3ー3 加賀藩邸での彩華 その二
五日後、かがりと言う女人がお雅に連れられ彩華の前に現れた。
おかねを筆頭に彩華姫お付の女中が一堂に会する中で彩華に挨拶をなしたのである。
「此度、加賀七尾の里より出府して参りましたかがりにございます。
七尾山奉行長谷川憲正殿の娘にて今年十七にあいなりました。
姫様の新たな付け女中としてお側に仕えることになりました故にどうか良しなにお願いいたします。」
お雅がそう言ってかがりを紹介した。
かがりは少し日焼けした肌ではあるが、目鼻立ちのすっきりとした美人である。
身長は、五尺余りでさほど大きい方ではないが、お咲よりは僅かに背が高い。
「かがりにございます。
田舎者故、江戸の事は無論、藩邸の事は何もわかりませぬ。
宜しくお引き回しをお願い申し上げます。」
楚々とした矢絣のお仕着せを身にまとった姿からは、忍びの者と言う推測はつかない。
おそらくそのことを知っているのは、藩邸内でも極僅かの者に限られるのだろう。
その日からかがりはお咲と共に、彩華の身近にいる付け女中となった。
翌朝、彩華がいつもの早朝稽古を始めるときには、かがりはお咲と共に縁側に正座して彩華の稽古を見守っていた。
尤も、朝稽古は彩華一人ではなかった。
騒動のあった翌々日、二人の若い藩士が朝稽古に出た彩華の前に片膝ついて「叶うならばご一緒に稽古をさせていただきたい。」と申し出たのである。
彩華に断る理由は無かったので、ともに稽古することを許した。
二人の若い藩士は、彩華のすることを真似するだけであり、彩華の稽古の邪魔はしない。
その三日後には更に二人の藩士が増え、途中でさらに増えたので、その日、かがりとお咲が見守るお庭先には都合七名の若い藩士が、黙々と稽古に励んでいる。
彼らの間に会話はない。
新たに参加する者が最初に許しを願うだけであとは終始無言である。
気合すら発しない静かな鍛錬風景である。
だが、そうした中にも斬撃の際に湧き上がる風切りの音が、腕の違いを明確にさせる。
彩華よりも体格の優れた男であっても、明らかに斬撃の際の風切り音に違いがある。
初めてその様子をみたかがりは、目を丸くして驚いていた。
若い藩士の倍ほどの速さで剣が切り下ろされる一瞬は、背筋が凍りつくような感覚にさえ襲われる。
武芸を知る者は、その鍛錬風景を見ただけで彩華の業前に尋常ではないものを感じ取れるはずであり、かがりはその域に達しているくの一でもあった。
まして周囲にさほどの腕を持たない若い藩士が一緒に稽古をしていれば、彩華の一振りが際立って見えるものである。
その後は何事も無く、彩華が加賀藩邸に入ってから一月ほどが過ぎていた。
その間に数々の習い事を為していた彩華であるが、お雅が奥方である清泰院を通じて綱紀にその様子を報告した。
「彩華姫様には、当家に仕える者から御教えできることは早無くなりました。
姫様は、何事につけ、呑み込みが早うございます。
奥方様がお教えになる書道は無論のこと、茶道、琴、華道、香道など姫様がお知りになるべき素養は既に卒業なされ、仮にこれ以上のものをさせるとなれば、相応の、いえ、当代一流の師匠をお招きせねばなりますまい。
姫様は忍びの賊を討ち伏せたほどの使い手にございますれば、小太刀は言うに及ばず薙刀にても当家に敵う者はもはや居りませぬ。
半月に一度は、必ず宗徳殿宛に文を書いておられまするが、宗徳殿からも同じく半月ごとに文を寄せられる由、ご両者ともに感心するほどにまめな性格にございます。
更には、姫様には余り似つかわしくはござりませぬが、裁縫なども良くご存じの様子にて、繕いなどしているお針子女中が最近は足繁く姫様にお教えを乞うている様子にございます。
刺し子などは、それはそれは見事なお腕前、先だって姫様がお暇に任せて作ったという刺し子の袱紗を出入りの呉服屋越前屋に見せたところ、越前屋がこの職人を是非雇いたいと申し出る始末。
まさか姫様がお造りになったとは言えず、金沢の職人が作ったものですが腕は如何でしょうかと訊ねますと、
『日本橋界隈にいる職人に比べてもまずは一級の品、間違いなく五本の指に入りましょう。刺し子が丁寧になされておりまする上に意匠が素晴らしい。
単なる袱紗にはござりまするが、売りに出せばまずは五両から十両ほども値が付きましょう。
吉原に持ち込めば或いはその倍以上の値が付きましょう。』
と教えてくれた次第。
姫様には水墨画の心得もおありのようで、時折庭先で季節の花や鳥などを描いておりまするが、それはもう驚くばかりの腕前にござります。
先日御挨拶に訪れた狩野派の師匠も奥方様が頂戴した絵を見るなり、ウーンと唸られまして、
『これほどの腕のある者なればさぞかし著名な方であろうが、あいにくとこの作風を儂は初めて見ました。一体どなたがお書きになられましたのか?』
と訊ねられ、彩華姫様がお書きになったと聞いて二度驚いておられました。
