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仇討ちの娘  作者: サクラ近衛将監
第二章 共に生きるために

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22/48

2-4 岡崎から京へ

 長らくご無沙汰しております。

 概ね半年ぶりの投稿になりました。

 実のところ、今年正月に急病となり、救急車で病院に運ばれる事態になり、その後概ね一月の入院となりました。

 退院後、入院生活の影響なのか一向に創作意欲が湧かず、自宅療養と長めのリハビリをしておりました。

 一応、普段の生活に戻ったのは三月に入ってからのことでしたが、一向に執筆の意欲が生まれず、このように半年の御無沙汰になってしまいました。

 徐々に、創作活動に復帰しようとは思っていますが、すっかり《《何もしない》》という怠惰な生活に慣れてしまい、戻るのにはかなりの努力が必要なのです。

 少々復帰が遅くなりましたが、温かい目で見て下さるとありがたく存じます。


 By サクラ近衛将監



 松倉の物言いに、ぎょっとして、郁代が訊ねた。


「何と、四十人近くのお子がいたと・・・・。

 一体、側室は何人おられたのか。」


「さて、二十人もおられたのではないでしょうか。

 私もあまりよくは知りませぬ。」


「ようも、そのような戯言ざれごとを・・・。

 その御兄弟姉妹たちは今何をされておられますのか?

 そなたと同じように浪々の身ですか?」


「私を含めた四人を除いて、男子は出家させられました。

 女子はそれぞれ嫁に参ったかこれより参ることになりましょう。」


「そんなことがあろうはずもないではございませぬか。

 世迷いごとを申されますな。」


「母上様、松倉様の従兄妹殿は、寛永寺管主として江戸に居られます。

 御兄弟の一人は、閑院宮かんいんのみやを名乗られ、今一人は有栖川宮ありすがわのみや、今一方は今上きんじょう天皇にございます。」

 

 郁代は何の話をしているのか、暫くわからなかったようだ。

 余りに予想もつかない話は時として人の思考を止めてしまう。


 だが、ふっと我に返った郁代である。


「彩華、・・・そなた、まさか、私を担いでいるのですか?」


「母上をこのような話であざむいても何の得にもなりませぬ。

 松倉宗徳様は先帝であらせられる上皇様のお子であり、正三位大納言の官位をお持ちでございます。

 そのことは、我が藩のお殿様が松倉様をみてご確認なされてお出ででございます。

 何でも、お殿様が奏者番そうじゃばんを務めなされし頃、仙洞御所にて松倉様とお会いなされたそうにございます。

 宗長が江戸を出立する際に際して、ご挨拶に同道した折、江戸上屋敷でお殿様はそのことをお話下されました。

 但し、そのことを知っているのは岡崎藩でも極々限られた人でございます故、母上様も他言無用にございます。」

 

 郁代は途端に真っ青になり、おこりが来たようにぶるぶると震え始めた。

 慌てて立ち上がると縁側の廊下に急ぎ足で走り出て、そこに平伏した。


「知らぬこととは申せ、御無礼の段、平に、平にお許しくださりませ。」


 廊下の板の間に額を擦り付けるように母の郁代が詫びを繰り返した。

 宗徳がびなど無用のことと言ってもなかなかその場を離れず、止むを得ず宗長と彩華が二人で郁代を座敷に連れ戻す羽目になった。


 暫くして漸く落ち着いた郁代が口にしたのは、松倉の身分を親類の者に告げてもいいのかということであった。

 松倉はできれば内緒にしてほしいと告げたのだが、それはそれで後々困ることになるのは目に見えていた。


 だが、翌日にはお城からわざわざ城代家老橘嘉右衛門が斯波家を訪れたのである。

 座敷に通された城代家老は、主君である水野忠之の名代として斯波家に来たのである。


 宗徳と彩華の婚約成就を祝い、かつ松倉宗徳に彩華が嫁するためには斯波家の家格では不十分であるとし、彩華は一旦水野家の養女となり、そこから松倉にするようにと内意を伝えてきたのである。

