとも最初からあの屋敷を訪問することは考えていなかったものと思われます。

 そもそも、あの屋敷が何たるかは土地の者でもほとんど知りませぬ。

 人質二人は、薩摩に来て以来、一歩たりともあの屋敷からは出ては居りませぬ。

 二人の世話をしていた者も、口の堅いものを選んでおりました故、外に漏れるはずがありませぬ。」


「しかし、いずれにせよ人質が連れ去られたは事実。

 表向き、連れ去られた事実は一切伏せておけ。

 琉球に知られたなら、面倒なことになるやもしれぬでな。

 それにしても、どうするか・・・・。」


 暫し考え込んでいた吉貴は家老を見て言った。


「大納言一行の次なる予定は?」


「次の寄港地は福岡藩にて十四日着と聞いております。」


「四日しかないか・・・・。

 福岡では準備が整うまいな。

 その後は?」


「長崎に二十一日着と聞いております。」


「長崎か・・・。

 幹次郎(みきじろう)を呼べ。

 儂は書院で待っておる。」


 驚きの顔で家老が吉貴を見た。


茨戸衆(ばらとしゅう)を・・・。

 しかし、茨戸衆は忍び狩りの任についておりまするが?」


「来るかどうかわからぬ幕府の隠密よりも、目の前の危難の対処が先じゃ。」


「しかし、大納言殿が知ったからと言うて、さしたることにはならぬかと。」


「さしたることはないかもしれぬが、転ばぬ先の杖よ。

 我が領内で大納言一行が姿を消せば、疑われるのは我が藩じゃが、長崎の地で何かあっても我が藩の名は出てこぬ。

 大納言の口から朝廷が知り、更に幕閣に伝えられれば痛くも無い腹を探られることは必定。

 鵜の目鷹の目で我が領内を見ている幕府には何も知らせない方が得策じゃ。」

 

 そうまで言われては家臣としては何も言えない。

 夕暮れ間近、一人の男が呼ばれ、城内の茶室で藩主と密談を交わし、四半時後にその男は鶴丸城から消えていた。


 一方、帆船「まつくら」は錦江湾の中央を南下し、夕暮れ間近になったので指宿(いぶすき)の山川沖で仮泊した。

 乗船してすぐにも宗徳は尚舎の腕に筒状の器具を押し当て、治療を施していた。


 その治療を行って二刻も経たないうちに尚舎の熱が劇的に下がり、尚舎が意識を取り戻していた。

 流石に体力の減退はすぐには元に戻らず、尚舎はその日以後も寝て過ごす日が続いたが二日目の夕刻にはほぼ常体に戻っていた。


 可奈と尚舎姉弟の丁寧な感謝の言辞は、船の中にいる他の者全てからほのぼのとした優しい眼差しで迎えられた。

 帆船「まつくら」は、十一日には甑島(こしきじま)沖、十二日は五島沖、十三日は唐津沖で仮泊、十四日早朝唐津湾を出港、博多湾能古島(のこじま)沖を航過したのは()の上刻であった。


 そうして博多の長浜に到着したのは巳の下刻、長浜には沖に伸びる真新しい木製の桟橋があり、「まつくら」はその桟橋に(もや)うことができた。

 福岡藩の当主は黒田宣政三十歳であるが生来の病弱であり、政務のほとんどは城代家老蒲田(かまた)昌義(まさよし)に任せていた。


 新たな桟橋の普請は、この蒲田昌義の指示によるものであった。

 延岡藩に立ち寄った帆船「まつくら」を福岡藩の者が事前に確認し、その大きさを概ね五百石船と見積もって新たに桟橋を造らせたものである。


 長浜の浅瀬に多数の杭を打ち、その上に板を張っただけの急ぎ普請であったから、強い横風が「まつくら」に吹き付ければ桟橋自体が強度的に持たない恐れもあった。

 そのため、風が強くなった場合は、沖掛かりをすることにしていた。


 それでも一行の上下船には随分と便利であったことは間違いがないし、水夫たちも二人ずつ交代で博多の中洲へ遊びに出ることが可能であった。

 博多における一行の宿舎は福岡藩の別邸である福寿荘であった。


 城の東端に近い場所に建てられた瀟洒(しょうしゃ)な屋敷で五百坪ほどの敷地を有する。

 主として黒田藩侯が静養する際に使う別邸であるが、宣政の代になってからはほとんど使われたことが無い。


 家老蒲田は、ここを急遽整備して一行の宿舎に提供したのである。

 本来四人の従者が六人となっても、福岡藩に不都合は無かった。


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