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あの生と死が別たれる一瞬の時、米兵の気紛れとも思える感情の揺れが彼を救った。
折り重なる無惨な遺体と瓦礫。もはや見慣れた光景に何の表情も浮かべず、兵士たちは倒れた者を一人ずつ検分して行き、呻く者には容赦のない止めの一発を与える。それが女であろうが子供であろうが変りはない。つい先程も彼らの仲間が女と言うことで油断したツケを払わされているからだ。情けは死を呼ぶ。敵は捕虜など捕らない。ここは完全な殲滅戦の戦場なのだ。
その兵士は二十歳を迎えたばかりだった。湘南海岸第二陣の一員として上陸、三日間の待機の後、いきなり激戦の横須賀正面の戦線へ投入され地獄の一週間を経験する。たった十日で彼は倍の二十年は老けた感じがしていた。寝ても覚めても喜怒哀楽の感情が一切湧いて来ないのだ。
バンザイを叫びながら、武器らしい武器も持たずに突撃してくる敵。十歳程の子供が竹槍を翳す姿に驚愕し、その子供を表情も変えずに射殺する友軍の軍曹に絶句したのは序の口だった。あの時、出刃包丁を竹竿に括り付け鬼の形相で彼に向ってきた老女。思わず目を瞑って銃剣を突き刺す。その感触は未だに彼の手に残り、それ以来、右手の微かな震えが止まらない。女も子供も年寄も関係は無い、出会う異国人全てが敵。その恐怖と無情。彼は今も、目の前の惨状を見ている様で見ていなかった。意識を殺し感情を麻痺させ焼け焦げた遺体が発するおぞましい臭いを無視し機械的に処理をしている。どう見ても死んでいる遺体は捨て置き、損傷の少ない遺体を小銃の先で探る。小突いて反応があれば、そのまま頭を撃った。行動に対し心が考える事を拒否していた。これは人間が行なう事ではなく地獄の鬼の仕事だ。彼は鬼と化していた。
そしてその鬼が一対の目を、闇の中、切り裂くような懐中電灯の光にきらりと光るその目を捉えたのだ。
それは三十代のやや大柄な女の遺体の下、うつ伏せに斃れた女の腕に庇われたかのように見える小さな頭と大きな目だった。兵士は心の呪縛が解け、小銃を逆さにして台尻を遺体の下に入れ、梃子の要領で女を転がす。遺体の下から出て来たのは四、五歳の男の子。全く異様だった。子供は煤に汚れた真っ黒な顔にぎょろりと目ばかりが目立っていた。その二つの目は若い兵士を捉え、全く動かず言葉も発しない。
呪縛の解けた心は、その目を恐れた。
「おれをそんな目で見るな」
兵士は呻く様に呟くが子供に通じる訳はない。兵士が動くとその目も追った。見つめられる恐怖。あの出刃包丁を構えていた老婆の目、そのままに彼を・・・
「見るな!」
兵士は叫んで小銃の台尻を振り被り、考える暇もなくその男の子の顔に振り下ろした。
だが、正に子供の頭が潰されるかという瞬間、突然兵士は何者かに足首を掴まれ、バランスを崩した彼は前のめりに倒れる。その際に、銃の台尻は子供の顔、数センチ上を掠めて岩床にぶつかり、兵士の手から離れて落ちた。
小銃が岩床に叩き付けられた反動で横倒しとなった兵士は、完全に我へと返る。そして彼の足首を掴んだ手の正体を知って息を呑んだ。
死んだはずの女の右手だった。彼の足首を強く掴み、その顔は半分が手榴弾の爆発の衝撃で潰されていたが、残された右目は子供と同様に彼を見ていた。恐怖を感じて然るべきだった。だが、不思議なことに兵士が感じていたのは深い悲しみだった。女はどう見ても死んでいる。その女が死を超えても守ろうとした者、それが未だに彼を見つめていた。
兵士は、どうした?と駆け寄る戦友を手で押し止め、自分で足を掴んだ女の手を解く。かなり力を込めなければ解けないほど、女の手は彼の足首を強く掴んでいた。兵士はその手をそっと女の胸へ戻す。女の信じる神は彼の神とは違うだろうが、そういうことはこの際関係が無いような気がした。兵士は素早く十字を切ると女の手を組ませようとしたのだが、よく見ると、女の左腕は左肘から先が無かった。彼はゆっくりと女の腕を戻すと子供に視線を移す。子供は未だ彼を目で追っている。激しい疲れが怒涛の様に押し寄せた。立っているのもやっと、という具合だったが彼は危ういところで踏み止まる。
「ああ・・・もう、たくさんだ」
そう呟くと、子供を抱き上げた。子供は成されるがまま、彼に抱き上げられると自然にその肩にしがみ付いた。兵士は子供を肩に担ったまま、交通壕を出口へ向う。戦友たちは何も言わずに道を空けた。その先に爆発のショックが未だ収まらない、あの日本語の達者な将校が座り込んでいた。通り過ぎる兵士と目が会うと将校は頭を振って立ち上がり、兵士に続いて出口へ向った。
「中尉殿」
兵士は真っ直ぐ前を見ながら、後に続く将校に声を掛ける。
「何だい?」
「ごめんなさい、許してください。これを日本語で何と言うのですか?」
中尉は兵士の後姿を見つめながら、静かに答えた。
「『ゴメン、ユルシテ』、だ」
「ゴーメン、ユゥルステ」
兵士が口にすると、中尉は正して、
「ゴメン、ユ・ル・シ・テ」
「ゴメン、ユゥルシティ」
「ユルシ、テ」
「ユルシテ」
「そうだ」
すると兵士はその言葉を、箴言を唱える様に繰り返し、繰り返し口にした。
「ゴメン、ユルシテ・・・ゴメン、ユルシテ・・・」
子供は変らず無表情のまま兵士の顔を見つめている。兵士は大粒の涙を流しながら、それでもしっかりした足取りで、壕の中を光に向かって歩いて行った。