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仇討ちの娘  作者: サクラ近衛将監
第二章 共に生きるために

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2ー3 岡崎にて

「さようか。

 なれば、出立は明後日といたそうか。

 その前に、水野和泉守殿にご挨拶をして参らねばなるまい。

 明日は、岡崎藩の上屋敷に参る。

 水野殿は、御用繁多故お会いできぬかもしれぬが、江戸家老又は留守居役にお話だけでもして参ろう。」


 こうして、松倉と彩華の江戸旅立ちが(にわ)かに決まった。

 若年寄水野忠之は生憎と登城中にて挨拶はできなかったが、江戸家老西脇に挨拶をし、彩華との正式な婚約を知らせた。


 西脇は藩侯が戻られたならば必ず伝える旨約し、同時に国表で起きた不祥事について、あらましが国家老橘から書状が届いていると話してくれた。

 それによると、密輸絡みの一件で城代家老と御蔵奉行の家禄が大幅に減じられたことに一族が逆恨みしての犯行であったとの事であり、その矢面に立ったのが仇討本懐を遂げて家禄が増えた斯波家であったらしい。


 両家の世継ぎが参画していたわけではなく、その郎党どもが勝手に動いたというのが真実の様であるが、続けて起きた不祥事に監督不行き届きとして、両家とも家禄没収の上、領内所払いの仮沙汰がなされたようである。

 既に藩侯の了承も得られ、正式の通知が岡崎へ向けられているという。


 一つには十五歳という青二才が、二百四十石の家禄で召し抱えられたことに対するやっかみであり、なおかつ、若干十五歳の宗長に塩崎勘兵衛ほどの腕達者が討たれるはずがないという不満もあったようである。

 ために、宗長の評判憎しとの一念から起きた事件の様である。


 確かに国表を出た折の宗長ならば、間違いなく塩崎の敵ではなかったはずである。

 まして、目黒の下屋敷において仇討の際に斬られた藩士が大勢いることは、岡崎藩では外に漏らしてはならぬ大事ではあったが、藩内のしかも城代に通じている者達の間では公然の話であった。


 その中に浪人の助太刀一人がいたことは伝えられていても、話としては彩華と宗長がそれらの者達をも切り捨てたこととして伝わっていたのである。

 従って部門の意地にかけても宗長と弥吉を倒すとの意気込みであったらしく、卑怯(ひきょう)にも弓矢や槍までをも用意していた。


 だが、それを逆に返り討ちにした弥吉と宗長の武名は岡崎に鳴り響いているという。

 長月15日、明け六つに彩華と松倉は伝馬町の白木屋を出立した。


 白木屋は六郷(ろくごう)の渡し場までお芳や舞と共に見送りに同行した。

 この時代、人通りの多い東海道とはいえ、旅をするのは危険であり、ために知人はわざわざ見送りに同行するのが普通であった。


 品川ぐらいまでは当たり前で、六郷の渡しが一応の区切りとなっていた。

 品川では中屋敷用人須藤が数人の伴を連れて見送ってくれた。


 どうやら水野忠之の意を受けてのことらしい。

 路銀の足しにと餞別までも用意していたのである。


 松倉も彩華も裁付袴(たっつけばかま)、道中羽織に菅笠の出で立ちであり、一見したところは男二人の旅姿に見えるはずである。

 岡崎に二人で向かうことは飛脚便で前日に先触れさせているし、道中手形も藩邸からいただいている。


 岡崎藩にいたるまでには、東海道五十三宿のうち、三十七番目の藤川、三十八番目の岡崎の宿場があり、岡崎城下は無論岡崎宿にある。

 順調に行けば、十日から十二日ほど、遅くとも半月あれば到着する。


 尤も、大井川で川止めに逢ったりすると、かなりの日数を宿で待機することで余儀なくされる場合もある。

 幸いにして小雨程度の天気は一時的にあったものの、道中は至って平穏であり、二人は保土ヶ谷、平塚、小田原、箱根、沼津、蒲原、鞠子、日坂、浜松、白須賀、御油宿を経て、長月二十七日(うま)の刻限には岡崎城下に入っていた。


