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仇討ちの娘  作者: サクラ近衛将監
第四章 琉球

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4ー2 九州への旅 その一

「そなたが?

 南蛮や大清国と渡り合える力を持てると言うか?」


「今すぐには無理でござりましょうな。

 ですが、三年いや五年あれば間違いなく相応の形にしてご覧に入れましょう。」


「ふむ・・・。

 じゃが、如何様いかようにするつもりじゃ。」


「左様、まずは戦船(いくさぶね)を作るところから始めねばなりますまいな。

 南蛮諸国は船に大筒を搭載し、船同士の戦に使うと聞いております。

 沿岸なれば、その大筒で陸地の攻撃もできるそうにございます。

 幸いにして、琉球は島国、(よこし)まな意図を持って琉球に近づくには戦船を持って来るしか方法はありませぬ。

 従って、沿岸防備を固めれば、薩摩も大清国も簡単には琉球に近づけぬが道理。

 戦乱なき幕府が治める御世(みよ)にあって、我が国の武器の発達は停滞しております。

 戦は非情なものでござりまするが、一方で様々な武具の発達には功があったのも事実。

 銃砲については、南蛮に一日の長(いちじつのちょう)がありましょう。

 それに伍する武具を備えた戦船で,沿岸を警戒することにより琉球の独立は保たれましょう。」


「宗徳、そのような船が造れると申すのか?」


「はい、作るだけならばすぐにも作れましょうが、それを操る兵を育て、後方で支援する組織を作り上げるには、数年はかかろうかと。」


「ふむ、それができたならば、そなたに四囲の海を任せる大使に任じてもよいな。」


「はて、大使にございますか?」


「幕府の長である将軍は征夷大将軍じゃが、元々は鎮撫(ちんぶ)のための征東大使であって、臨時の任官にしか過ぎぬ。

 役目が終われば、任を解かれるのが朝廷の仕来りじゃった。

 東のみならず、征西大使もあったと聞いておる。

 なれば、海を鎮撫する者として征海大使があっても可笑しくはない。」


「なるほど、面白き考えにござりますなぁ。」


「ふむ、そなたの言う戦船で四囲の海を鎮撫できるようになれば、そなたを征海大使に任ずべく動いてみよう。

 帝もそなたが大使なれば、嫌とは言うまい。

 尤も、儂がそれまで生きていたならばの話じゃが。」


「父上はまだまだお元気にござります。

 喜寿までは御安泰にござりましょう。」


「何、古希を過ぎて喜寿まで生きろと申すか。

 それは如何にも長いのう。

 まだ十五年以上もあるではないか。

 還暦の折に過分な祝いを(もろ)うたが、またまた古希と喜寿で散財させることになるぞ。」


「父上がお元気なれば、多少の散財はこの宗徳請け負いまする。」


「うんうん、頼もしきわが子かな。」

 

 二人は朗らかに笑いあった。

 

 ◇◇◇◇


 その数日後、仙洞御所から日向延岡藩京屋敷、薩摩藩京屋敷、筑前福岡藩京屋敷、それに二条城に使者が訪れた。

 仙洞御所のお子である大納言卿松倉宗徳が婚礼の祝いを兼ねて新妻を伴い日向、薩摩、博多、長崎を巡視行啓されるとの通知を持って現れたのである。


 仮にも先帝である和子の巡啓である。

 京屋敷留守居役は驚愕した。


 京から九州各藩への道のりは遠い、ましてその旅程で様々な賦役(ふえき)を仰せつけられてはたまらないからである。

 が、使者はその件についても付言した。


「大納言卿宗徳様は御正室様と海路、各藩を巡啓なされるので、途中の旅程について気を使う要は無し。

 貴藩においては、巡啓の折に藩侯が領内に居わせば、ご夫妻がお城又は館にご挨拶に伺うであろう。

 此度はあくまで、ご夫妻の修学が目的であり、各地の名所や特産地をいくつか訪ねられるだけに留めるため、一切のお構い無用にて、宿泊先のみ、お手当願いたい。

 なお、伴の者は、公家侍一人、従者一人、女御二名の四名を予定しており、他に船の水夫数名が領内にお邪魔することになる。」


 そうは言われても、巡啓ともなればそれなりの準備をしなければならなかった。

 少なくともこれらの藩において、過去に天皇又はそのお血筋が訪れたことは一度も無かったことなのである。


 ご夫妻の出立は何時かと問うと、十日後に大阪を立たれ、水無月二日には延岡藩、同七日には薩摩藩、同十四日は福岡藩、同二十一日には長崎の予定であると告げられた。

 各藩滞在は概ね三日の予定であり、旅程の都合に応じて短縮或いは延期がありうるとも告げられた。


 いずれにしろ、左程の余裕はなく、藩邸から直ちに国元へ向けて早馬の使者が立った。

 延岡藩は概ね半月、薩摩藩は二十日ほど、福岡藩で一月ほどの余裕しかないからである。


 本来、行幸啓ともなれば往来の道筋の普請などをしなければならないのだが、それらの余裕がほとんどないことになるからである。

 各京屋敷では、すぐにも使者を嵯峨野にある松倉邸に向かわせ、詳細な旅程を得ようとしたが、すぐの応答は無かった。


 ご夫妻で旅程を検討中とのことであり、二日後には決定されてご通知申し上げるのでお待ちくだされと、体よく追い返されたのである。

 こうして三日後には、巡啓の旅程を持った各藩邸の使者が国元へ立ったのであるが、その日は皐月18日であり、延岡藩への行啓までは半月しかなかった。

 