 その上で城代家老は状箱で運ばれてきた水野忠之の署名入りの文を斯波家に置いて行ったのである。


 藩侯の上意は藩に属する者にとっては至上のものであり、逆らうことなど当然あり得ない。

 斯波家は親類に対して松倉の身分を隠したまま申し開きができる証を手に入れたことになる。


 そうして二人の婚約のお披露目になる斯波家親族が集まった宴で更にもう一つの思いがけない波乱があったのである。

 岡崎へ早馬が到着し、その半時後に城から名代で勘定奉行の早瀬左近が斯波家を訪れた。


 彩華の水野家養女の一件は取り消しになり、代わって加賀前田家百万石の養女となることが決まったというのである。

 水野家から養女の件を幕府へ上申したところ、将軍側近の間で問議され、上皇子息との婚儀なれば岡崎藩五万石でも不釣り合いとされ、一度は将軍家の養女としてはどうかという意見もあったが、七代将軍家継は僅かに四歳であり、その養女というのは如何に形の上だけとは言っても不自然であった。


 ために、幕閣の要人たちが幾度か協議を成した後で結論を出したのが加賀前田家の養女であった。

 件の加賀前田家当主である前田綱紀公は御年七十歳であるが未だ矍鑠かくしゃくとしており、たまたま参勤で江戸表にいた前田公は幕閣からの要請にすぐに応諾した。


 加賀前田としても仙洞御所によしみを通じておくのもやぶさかではないと考えたのである。

 その知らせが江戸岡崎藩邸へ届き、更に岡崎城へと早馬でもたらされたのであった。


 集まっていた親類縁者一同はこの知らせに驚いた。

 無論、松倉の素性を知らない親族であったが、五万石の若年寄を務める藩主では足らず、御三家にも匹敵する中将前田家の養女にするとは、前代未聞のことであるからだ。


 ◇◇◇◇


 加賀前田家には二代将軍秀忠の娘が嫁いでおり、前田綱紀公の生母清泰院がそうである。

 すなわち将軍家とも縁戚の関係にあるため外様大名としては別格の扱いを受けている大名なのである。


 加賀百万石の娘でなければ釣り合わないとは、松倉宗徳とは一体、どのようなお方なのかと皆がいぶかった。

 元々藩侯が僅かに二百四十石の斯波家の娘を養女にすること自体が異例中の異例であるのに、その決定を覆して、なお百万石の名家の娘としなければならない理由など将軍家の御落胤ごらくいんであってもそうそうは無い筈であるからである。


 驚きながらも斯波家の隆盛に目を見張り、うらやむ話ではあった。

一方、斯波本家も戸惑いながらも、この養女話を断るわけには行かなかった。


 何しろ、藩侯からの上意が込められた話である。

 宗徳も周囲のそうした行きすぎるほどの騒ぎにいささか戸惑った様子であったが、すぐに京へ上って父母に了承を貰い、その足で江戸に下って、岡崎藩上屋敷、更には加賀前田の上屋敷へ挨拶に赴くことを決断した。


 いずれの藩侯も江戸在府中であるからである。

 その旨を水野忠之、前田綱紀など関係先へ文で知らせるとともに、神無月五日、用人吉野三郎兵衛と女中のお咲、それに新たに雇い入れた中間の八太やたを伴い、彩華と共に岡崎を発った。


 吉野とお咲は、郁代が前田家息女となる彩華の世間体をおもんぱかって是非につけて欲しいと懇願したものであり、中間八太は松倉が岡崎で雇った旅の間の日雇い中間であるが、岡崎から京都、さらには江戸までの旅の間はこの三人がついて回り、お咲と八太は彩華が前田家に預け置かれる間の伴人ともびとになることになっている。