 暦の上では初秋になるが、その日は炎暑であった。

 彩華も噴き出す汗を拭きながらの旅であったが、体調を狂わすことなく無事に故郷の我が家の門前に立った。


 だが、茅葺(かやぶき)屋根の小さな門は閉まったままであり、屋敷に人の気配がなかった。

 周辺は武家屋敷であるが、生憎と道を通る者も見かけなかった。


 彩華は何故の不在なのか不安になったが、隣家の御番衆である坂井正三郎宅の門を叩いた。

 坂井正三郎は家禄百石の番方であり、隣家ということもあり父の重四郎とは懇意にしていた。


 無論彩華も坂井家の者とは顔見知りである。

 坂井家中間の芳蔵(よしぞう)(よしぞう)が顔を見せ、彩華の武家姿を見て驚いていたが、すぐに斯波の家が城により近い大手町に移ったことを教えてくれた。


 新たな屋敷は先の城代家老の一派であった御蔵奉行所の与力三杉(みすぎ)庄之助(しょうのすけ)の拝領屋敷であった。

 与力三杉庄之助もまた抜け荷の片棒を担いだ罪を問われて、家禄没収の憂き目にあった者の一人である。


 城代家老と御蔵奉行は切腹の沙汰が降りたものの、その子には家督相続が許されたのだが、与力三杉庄之助には家督を継ぐべき子がいなかった。

 親族から養子を貰って家督を継がせる話もあったのだが、当の親族が養子縁組を断ったのである。


 一つには三杉家の家禄三百石が五分の一にまで減封されることが予めわかっていたからである。

 三杉家親族はいずれも百石以上の家柄であり、その矜持と重罪人の家督を継ぐ一事が縁組を断らせたのである。


 かくして、三百石以上の家督を有する者に与えられるべき拝領屋敷が空き家になったのである。

 新たに城代家老となった(たちばな)は、斯波家に白羽の矢を立てて、その拝領屋敷に移転するように命じたのである。


 このために、長月十七日、斯波家は郎党ともども大手町下手にある六百坪の屋敷に移り住んでいたのである。

 斯波家では、転居先を江戸伝馬町の白木屋に知らせたが、生憎と文は行き違いになった。


 長月二十三日には斯波家に彩華の文が届いたが、東海道の途上にあった彩華達にその知らせが届くはずも無かった。

 とにもかくにも、彩華は岡崎大手門下手にある元三杉家の屋敷に向かった。


 岡崎藩侯の菩提寺でもある照雲寺の近くに新たな斯波家の屋敷はあった。

 大きな冠木門(かぶきもん)が屋敷の大きさと家格を表している。


 ちょうど門前を、江戸で雇った若い中間の国三が水を()いていた。

 昼時を過ぎたあたりで道は乾ききっており、撒く水をすぐに吸い取って蒸発していた。


 国三は近づく二人を見てすぐに気付いたようである。

 彩華と松倉は江戸表で国三に二度ほど会っていた。


 松倉の口利きで斯波家の新たな従者と中間を雇うことができたからである。

 伴侍は吉野三郎兵衛という浪人の次男坊であり、仕官先を探していた十八歳であるが、同じ浪人の伝手で松倉から仕官を勧められた。


 陪臣ではあるが、主は若干十五歳ながらも二百四十石の高禄取であり、下手な御家人の従者になるよりはましである上、江都(こうと)で一時は有名を馳せた仇討の当人と知って仕官を決意した。