 宗徳と彩華は、皐月29日に京を立った。

 お供は公家侍の緒方佐野助、中間の三次、奥女中である百合と成実の四人である。


 公家侍の緒方は、雑賀忍びである。

 同時に鉄砲の名手でもあり、剣術は無蓋流の皆伝を持った男でもある。


 三次は、陽炎の三次と渾名(あだな)を持った盗人である。

 百合は、ただ一人残った風魔忍びである。


 成美は山窩(さんか)の血筋であり、忍びではないが忍びに匹敵する身の軽さをもっている。

 何れも一端の芸を持った者達であるが、宗徳と彩華には心酔している忠実な配下である。


 百合を除いては、松倉館で数カ月の武芸の訓練を受けていた。

 三次は丈術を習い、緒方は剣術に磨きをかけた。


 成美は手裏剣である。

 長さ八寸ほどの極細の(はり)(はり)を投げるのであるが、十間以内の目標であれば一寸の的に当てることができる腕前である。


 山育ち故に弓矢の扱いも上手いのだが、持ち運びに便利な鍼に変えたのである。

 今回の彩華の旅のお付に成美が入ったことで、お咲は留守番を命じられ、半べそをかいていた。


 お咲は武術の心得がないことから今回の旅には同行できなかったのである。

 そのお咲も小太刀を習い始めており、熟練者に仕込まれていることから或いは旅を終えて戻って来るころにはかなりの腕前になっているかもしれない。


 一行六名は、伏見から川船に乗り、淀川川口に向かった。

 その日は浪速屋で泊まり、翌朝に大阪を出港するのである。


 必要な品は既に船の中に積み込まれている。

 帆船「まつくら」の桟橋は、少し改造されていた。


 船体後部に面する桟橋が階段状に高くなっており、船に乗り込む際或いは荷積みをする際に便利なようにされていたのである。

 淀川は、大阪湾の汐の干満により水位が三尺から四尺ほども上下する。


 そのために幅が三尺ほどの横板が段差を付けて徐々に高くなるように桟橋が作り変えられていたのである。

 一行が乗り組むと、すぐに船は桟橋を離れて川下に向かって進み始めた。


 水夫は、以前大阪から江戸へ旅した時に乗っていた三人に一人加わって四人となっていた。

 部屋は六室あり、十名の者が寝起きするには十分な余裕がある。


 江戸行きと違ったのは、宗徳と彩華が同じ部屋になったことであろう。

 今回は、比較的長旅とあって、浴室も使えるようになっていた。


 尤も浴槽は無く、頭上から如雨露(じょうろ)のように湯を流すだけの場所になる。

 半畳ほどの脱衣室と半畳ほどの湯流しの部屋があるだけである。


 皐月の晦日であるから、外は蒸し暑い炎暑であるが、船の中は戸を閉め切ると涼しい。

 空気を冷やして循環させる道具があるらしく、浪速屋の蒸し暑い部屋で蚊に悩まされながら一夜を明かしたのに比べれば極楽である。


 浪速屋では、二人だけの夜の秘め事も少しの合間に汗だくになってしまい、少し興冷めがしたほどであった。

 食事の用意は、彩華が二人の娘たちに教えることになった。


 船内の台所で見たことも聞いたことも無いような調理道具を扱う彩華を見て、目を白黒させながら百合と成美は食事造りに励んだ。

 その日は帆走で阿波の那佐という南、北、西を陸で囲まれた細長い湾に入って錨を降ろした。


 日向延岡までは二泊三日の旅程である。

 その夜宗徳と彩華は狭いながらも二人だけの部屋で睦み事を楽しんだ。


 宗徳と彩華の部屋の寝台は一つであるが幅が大きい。

 二人が横になっても十分な余裕がある造りになっているのである。


 しかもどういう仕掛けか床が柔らかくよく弾むようにできている。

 部屋は戸を閉め、鍵をかけると音が漏れない構造になっていた。


 ◇◇◇◇


 翌日、水無月朔日(ついたち)は、室戸岬をかわし、土佐湾を横断して宿毛湾に入った。

 柏島と言う島の陰に錨を降ろしたのであるが、そこからは目と鼻の先に日向の陸地があるはずなのである。


 海上およそ十四里ほどで豊後であるが、生憎と視界がよくないために、豊後の山並みは見えなかった。

 明け六つに宿毛湾を出港すれば、延岡藩の港がある五ヶ瀬川河口には早ければ午の刻、遅くとも八つ時には着けると言う。


 そこから延岡城のある城下町まではおよそ一里ほどである。

 二日払暁(ふつぎょう)と共に宿毛湾を出た船は一路延岡に向かった。


 風は南東から吹いており、船は終始左から風を受けながら順調に進んだ。

 水夫の頭である船頭の秋蔵(あきぞう)は、一刻で六里ほど進んでいるという。


 人が歩くのは一刻で二里ほどであろうか。

 速い人は二里半ほども歩くと言うが、その倍以上の速さと言うことは駆け足で走っているのと同じである。


 飛脚といえど、一刻で十里も走れないだろうし、仮に走れたとしても、息も絶え絶えになってそれ以上は無理であろう。

 馬はこれよりも早く駆けることはできようが、同様に一刻も走り通すことはできないはずである。


 従って、船は素晴らしい速さで進んでいることになるのだ。

 延岡の港に着いたのは、ちょうど午の刻であった。


 延岡の港には当然のことながら「まつくら」のような大きな船がつけられるような桟橋(さんばし)はない。

 港に入る際には、赤紫に白抜き陰十二菊の旗が帆柱に掲げられた。


 これが各藩を訪れる際の目印なのである。

 桟橋の沖合で錨を降ろして待っていると、数隻の小船が近づいてきた。



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