『これほどの腕を持つお方なれば、一流派を立てることもできましょう。
それが前田家のお姫様とは・・・。いや、流石に百万石の御家柄、良き才能をお持ちの方がおられます。』
と盛んに感心されておりました。
姫様のお人柄は、目上のものをよく立てておいでですし、目下の者を決して見下したり致しませぬ。
何事か不都合があった場合も、叱りつけたりなさらず、良く事情を聞き、何が原因であったのかをその当人と共に探し、その上で適切な対処法をその者と一緒にお考えになります。
複数で検討したものが一人で考えたものよりは良くできているのが当たり前、そうして得た対処法は当の本人が決して忘れたりは致しませぬ。
さらに姫様は、一度ご挨拶をした者の顔と名前をよく覚えられているご様子。
門番や庭師なども、二度目には名を呼ばれてご挨拶をされてゆく彩華姫様に感心をしています。
この一月余りで、この藩邸に住まいし者の七割から八割は姫様がご存知かもしれませぬ。
姫様を慕う者は日に日に増えており、姫様の噂を知らぬものはまず当家では居りますまい。
聞くところによれば、お殿様がお許しになられた朝餉前の稽古には、仕事の都合もあって日替わりになりまするが、御一緒に稽古する若い藩士が、既に二十人を超えているとか。
真剣を持ってのお稽古故に、一人一人の間合いを十分に取らねばならぬため、姫様御寝所のお庭先をはみ出して別の御庭にまで掛かっているご様子。
尤も、剣術道場のような気合を発しませぬが、周囲には異様なほどの緊迫感が漂うと見たものは申しております。
これも若い藩士が自発的に申し出て姫様と共に稽古をしているのであり、仕事に支障がない限り問題はないと思われます。
それに、以前に比べ若い藩士に活気が出て参ったと聞き及んでおりまする。
姫様の稽古は、最初に剣を構えたまま微動だにせぬことから始められます。
そのことで姫様が何も言わずとも、若い藩士は身を持って基本が大事であること、刀を意のままに操るには体力がいることを知ったようにございます。
そのことが他の部分にも生きておるようなのでございます。
何事につけ真剣に取り組むようになり、些細なことに失敗がなくなりました。
おそらくは基本が第一とそれぞれが初心に立ち返った所以ではないかと存じております。
これも彩華姫様の成し遂げたる隠れた成果と思われます。」
この報告を受けて、綱紀は大いに満足し、新たに三人の師匠を彩華につけた。
琴の師匠として生田検校の高弟佐野検校、絵師として狩野派絵師英一蝶、華道の師匠として池坊専好の高弟畠山周山が選ばれた。
何れも綱紀と知己のある者で、その縁で師匠として招かれたものである。
三人は。いずれも彩華と会ってその才能に驚かされ、彩華もまた啓発された。
三人はそれぞれがひと月に一度か二度の訪問であったが、師匠、弟子ともその訪問を心待ちにしていた。
師走に入って藩邸内も何かと気忙しくなってきた頃、彩華は先月半ばまで琴の師匠であった奥女中の美枝にかがりを加えてお琴の稽古を毎日半時ほどするようになった。
但し、少し風変りな稽古であった。
彩華が奏でているときは他の二人は弦に布を置いて音が出ないようにして爪弾いている。
同じように美枝か、かがりが弾いているときは他の二人が音の出ない稽古をしているのである。
一人が弾いているだけでも中々に良い調べではあるものの、幾分間合いが開くことがあって妙な調べである。
師走も押し迫った二十五日、来春には年季明けとなる奥女中や下働きの女中衆が揃って挨拶に来た。
その数五十名ほどにもなる。
そうして入れ替わりに来春から新たにお抱えになる奥女中と下働きの女中衆が挨拶にやってきた。
その数は四十名ほどであり、数が少ないのはこの時期の来訪ができなかった者十名ほどがいたからであり、新年には改めて挨拶に来る手はずになっている。
彩華は、その中に鋭い視線を浴びせる者がいることに気づいていた。
下働きの女衆の中に混じっている。
かがりと同じく日に焼けた肌を持つ小柄な女であり年の頃は彩華と同じか少し上かも知れない。
一人一人名前を呼んでいたのでは、時間がかかりすぎることから挨拶はその他一同になってしまうので不明である。
特に下働きの女中は普段奥に入ることも滅多に許されないので、名前も知らぬままで年季が明けることもままあるようである。
それでも彩華は、機会があれば必ず名前を訊ね、顔と名前を覚えるように心がけている。
従って今日挨拶にきた年季明けの女衆の名は全て知っていた。
新年を迎えても朝餉の前の日課は変わらなかった。
元旦の朝餉の後に最初になすべきことは、養父母への御挨拶であり、義兄への挨拶である。
綱紀は元旦から正月三日の間は登城し、城内で過ごすことになっている。
そうして正月四日からは加賀藩縁の大名、小名、若しくは縁者が新年の御挨拶に訪問してくるのである。
その応対に彩華も駆り出されて奥座敷で接待を受け持つことになる。