 岡崎から京都までは十六の宿場があるが、彩華と松倉の一行は、十日かけて京都に辿り着いた。


 女中のお咲は旅慣れていなかったことから、周囲が気遣ってゆっくりとした旅であったからである。

 一行が落ち着いた先は、京都伏見にある松倉屋の寮である。


 地元の者からは仙水寮として知られている屋敷であり、およそ二千坪の敷地に池を配した立派な庭園を持っている。

 ここに松倉宗徳の母千代が四人の女中、三人の下男と共に住んでいる。


 彩華はその奥座敷で初めて千代と会った。

 千代は仙洞御所の上皇の愛人でありながら、公家風の衣装は着ておらず、ごく普通の町屋の妻女の扮装であったが、細面のすこぶる美人であった。


 四十に近い歳のはずであるが、彩華の母郁代よりも随分と若く見える。

 挨拶を交わし、色々と話かけられたがそのいずれもが優しい気遣いに溢れたものであり、すぐに彩華の大好きな人の一人になった。


 彩華と宗徳の婚約についてもすぐに同意してくれたのであるが、水野家及び加賀前田家の養女の話には少し眉を潜めた。


「そうどすかぁ・・・。

 若年寄水野様や中将前田様のお手を煩わせてしまったのやねぇ。

 手放しでは喜ばれへんのやけれど、・・・。

 まぁ、明日、御所に参って父上様にご報告に参りまひょ。

 父上様もお断りにはなれへんと思うのやけれど。

 何ぞ、ご指示があるかも知れまへんなぁ。」


 翌日、千代は宗徳と彩華を連れて仙洞御所を訪れた。

 仙洞御所の主、霊元れいげん上皇は、形の上では元禄七年に東山天皇に実権を譲っていたものの、それまでの院政を通じて朝廷内に大きな権勢を持っており、たびたび朝廷政治に口を挟むことも多かった。


 正徳三年葉月に落飾らくしょくして法皇になっていたが、その権勢は以前と変わらず、朝廷内で大きな発言力を有していたのである。

 幕府と言えども霊元法皇の政治力には一目も二目も置かざるを得なかったのが当世の実情であった。


 仙洞御所に赴いた三人はすぐに法皇との面会にこぎつけた。

 母千代から昨日の内に使者が立てられ、その日の訪問が告げられていたからである。


 宗徳と彩華の婚約については我がことのように喜んでくれた法皇であり、彩華の立ち居振る舞いを見て気に入った様子でもあった。


「ふむ、宗徳の許嫁でなければ、陳が手を出していたやも知れぬのぉ。

 中々に宗徳も良い趣味をしておるわ。

 で、嫁入りの予定は立っておるのか?」


「いいえ、それはまだ。

 幕府があれこれと世間体を気にしているようで、彩華を一旦は岡崎藩水野家の養女とした上で、即日加賀前田家の養女とするよう取り計らっております。

 岡崎藩の僅か二百四十石の陪臣にしかすぎぬ斯波家の家格では、私につり合いが取れぬと考えたようにございます。」


「なるほど、将軍家は未だ幼いでな。

 将軍家の養女は無理であろう。

 また尾張、紀伊の両家もちと拙かろうのぉ。

 尾張と紀伊の徳川殿はいずれも病に臥せっておられるし、水戸殿も格が下がる分遠慮したのであろう。

 それにしても加賀百万石を引っ張り出すとはおごったものよ。

 彩華、そなたは随分と高い買い物になるやも知れぬのぉ。

 まぁ、可愛い宗徳の嫁になる女子おなごじゃ。

 少々高い買い物でも無理をしなければなるまいて・・・。

 宗徳、そなたが金を出した商いの方はうまく儲けておるのかえ。

 儲けが出ておるなれば、無理をしても結納金を多少弾め。

 公家の貧乏たれと言わせぬだけの結納をして見せよ。

 生憎と陳は金を持ってはいないでな。

 不足なれば、千代か、あるいは松倉の爺様に頼むがいい。

 千両ぐらいならばなんとかなるであろう。」


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