 国三は、仕えていた御家人が米相場に手を出して金繰りで失敗し、御家人株を売り払って浪人となったために失職した三河出身の二十一歳の中間であった。


 五年務めた家をあっけなく追い出され、故郷の三河に帰ろうかと思っていた矢先に、松倉の知己の者が世話してくれたのである。

 国三が家の中に大声で知らせに走ると、すぐに母の郁江と乳母の小夜それに見知らぬ若い女中二人が玄関先に出迎えた。


 少し遅れて宗長と弥吉も顔を見せた。

 弥吉は少し右足を引きずっていたし、宗長も左腕に包帯を巻いていたがいずれも元気そうであった。


 玄関先で改めて挨拶を交わし、二人はすぐに奥座敷に案内された。

 その座敷の席で少しもめる騒ぎがあった。


 宗長が上座に松倉を座らせようとしたのだが、母郁代が斯波家当主である宗長が上座に座るべきと言って譲らなかったのである。

 どうやら郁代には松倉の本当の身分は言っていなかったようである。


 そうしている間にも当の松倉はさっさと下座に座っていた。

 苦笑しながら宗長は床の間を背に上座に座ったのである。


 女中の二人が茶を用意して持ってきたのを皮切りに母郁代が口を開いた。


「当家は、代々水野家に仕える三河(みかわ)譜代の家柄にございます。

 聞けば、松倉様は亡き夫斯波重四郎の仇を討つ際に、彩華の許嫁として宗長及び彩華の助太刀をお申し出下された由。

 その事、誠にありがたきご助成と感謝申し上げ、厚くお礼を申し上げます。

 なれど、彩華との許嫁の段、斯波家には正式のお話がないまま進められておりまする故、私は納得が参りませぬ。」

 

 彩華が口を挟もうとすると、それを(さえぎ)って郁代が続けた。


「彩華、そなたの嫁入りの話は斯波家の問題にございます。

 未だ私の話は終わっては居りませぬ。

 後でそなたの言い分も聞きます故、黙って聞いておりなされ。」


 それでもなお抗弁しようとする彩華を松倉が身振りで制した。

 それを知ってか知らずか、郁代が話を続けた。


「斯波家も宗長が仇討本懐を見事成し遂げ、家禄二百四十石に加増の上、この冠木門を擁するお屋敷を拝領する家柄になりました。

 その斯波家の娘を何条(なんじょう)、仕官も叶わぬ浪人である松倉様に差し上げることができましょうや。

 そのようなことを許せば、斯波家一族にも亡き夫にも顔向けができませぬ。

 どうかこの縁談は破談としてくださりませ。

 無論、それはそれとして仇討助成のお礼は別途十分にいたしまする。

 この点、松倉様には是非ともお聞き届けくださいますように願います。」


 多少の波乱は予期していたものの、のっけから辛辣(しんらつ)な言葉が飛び出した。

 松倉は鷹揚に問うた。


「はて、郁代様には、娘御(むすめご)の縁談につき、如何様な話なれば受けられましょうや?」


「無論、斯波家の家格に相応しき相手ならば受けられまする。」


「斯波家の家格に相応しき相手とは、例えばどのような相手にございましょう?」


「二百四十石程度又はそれ以上の家禄を戴く武家にございましょう。」


「たとえば御三家或いは将軍家からの縁談なれば如何でしょうか?」


「そのような馬鹿な話があるはずもござりませぬが、仮にあるとすれば側室の話でしょうか。

 それなれば当然にお受けいたしまする。」


「何故に、正妻を望まれませぬのか?」


「女の幸せとは、正妻のみならず高貴なお方の側室であっても叶うものにございましょう。」


「左様ですか・・・。

 私の経験から申せば、確かに妾でも母は幸せそうではございましたが、我が父の側室が全て幸せだったとは思えませぬ。

 私には異母兄弟が十八人、また同じく異母姉妹が二十一人ございましてな。

 そのうち半数は幼少時に身罷(みまか)りましたが、・・・。

 生き残った者も左程幸せな暮らしをしているとは申せませぬ。」



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