待つ恋
カチカチカチ……
左手首の小さな時計が静かに時を刻む。
静かな喫茶店の窓際の席。
独り座り道路を眺めて、人通りに『彼』の姿を探している。
コーヒーカップを両手で包み口をつけるとハワイコナの強い酸味が広がった。
人は人生で三回、真剣に待つという。
私は何度、待っただろうか?
『彼』はまだ来ない。
初めて『彼』に声を掛けられたのは大学の図書館だった。
「ねえ、西洋哲学概論を履修してるよね?」
西洋哲学概論は期末に粗末な作文だけを出せば単位が取れる人気の講義で、いつも死にそうな顔の男と、下を向いてひたすら書き物をしている女と、『彼』と私の四人しか出席していなかった。
『彼』は大覚 慧といった。
スキニーフィットのスラックスに紺色のジャケット。ショートウルフの髪から覗く控え目なピアスと、大人びたナチュラルメイクに惹かれた。
ダイガクセイの身分に浮かれず、ダイガクで浮いていた私たちはすぐに仲良くなり、そして私は恋に落ちた。
人を好きになるのにどんな理由が要るのだろう?
大きな目が好き。高い身長が好き。硬い手が好き。ストレートの黒髪が好き。花のような香りが好き。ため息が好き。見下すような視線が好き。奢ってくれるのから好き。他人の羨望を集めるから好き。馬鹿だから好き。流行りの服を着てるから好き。ドライブできるから好き。慰めてくれるから好き。いつ電話しても怒られないから好き。突き放すから好き。グズだから好き。嫉妬するから好き。可愛いから好き。胸が大きいから好き。身長が高いから好き。抱っこできるから好き。音楽趣味が合うから好き。遠くを見つめる横顔が好き。男装姿が似合うから好き。手料理が美味しいから好き。ソバカスが好き。博識だから好き。上手いから好き。汗の匂いが好き。守ってくれるから好き。稼ぎが良いから好き。いつも無理してるから好き。一緒に泣いてくれるから好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き。好き……
要するに好きになる理由は一つじゃないってこと。
慧を好きになった理由は……、忘れた。
出会ってから一ヶ月後。
突然の夕立。研究棟で雨宿り。
慧は私を抱き寄せるとキスをした。
初めて触れた慧の唇は柔らかくて、
鼻にかかる息がくすぐったかったけど、
私は夢中で慧を離さないように手を掴んだ。
異なるパフュームが混ざり合って、
噎せ返る甘ったるさとなり、
吐き気を催す目眩を覚えて、
慧の温かくてフワリとした胸に沈んだ。
私の忘れられない思い出。
カランコロン……
入口のトビラが開く音がして『彼』がこちらに向かってきた。
「待った?」
ベージュニットの上に萌黄のチェスターコートを羽織っていた。今日は『彼』ではなく、慧だった。
「ううん、全然。それより今日のコーデ、似合うじゃない」
「ふふ、ありがと」
「今日は猫の日なの?」
「そうゆうことニャーン」
慧は私の腕に絡みつき、薄く微笑んだ。
慧の香りが目眩を誘う。
二人の関係に答えが出るのか分からないけど、
私はいつまでも待てるわ。
たとえ明日、生命が尽きると分かっても、
恋の答えを待つことは難しくない。
これはまだ愛ではない、恋の物語。